平等と対等 <日本人の論理と社会>

平等と対等1 2005/7/9

 日本は「民主国家である」と殆どの人が考えているだろう。
 「国家」とは、単純化すれば、住民を「国民」として束ね、一定の土地を「領土」として管理する「制度」と考えることができる。その「制度としての日本国」は、憲法を中央に、普通選挙制度による議会、全ての国民に受験・就職の機会のある行政(官僚)組織、やはり全ての国民に受験機会のある司法試験合格者による司法組織、を中心として構成されている。
 この制度は、第二次世界大戦の敗戦後に、善かれあしかれ連合軍(実質的には米軍)の強い「指導」のもとに作られた制度が出発点となっており、基本構造としては間違いなく「民主制」を維持・発展させうる構造となっている。

 しかし、日本社会において民主制がイギリス、フランス等の西欧の国々と同様に機能するかどうかについては、一人ひとりの日本人の価値観、ものの見方、倫理観などの総体、すなわち日本の文化そのものに懸っている。
 残念なことに、日本における日々の社会の営みの中では、民主制が根づいているとは決して思えない例が数多く見られる。それは、例えば、明るく楽しくプレイするべきベースボールが、いつの間にか選手個々の創造的なプレイを全て抑圧し、異常に勝敗にこだわる「野球道?」になってしまったことと良く似ている。

 西欧型の民主制は「全ての個人は基本的に対等である」ということから出発する。そして、その対等な多数の個人が、様々な問題について徹底的に議論し「合意形成」しながら社会や国家を動かしていく、という考え方である。
 実際にこのようにシンプルにことが運ぶわけではなく、多くの国が官僚組織の肥大や、合意を否定する思想的対立に悩まされているのだが、それでも「対等なすべての個人」という基本原理は人々の精神に深く根づいている。

 日本では「平等」という言葉が好まれる一方で「対等」はあまり好まれない。しかし、私は「対等」と言うことばにこだわりたい。それは、例えば社会の最小単位と言うべき夫婦の間で「私と妻(夫)とは、すべての面で対等である」とは言えても「平等である」とは言い難い。これは、この2つの言葉には隠れた「視点のちがい」があるからである。
 「対等」と言うとき、そのことばの視点はその対等な関係にある人々の中にある。すなわち、話者は当事者である。一方「平等」と言うとき、そのことばの視点はその平等な関係にある人々の中にはなく、より高いところに位置している。要するに「あなた方は平等です」という話者は、その平等の地平には居ない。

 つまり、本来の民主制とは、一人の庶民が国王に向って「私とあなたは対等だ!」と言った瞬間から始まったのであり、誰かが「みんな平等なんだよ」と言ってくれたからではない。日本の社会では、ここが巧みにすり替えられているように思えてならない。


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平等と対等2「談合と競争」 2005/7/14・16

 日本では、メディアの報道に描かれる「できごと」が、関係者が知る実態とは極端に異なるという事例が少なくない。そのことを、社会の「闇」の深さと見るかマスメディアの無力あるいは怠慢と見るかは様々であろうが、このようなズレが多いこと自体「民主的な社会」を目指す上では決して好ましいことではないはずである。
 今回とりあげるのは、まさにこのズレが極限的に大きい例である「談合」である。

 報道では、「談合」は常に「自由競争であるべき企業群が互いにこっそり手を結んで役所を騙し、国民の収めた税金で行われる公共事業をボロ儲けの手段とした」という話になる。そしてメディアは「土建業界の体質」を非難し、国民になり代わって断罪する。
 もちろん、そのとおりの事件も無いわけではないが、実は膨大な事業の中では極く一部である。では、殆どの公共事業(むしろ「公共発注」と呼ぶ方が判りやすい)は公正に「競争原理」のもとで行われているのだろうか。それも答えはNOである。
 競争入札による発注手続の「規定」が完全に守られ、そして自由価格競争という「理念」が実現されていることを基準として判断するのであれば、公共発注の大部分はそうではない、すなわち殆どの発注において何らかの意味で「談合」が行われていると言っても過言ではない。
 判りやすくするために、問題を少し大雑把に整理して話を進めよう。  公共発注を、「どこの企業でも同様に引受けられる業務」と「能力や技術の問題で特定の企業しか引受けられない業務」に分けて考えると、前者においては、一応上記の「(理想的)競争入札」が可能であるのに対して、後者については難しいことが判る。
 実際の発注業務では前者のタイプが数的に多くを占めている。では「自由競争」できそうなものではないかと考えがちであるが、ことはそんなに簡単ではない。

 農林水産業を除いて、どんな僻地の小さな村にも存在する産業が2業種ある。その一つは「サービス業(ただし行政機関)」であり、もう一つは「建設業」なのである。商店も工場も無い村でも建設業は必ず存在する。そして、台風で崩れた道路の補修工事や老朽化した橋の補強工事などといった「公共事業」に、地元の(農閑期の)中高年労働力を動員している。
 この公共土木事業の賃金は、過疎地であればあるほど村民の総所得の中で高い割合を占めているのが普通である。でも、「完全な価格競争」が行われていれば、その村の工事を常に村の企業が受注できるはずが無いではないか。
 実際は、大手ゼネコンー地方中堅ー地元零細という形で組織的に受注/発注が行われ、末端は常に地元企業ー地域(住民)労働者で構成される。つまり、途切れることなく繰り返される公共土木工事というのは、実際は全国規模での「所得再配分システム」として機能しているのであり、それ故にこそ、直接であれ迂回であれ常に地元企業が落札(受注)しなければならないのである。

 一方、後者のタイプの業務ではどうなるだろうか。
 入札を行うためには、参加する企業に見積りを作らせるための「仕様書」や「説明資料」が必要であるが、ある程度以上高度な、あるいは先端的な業務になると、その資料自体、特定の企業(の技術者)にしか作れないという状況も珍しくない。結果としてクイズの出題者が回答者の一人である、というような妙な事態が発生する。
 こうした場合、発注側(役所)の主導による「談合」が行われることになる。要するに、ある会社が秀でている特定の業務をそこに発注するために、見せかけだけの競争入札を行うのである。そこに形だけ付きあうことになる競争各社は、通常は受注する(ことになっている)企業が集めるのであるが、場合によっては発注側が集めることさえあるのである。
 このようなケースは、もともと競争入札で企業を選ぶことが適切ではないのであり、そのために、近年単なる受注金額の競争ではない「事業コンペ」や「提案競技」のような形に移行する傾向も見られる。 

 言うまでもなく、先に挙げた2例のいずれにも該当しない、明らかに企業犯罪としか言えないような談合も存在する。最近報じられた鋼鉄橋の場合などもそれに当たる。ただ、このような事件が起きる事例の殆どが、強力な「行政指導」によって、企業が無理矢理再編成されたような業界に極度に集中していることは無視できない。
 つまり、もともと政策的な介入によって「自由競争」が阻害されている業界に、この種の犯罪が多いということである。その典型が、独占企業である「道路公団」の関連企業で起きているではないか。
 この種の「談合」の根元は「業界の団結」と「政策的指導」にあるのである。例えば、タクシー料金の値下げを申請した企業に対して、既存業界の反発はともかく、政府出先機関までが許認可を出し渋ったという件に典型的に現れている。
 日本政府の産業政策には、かつて「護送船団方式」という言葉があった。造船業界がその代表であったが、後には政府が重要と考える全ての産業に拡大していった。バブル崩壊後、アメリカ追随を強めた政府はこの政策を廃止し始めたが、最後までこの政策の下にあったのが銀行業界である。この「護送船団方式」こそ「政策談合」と呼ぶべきものであった。
 現在でも、殆ど全ての業界に社団や財団といった公益法人格をもつ「業界団体」があり、そこには必ず監督官庁出身の理事がいて「調整と指導」に当たるという形が存在する。そこで最も重要視されるのが「業界の秩序」なのである。

 「談合」をめぐって言いたいことの第一は、殆どの場合「談合」は発注者側の意に反する形ではできない、すなわち発注者が許しあるいは望むという構造の下でしか発生しないということである。そして第二は、日本人は本当に「競争」が至上の原理であると考えているのだろうか、もう一度原点に戻って考えてみるべきではないか、ということである。
 日本人は誰でも参加できるオープンな「競争」よりも、閉じたサークルの中で「力をもつ者が全体を支配し、その下でメンバーが相互に牽制しあう」形を好むようである。そして、その中でメンバーは競争するのではなく、仕事や利益を「平等に!」分けあい、協調していくことが「正しい」と考える傾向がある。このような状態を日本人は「秩序」と呼び、これこそが望ましい社会のあり方と考えているように見えるのである。
 上の文章のサークルを業界に、支配者を官庁に、メンバーを企業に置き換えて見ると、談合はメディアが時々思い出したように報道する「事件」などではなく、むしろ日本社会がもつ「談合的価値観」が生み出す一般的行為てあることが見えてくる。
 談合の多くは、一部の悪質な企業による犯罪というよりも、文化=価値観に根差した「商習慣」と国際標準を基とする「法規」という二重の基準、すなわちダブル・スタンダードの公然たる「使い分け」から生じている。そのために、当事者に罪悪感など無いし、真の意味で反省することなどあり得ず、ほぼ絶対に無くならないと言えるのである。


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平等と対等3「個人と組織」 2005/7/21

 「郵政民営化法案」が衆議院本会議で可決された。今度は参議院である。
 この法案、と言うより法案の作成・提出手続に大きな問題があることは明らかである。なぜならば、提案主体である政府は自民党中心の連立内閣であるにもかかわらず、その自民党内部の合意形成ができぬまま提案された法案だからである。しかし、ここでとりあげるのは法案そのものの内容や小泉純一郎という政治家の政治手法といったことについてではない。

 衆議院本会議直前に、自民党の武部幹事長は苦り切った表情で「政党人としての本分に立ち返って・・」と語った。「政治家としての本分」でも「代議士としての本分」でもなく「政党人」である。日本の議会制民主主義なるものの本質が、この一言に凝縮されているではないか。
 つまり、国家の将来を真剣に考えて判断することではなく、自分を選んだ選挙区の人々の意見を代表することでもなく、党首の決めたことに従うことが本分だと言うのである。
 価値観や政治思想の大枠において一致する人々が集まって、政治活動の力や効率を高めようとするのが「政党」である。しかし、それ以前に、個々の政治家は民主制の根幹である選挙によって選ばれた人であり、自己の政治的信念と選挙民の意向以外のなにものにも左右されてはいけない「独立」「対等」の立場にある人々の筈である。
 アメリカ、イギリスは「2大政党制」と言われる。2つの政党の議席数はどちらも6対4程度である場合が多いのだが、それでは6割の議席をもつ政党の意見が常に・全て通っているのだろうか。細かい議案はそうであるが、重要な議案になるとそれぞれの党員の中でも意見が割れ、否決されたり大幅に修正されることも珍しくない。本来、議会における「演説」とは、その説得力によって所属政党を問わず他の議員の意見を変えさせるために行うものであった。その力によって個々の議員の判断が「動く」からこそ、演説にも議会にも意味があるのである。
 個々の議員が自分で判断することを止めて単なる1票に過ぎない存在となってしまったら、その瞬間から2大政党制は1党独裁に変わってしまうのである。
 議論の展開によって意見が変わることなど絶対にあってはいけない、党首の決めたとおりに投票するだけで良い、というのが「政党人=議員の本分だ」と言うのであれば、絶対に2大政党制などにしてはならない。単独では過半数をとれない少数政党が多数連合する形が必要となる。しかしその場合は、結局「党首の数」の議員だけで議会をやっているのと同じことになるだけなのであるが。
 これは政党や議員だけを貶して済む問題ではない。自民党員の中で法案に反対した議員のことを「造反」などと表現したのはマス・メディアだからである。自己の政治的信念に基づいて議案に反対することは、議員の行動として当然であるのに、「造反」とは一体誰に対して「反」だと言うのだろうか。ここでも、メディアまで民主制の根本を忘れてあるいは目を反らして、党首=権力者の指揮のもと党員は一糸乱れぬ行動をとるのが本来だ、と決めつけているのである。
 話を戻すと、最も醜悪だったのは「議場を出た」議員である。元外務大臣までやった人物が「(党の決めたことに)反対投票まではできない」などと発言しているのが報じられたが、そんな訳の判らない理由で国会の議決に参加しない国会議員など、診療拒否の医者以下である。彼を選んだ選挙民の意見を聞いてみたいものである。


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平等と対等4「党首討論」 2005/8/29

 平等と対等というテーマを論じるのに、丁度よい事件が起きた。
 25日、民主党が自民党に対して1対1の党首討論を申し入れたのに対し、小泉“総裁”および自民党がこれを拒否している件である。

 まさに、民主党が“対等の”討論を求めたのに対して、自民党が“平等ではない”と拒否しているのである。さらに、正式申し入れの前の段階で小泉氏は記者団に対して「(他党も)公平に扱わなきゃ」と発言している。
 「扱う」とはどういうことなのか、“誰が”誰を公平に扱うというのだろうか。ここに、「与党と野党は“対等”ではない」「自民党はすべての政党を平等に“扱う”のだ」という差別観ないしは主従観とも言うべき傲慢な意識が見事に表れている。

 民主党が言う「政策論争を回避」というのはある面で事実であろう。しかし、「絶対にやらない」のではなく、「全政党一緒なら良い」というのはどういうことなのだろうか。
 全政党参加の討論において、自民党はよく“先制攻撃”を仕掛けることがある。多くの場合、そのテーマは北朝鮮に対する姿勢、安保体制への態度、党員の個人的不祥事などであり、攻撃対象とするのは共産党、社民党が中心である。
 そして、その種の“攻撃”と相手政党の“反論”が続くことで時間はどんどん消費され、結果的に政策論争の時間は無くなるのである。
 また、多くの政党が参加することで、1党あたりの時間は少なくなるし、議論は必然的に政府の政策をめぐる“批判”と“反論”という形に収斂してしまう。この形では、観客に対して“実行した側”と“しないで批判する(無責任な)側”というイメージを作り出すことが可能であり、特に小泉氏はそこに引き込むことを得意としている。

 やってしまった政策の批判ではなく、これからの政策について、有権者に選択肢を提示する、説得力を競う、ということは極めて重要であり、その意味で民主党の提案は正しい。“不平等”などというが、議員内閣制のわが国において、中心となって政権を担う可能性のある(それだけの議席を獲得し得る)政党は、現実に民主党しかないのだから、小泉氏・自民党の拒否理由は明らかに詭弁である。

 小泉氏・自民党首脳らは、日本を率いる(支配する)“われわれ”と、単なる批判勢力でしかない“野党たち”、という構図の中でしか行動しようとはしないし、その構図が永久に続くべきだと考えている。そのため、自民党対各野党といういわば“タテ”の関係のもとでの“弱者の平等”にはこだわっても、自分たちが他の政党と“対等に”政策を議論することなど考えられないのである。

 この党首討論の行方について、日本の各メディアや有権者がどのように考え、発言していくのかということに、この国の“民主制”の将来がかかっていると言っても過言ではない。


<衆院選>1対1の党首討論、自民が再度拒否
 自民党の武部勤幹事長は27日、同党との1対1の党首討論を再度、申し入れた民主党の岡田克也代表に対し「自民党と民主党だけの党首討論は他の党に公平ではない」として、改めて拒否する文書を送った。これに対し、民主党の川端達夫幹事長は「政策論争を回避し、争点隠しをしている」とのコメントを発表した。 毎日新聞(2005年08月28日)


民主、小泉首相に党首討論申し入れへ 首相は拒否の意向
 ・・・・・・・・・・・・これに対して、首相は同日夜、自民党本部で記者団に「党首討論は、みんなとやりますよ。公平に扱わなきゃ」と述べ、岡田氏と2人だけの討論は拒否する意向を示した。・・・・・・・・・・・・・・ AsahiCom(2005年08月24日)


 
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