地理学あれこれ2
(Quora アーカイブ 2018/04〜)


 

2018年04月11日:近世までの日本、なぜ知識や技術が体系化されず?

  

  

  

  

  


 
 
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 ■2018年04月11日:

Q:なぜ近世までの日本では、知識や技術が「学」として体系化され、専門化されることなく、むしろ「道」として精神性を帯びたものとしてしか深化されなかったのでしょうか?

 江戸時代、全ての分野の知識や技術が「学」として全く体系化・専門化されていなかった訳ではありません。ただ、後述するような事情で、学術的な体系化・専門化が充分には進まず、「道」や「派」などの「家の芸」になってしまう分野があったことは事実です。詳しく書いていると「本一冊」になってしまうので、ここでは、天文学・地理学を中心に要点だけを列挙します。

 1.江戸時代、近代的な科学技術の始まりの多くは、初期には中国からの、後年にはオランダを経由してヨーロッパ各国から輸入された書物の購読、翻訳を出発点とした。大きな転換期となったのは、八代将軍徳川吉宗による蛮書解禁(キリスト教の布教に直接関わらない西洋の書物の輸入・所持を認めた)であった。
 2.したがって、実際に学術研究・技術開発の主体となったのは、西洋の学術に直接触れることができた通詞(通訳)達に始まり、次に興味に即して書物を購入できる富裕な商家・町民が続き、さらに関心をもった大名に指名された若手の武士・用人へと拡がって行った。
 3.特異だったのは、日本独自の「和算」が既に高いレベルにあり、「算額」といったやや趣味的な活動で競争も行われていた数学であった。その和算の頂点に立ったのが関孝和で、その門下が「関流」と呼ばれ、他の「派」と抗争したことなどで、近代数学へと連続することができなかった。この「流派」の問題は、安定・停滞していた江戸時代、学問が「社会の変革」の手がかりと言うより、茶道や芸事などと並ぶ「高尚な趣味」かつ「家業」と認識されていたことによると考えられる。
 4.江戸中期、天体観測に基づく正確な「こよみ」が必要となり、幕府に「天文方」が設置された。当初は特定の武家が任命され世襲で担当したが、後には全国から「研究実績」のある人々が(身分を超えて)集められた。江戸後期に中心となったのは煖エ至時(幕府用人)、間重富(大阪の商人)らであり、後に伊能忠敬、煖エ景保らも加わり、ヨーロッパ各国の地理学・測量学書の購読を通じて研究を重ねた。同時に測量器具の開発・製作なども進められ、それが伊能忠敬による「大日本沿海輿地全図」となって結実する。すなわち、ここでは天文学・測量学・地理学に関して相当の体系化・専門化が実現していた。
>  5.一方、医学を中心に発展していた「蘭学」では、組織化も体系化も不十分なまま一部の有力者が大名との結びつきを強めるなどして次第に「一門」、「家の芸」としての要素を強め、医家、翻訳家・通訳としての存在を超えないまま幕末を迎えることとなる。その代表とも言うべきは、6大将軍の侍医から代々将軍家に仕えた「桂川家」であろう。

 改めて、「体系化・専門化」が広範に起こらなかった背景を考えると、江戸時代の日本が事実上「連邦制国家」であったため、優秀な人材の抱え込み・奪い合いといったことが起こり、自由な交流を妨げたこと、安定・停滞していた江戸の社会では、科学技術も「趣味・芸事」のように位置づけられる面があったこと、これらの延長上に桂川家のような「権威」「名門」が生まれる一方で、組織的な学術の発展に繋がらなかったこと、などが挙げられます。
 その一方で、幕府直轄の天文方暦局のように現在の国立天文台と国土地理院を合わせたような高度な機関も誕生し、さらにそこから派生した後の「蕃書調所」は現在の東京大学の前身の一つとなっています。ただ天文方そのものは江戸末期の混乱の中でシーボルト事件と煖エ景保の獄死で弱体化、さらに明治維新というクーデターで倒された「前政権の一部局」であったことで、断絶してしまったのです。

参考:『日本科学史』, 吉田光邦, 講談社学術文庫、『月に名前を残した男-江戸の天文学者麻田剛立』,鹿毛敏夫,角川ソフィア文庫


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