現代社会を考える (ブログ・アーカイブ 2004〜2006)


 

2006年12月04日:礼拝禁止

2006年10月22日:「首相」とは何か

2006年08月28日:マンションへの政党ビラまき事件

2006年08月03日:プール<吸い込まれ>事故

2006年07月06日:ミサイル発射

2006年06月27日:公文書電子化

2006年06月01日:定住外国人

2006年03月16日:ウィニーと官房長官

2005年11月29日:無免許で助産行為

2005年11月10日:日本の人種差別

2005年09月16日:今、そこにある危機

2005年09月12日:小泉ポピュリズムの圧勝

2005年06月03日:街頭募金について

2005年06月01日:車が出庫します

2005年05月03日:有森裕子は何と言ったのか

2005年05月02日:堀江貴文氏の話し方

2005年04月20日:史料復刻と差別表現

2005年03月16日:「振り込め詐欺」の病理

2005年02月19日:報道されないこと

2004年08月24日:沖縄米軍へり墜落事故について


 
戻る

 

 
 
 ■2006年12月4日:礼拝禁止

 吐き気を催すような事件というのが実際にあるものだ。
 まず、何よりもこの研修生が引きずり込まれた過酷な環境についてである。「文書」の形で明るみに出たことで新聞記事になったのだろうが、こんなことを平気で行なっている企業の中で、記録に残らないいじめ、嫌がらせがどれだけあったかと考えるといたたまれない。例えば、イスラム教徒であれば豚肉は食べられないから、もしも食事に豚肉ばかり使われたらすぐに栄養失調になってしまうだろう。(そのかわり毎回一人分は“浮く”ことになる)
 第二に、この経営者の醜悪さに身の毛がよだつ。“無知”“無理解”などという逃げ道を断じて与えてはならない。ヨーロッパの一部で起きているイスラム教徒いじめのニュースなどをどこかで見て、早速とりいれたのに違いないのだから。もともと根強い下劣な差別意識(理由など何でも良い)や嗜虐性に、格好のネタが見つかった、ということだろう。もしも、この“縫製企業”にアメリカの取引先から見学に来た若手の白人社員が食事の前に十字を切ったとしても、それを禁止するなどとは考えもしないだろうと思う。単なる長時間労働や賃金ピンハネならば、(許すべきことではないが)ここまで不愉快なことではない。
 第三に、吐き気を催すのは、この経営者を“正しく罰する”法律がこの国には無い、ということである。法務省は国際人権規約など持ち出しているが、なによりも日本国憲法の規定を完全に踏みにじっているではないか。改めて驚愕するのは、憲法が基本的人権についてあれほど真剣に細かく定めているにもかかわらず、それを犯す行為についての法整備が徹底的に不完全であるという事実である。例えば、この経営者の行為は国際標準では“立派な人種差別”に当たるのだが、日本には(国連の再三の勧告にもかかわらず)人種差別禁止法が存在しないのである。
 「日本には“人種差別”は存在しないから」人種差別禁止法など要らないと主張してきた政府は、きっと「労働(あ、研修か?)条件の是正勧告」程度でごまかすことにするだろう。経営者には「・・な、国際人権規約なんてのもあって、いろいろうるさいから・・」とでも説得するのだろうか。

東日本の縫製工場、イスラム教徒研修生に「礼拝禁止」
 外国人研修・技能実習制度で来日したイスラム教徒のインドネシア人女性の受け入れ条件として、東日本の縫製工場が日に5回の礼拝や断食を禁止する誓約書に署名させていたことが、わかった。
 読売新聞が入手した誓約書では、宗教行為のほか、携帯電話の所持や外出など生活全般を厳しく制限している。
 法務省は、入管難民法に基づく同省指針や国際人権規約に反した人権侵害行為の疑いがあるとしている。
 誓約書は、禁止事項として〈1〉会社の敷地内でのお祈り〈2〉国内滞在中の断食〈3〉携帯電話の所持〈4〉手紙のやり取り〈5〉家族への送金〈6〉乗り物での外出――の6項目のほか、午後9時までに寮に帰宅、寮に友人を招かないという2項目の「規則」も明記している。
(読売新聞) - 12月4日17時24分更新


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 ■2006年10月22日:「首相」とは何か

 安倍晋三氏を首相とする政権が発足してまもなく1ヶ月である。
 報道を通じて伝わってくる安倍首相および政権の特徴を考えてみる。
 就任直後の記者会見などで非常に不愉快だったのは、安倍首相が何度も発言した「国民に語りかけて・・・」という言葉である。「・・語りかけて行きたい。・・直接語りかける、お話する機会を多くしたい。・・」などと繰り返された。
 また、首相本人ではないが、自民党の議員の発言の中に「新しい“指導者”として・・」という意味の言葉が多く見られたことも非常に気になった。
 例えば、イギリスにおいてブレア氏を国民の“指導者”とは決して言わない。ドイツの首相についても同じである。国家の最高権力者が“指導者”と呼ばれ、何かと国民に語りかけるような国は要するに独裁国家である。最も分りやすい国はまさに北朝鮮であり、過去にはナチ・ドイツやポルポトのカンボジアがあり、毛沢東時代の中国もそうであった。
 国民の精神的指導者も必要であると考える国の多くは、政治権力と分離するために首相と別に大統領職を設けたり、国民の多くが信仰する宗教の最高指導者がそれを担うという例が見られる。前者はヨーロッパのいくつかの国で、そして後者はイスラム世界で広く見られる。ローマ法皇というのも後者の極端な例と言える。
 その中で際立って特異なのは「アメリカ合州国大統領」という存在である。ここでは深入りしないが、旧いヨーロッパへの根深い劣等感と憧れから作り出されたこの奇妙な存在は、事実上は単なる政治権力者に過ぎないにもかかわらず、(家族まで含めて)アメリカ国民の「模範」「精神的指導者」というフィクションに包まれているのである。
 夫が政治家として成功しただけなのに、その妻を「ファーストレディ」と持ち上げる臆面の無さ、節目ごとに国民に向けて発表される大統領の「報告」に“教書”と名付ける尊大さに、ヨーロッパの政治家たちは辟易するのである。
 民主制が確立している(筈の)国であれば、議院内閣制すなわち間接的に国民によって選ばれた「首相」や「主席」は、あくまでも政治運営を“託された”存在なのであって、断じて“指導者”などではない。であるから、首相が国民に対して為すべき事は、なによりも率直で明快な「説明」と「報告」でなければならないのであって、“教えを垂れる”ことなどもってのほかである。
 自分の“ことばを聞く”ことを多くの国民が熱望し、自分が国民を“指導”して「美しい国」を“創る”のだ、などと考えているのだとしたら、日本国民と自由民主党は、戦後最悪の危険きわまりない政治家を代表に選んでしまったことになるのではないか。


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 ■2006年8月28日:マンションへの政党ビラまき事件

 葛飾区の「マンションへの政党ビラまき」事件についての東京地裁の判決が出た。
 公判開始の時にブログ(旧)でとりあげて以来注目していたが、とりあえず妥当な判決が出て良かった。
 この事件については、もちろん言論の自由やマンション管理の問題が中心であるが、もう一つ別の問題が潜んでいる。
 それは、昨年のブログでも指摘したが、特定の(合法的な)政党の活動が気に入らない個人が、警察及び司法制度を利用して私的に“弾圧”しようとした、という側面である。裁判所が、このような企みに“乗ってしまう”のかどうか、という点が注目された。仮にそうなってしまうと、次には全国で特定の政党の広報活動に対する「一般市民?」による“逮捕・告発”が続発することになりかねず、それは言論・政党の自由を大きく制約するどころか、やがては議会制民主主義の実質的な圧殺につながるからである。
 事件・裁判における「告発市民」の異様な行動・態度と、今回の1審判決の市民常識に沿った平静さを比べたとき、もしも検察が上告するようであればそれこそ「日本の危機」であると言わざるを得ない。

マンションへの政党ビラまき、被告に無罪判決 東京地裁
 東京都葛飾区のマンションに04年12月、政党ビラをまくために立ち入ったことで住居侵入罪で起訴された被告の住職荒川庸生(ようせい)さん(58)に対し、東京地裁は28日、無罪(求刑・罰金10万円)を言い渡した。大島隆明裁判長は近年の住民のプライバシー、防犯意識の高まりに触れつつ「ドアポストまで短時間立ち入っての配布が、明らかに許されないという合意が社会的に成立しているとはいえない」と判断。荒川さんの立ち入りには「正当な理由がある」として住居侵入罪の構成要件を満たしていないとした。
 判決はまず、「どんな時に立ち入りが許されるかは、社会通念を基準に、立ち入りの目的・態様に照らし、法秩序全体の見地からみて社会通念上、許される行為といえるか否かで判断するほかない」との判断枠組みを示した。
 そのうえで「立ち入りの滞在時間はせいぜい7、8分」と短時間だったことを重視。さらに、▽このマンションではピザのチラシも投函(とうかん)されているが、投函業者が逮捕されたという報道もない▽40年以上政治ビラを投函している荒川さんも立ち入りをとがめられたことはない――と指摘。「現時点で、ドアポストに配布する目的で昼間に短時間マンションに立ち入ることが、明らかに許されない行為だとする社会的な合意がまだ確立しているとはいえない」と述べた。
 判決は、明確な「立ち入り禁止」の警告に従わずに立ち入れば住居侵入罪にあたるとしたが、このマンション玄関の張り紙では、「明確な立ち入り禁止の意思表示がされていない」と指摘し、立ち入りに正当な理由があると結論づけた。
 ーーー中略ーーー
 無罪判決を受け、岩村修二・東京地検次席検事は「検察の主張が理解されず遺憾だ。判決内容を検討し、上級庁とも協議の上、控訴の要否を判断したい」とのコメントを発表した。
 (Asahii.com 2006年08月28日12時33分)



2005年11月20日のブログ(旧チェシャ猫の微笑み)の記事

住居侵入
 なかなか凄い社会になってきた。
 この“住民”は、これまで、「マンションの廊下で各戸にビラ(例えばピザ屋のメニューとか、便利屋のチラシ、新聞の購読勧誘ビラなど)を入れる人間」を、見つけ次第全て“逮捕”して警察に突き出していたのだろうか?
 この事件当時の報道から考えても、そんなことはないようである。
 おそらく、この人物(住民)は、特定の政党のビラを配布すること自体が許せず、その人間を“逮捕”し、「法律を適用して罰してほしい」と訴え、その理由として「治安が悪く・・」と言っているのである。それも、「治安が悪化したので何が起きるか予知できない」から氏名・職業も明らかにせずに、である。
 私はこの事件のビラの発信元である政党については全く支持していないが、こういう“住民”が増えることは、「思想信条の自由」や「言論の自由」が大っ嫌いで、「独裁的国家支配」こそがあるべき姿だと考えている権力者にとって、夢のように素晴らしいことだろうね。


「住居侵入で罰すべき」 通報住民が証言 政党ビラ配布

 政党ビラを配るためにマンションに立ち入ったとして住居侵入罪に問われた男性(58)に対する公判が14日、東京地裁であった。男性をとりおさえて警察に引き渡したマンション住民が出廷し、「無許可でマンションに立ち入るのは住居侵入罪。法律を適用して罰してほしい」と訴えた。

 住民の証言によると、マンションの廊下で各戸に政党ビラを入れていた男性に「速やかに出て行きなさい」と注意したが、「正当な政治活動です」と言って出ていかないので、私人として現行犯逮捕し、警察に通報したという。

 その理由として住民は「治安が悪くなり、ピッキングなどの不安もある。敷地や建物に住民の許可なく入ってはいけない」と述べた。

 尋問は住民と傍聴席をついたてで遮って行われ、住民の氏名、職業も明らかにされなかった。弁護側は「公開の原則に反する」と抗議したが、住民は「私を知ってほしいという気持ちはないし、治安が悪化したので何が起きるか予知できない」とし、裁判所はついたての使用を認めた。
 (Asahi.Com 2005年11月14日21時25分)


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 ■2006年8月3日:プール<吸い込まれ>事故

 仲間のブログが、この事件について論じている。
 “姫”は「これは殺人だ」と怒る。ある意味ではそのとおりだ。
 “もやし”は<下請けー孫請けーパートーバイト>といった雇用構造から必然的に形成される無責任構造と、急激に進む階級社会化(“格差社会”などという呼び方はまやかしだ)を指摘し、この事件は「現代の縮図」であるとしている。
 しかし、僅かな時給で雇われ、必要な指導も受けていない高校生バイトに“子どもの死”の責任を問えるのか?
 まともな社員を常駐させることもできないような低い委託費で仕事を受け、バイトまかせにした孫請け企業には、確かに相当の責任があろう。
 同様に、自社の社員では担当できないような価格、あるいは処理しきれない量の仕事を敢えて受託し、発注元に無断で孫請けに丸投げした下請け企業の責任も決して小さくない。
 そして、委託先企業の実態を正しく把握せず、再委託の事実にも気付かなかった(本当だろうか)市にも責任があることは言うまでもない。
 警察の仕事としては、現場責任者を業務上過失致死で送検し、孫請け企業の経営者にも管理責任を問うことで終わりである。民事訴訟も起こされ、この孫請け企業はおそらく廃業に追い込まれるだろう。
 しかし、公務員の数(日本は他国より多いというのは真っ赤な嘘である)をやみくもに減らし、何でも民間委託するべきだ、と主張する政党・政治家を選挙で選んだ多くの人びとに、果たしてなんの責任も無いのだろうか。
 かつては、市民(町民)プールは“公営”であり、そこで働く職員は“公務員”であった。そこでは“効率”や“費用対効果”は無視されがちで、無駄遣いとして攻撃されることも多かったが、使命感や誇りをもって働く職員も少なくなかった。
 しかし、官営は悪・企業は善というキャンペーンが執拗に繰り返される中で、「民でできることは民に!」と絶叫し「役人の数を減らすことが日本の為だ」と断定する総理大臣は圧倒的支持を集め、一方で地方交付税の削減というかたちで市町村の財政は圧迫され、その結果としてほとんどあらゆる公共施設が今では“民営化”あるいは“民間委託”されている。
 本来の民間企業のプールではこの種の事故はほとんど起きていないが、そこには高額な利用料金による十分な管理、という言わばプラスの循環がある。
 一方、今回の事件のような施設では“公共サービス”という原則から高額な料金は設定できず、設置者(市)は財政難もあって予算を削り、結果的に能力・体制に問題の有る零細企業が受託するというマイナスの循環が起きている。
 このような事件が続けば(残念ながら続くだろう)、やがて安全を確保できないことを理由に低価格の公営プールは全て閉鎖され、高額な料金をとる民営プールだけになるだろう。それが今進んでいる“改革”の将来像なのだから。
 「悲しいできごとではあるが、これも“官から民へ”という改革の痛みの一つだ」と言い切るのだったら、(賛否は別として)いっそ潔いと言えるが、その種の“改革”は支持しておいてこの事件では“犯人”を探して憤激するというメディア(全てではないが)の無責任さも相当なものである。


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 ■2006年7月6日:ミサイル発射

 北朝鮮(これは始めから敵対的な呼称である)・朝鮮民主主義人民共和国(正式だが長い!以下ではDPRKの略称を使う))が各国の制止を無視して弾道ミサイルを発射した。
 この7発のミサイル発射については、DPRK政府独特の国際的非常識の一部として、および6カ国協議における申し合わせ事項の公然たる無視という意味で、きわめて異常な行動として非難されなければならない。
 しかし、こういう時にこそ、事実を冷静に見ることも大切である。
 ミサイルはどう見ても「ロシア沿岸」に向けて発射されている。特にスカッドかノドンと見られる中距離ミサイルは、ロシアの領海にきわめて近い海域に着弾しており、被害が出るとすればロシア沿海州の漁民である。
 また、失敗したと見られている3発目(テポドン2号?)が正常に2段目に着火したとしても、着弾地はアリューシャン列島付近になったと想定される。
 このような状況にも関わらず、今のところロシア政府が激怒する様子はない。ロシア側の落ち着きぶりからは、事前にDPRK側から何らかの通告があったのではないかとも考えられる。
 いずれにせよ、日本にとって現実に危険を感じさせる行為ではないにも関わらず、日本の一部の政治家はまるで非常事態であるかのような気色ばんだ態度を見せ、マスコミは政府発表をそのまま垂れ流して、日本近海に「向けて」ミサイルが「撃ち込まれた」かのような表現を繰り返している。街頭インタビューに「怖いです!」などと答える市民が少なくない(ように報道され続ける)ことに、私はむしろ恐怖を感じる。
 こちらに向いてなくても、ミサイル発射という行為自体が「許せない」、「恐怖」を感じるのは当然だ、と言うのだろうか。それでは、毎年行われる「米韓軍事演習」でいったい何発のミサイルが発射されているか、と問いたい。さらに、今現在、パレスチナの市街地に好き放題にミサイルを撃ち込み、多数の死者を出しているイスラエルという政府は許されるのかと。
 このようなDPRKの行動に対して「日本に軍事大国化の口実を与える」ものだから許されない、という意見が、韓国を中心としてアジアに広く存在することも忘れてはならないだろう。


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 ■2006年6月27日:公文書電子化

 行政改革、業界との癒着を排除などと表向きは言いつつ、またまた何を始めるのやら。
 危機管理・有事対応との関連をほのめかし、情報システムなどと難しそうに言えば何でも仕組めると思っているのだろう。

asahi.com 2006年06月27日06時20分
公文書電子化、市販ソフト利用に警鐘 官房長官諮問機関

 安倍官房長官の私的諮問機関「公文書等の適切な管理、保存及び利用に関する懇談会」が公文書の保存に関する報告書をまとめ、電子データ化した公文書を長期活用するために新システムを開発するように提言した。

 電子データ化した公文書の多くは市販ソフトを使っており、ソフトを作る企業が倒産すれば文書の閲覧が出来なくなる恐れがある。技術の進歩で旧式のファイルが使えない可能性もあり、「私企業のソフトに依存していればそのファイルを何十年先でも見られるかどうかは分からない」(内閣府幹部)と判断した。

 公文書のうち、「法律を閣議にかける」「許可法人を新設、廃止する」などの決裁文書は、省庁間の申し合わせで30年間保存することになっている。しかし、ほとんどが「現物保存」となっているため、政府は電子データ化を進めている。


「公文書の多くは市販ソフトを使っており、ソフトを作る企業が倒産すれば文書の閲覧が出来なくなる恐れがある。」
 これは真っ赤な嘘である。
 第一に、文書ファイルには事実上の標準様式(デファクト・スタンダード)が確立しているので、そんな突拍子もない様式のファイルは存在しない。
 第二に、各社のソフトで作られる文書ファイルを、横断的に読み込み、あるいは相互に変換するソフトを専門に開発する高い技術をもつ企業があり、彼等に任せれば“読めない”文書など存在しない。

「技術の進歩で旧式のファイルが使えない可能性もあり」
 これもデタラメ
 「最新の文書ファイル」を「旧式のソフト」では読めない、というケースはいくらでもあるが、その逆はほとんど有り得ない。この原則を示す「下位互換性の確保」という原則が、コンピュータ業界には厳然として存在する。

 この2つの大嘘に依拠して、またまた無駄なことに税金をつぎ込もうと企んでいるのだろう。「公共が開発」というと、なぜか民間が同様のものを開発するコストの10倍以上になるのが常であるし、これまで「開発」したソフトで実際に価値を発揮したものなど殆ど皆無と言っても過言ではない。


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 ■2006年6月1日:定住外国人

 民主制をとる国家の場合、何らかの方針の選択・決定にあたっては常に「そのことを決める権限」の所在を明確にすることが必要である。そして、それが「国民主権」という大前提のもとで公明正大に行われているか、ということを監視し、問い直し続けることが不可欠である。
 それを一瞬でも怠ると、官僚組織は必ず“緊急”とか“高度に専門的”などという口実のもとに暴走を始め、一部の政治家と組んで“官僚独裁国家”や“警察国家”への道を推し進めようとする。

 「定住外国人の在留者数に“上限”を設ける」という案が法務省のプロジェクトチーム(行政制度上は、公式には何の権限も責任も無い)でまとめられている、という報道があった。(下記)
 「日本という国が定住外国人をどのように受け入れるのか」というのは、社会・経済・内政・外交・文化・教育などあらゆる面に広く関係する、言わば“くにのかたち”に関わる大きな問題である。
 それを、「法務省内の入管、刑事、民事各局の担当者で構成」するような非公式のグループで議論し、あたかも国家的意思決定の重要な素案のようにして出すと言うのである。これはまるで、日本の「貿易のあり方」を「税関職員」が決める、というのに等しい無茶苦茶な話である。

人口比3%、定住外国人に上限=日系人在留「定職」要件に−法務省PT

 入管行政の改革を検討している法務省プロジェクトチームの責任者の河野太郎副大臣は30日、同省で記者会見し、近くまとめる改革案について、総人口に対する定住外国人の上限を3%とすることを盛り込む考えを明らかにした。また、日系人の在留条件を「定職と日本語能力」に改めることも打ち出すとしている。今後、各省庁や経済界などの意見を聞き、法改正も検討する。
 プロジェクトチームは河野氏の下、法務省内の入管、刑事、民事各局の担当者で構成され、昨年末から検討を重ねてきた。 
(時事通信/Yahoo  5月31日1時1分)


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 ■2006年3月16日:ウィニーと官房長官

 ウィニー+ウィルスによる「情報の流出」という事件が続出している。 "事件" そのものの基本的な意味については後で触れるとして、この件について安倍官房長官が“国民に”語った、というニュースは不愉快極まるものである。
 彼は、それがまるで“有事”の一種であるかのような口ぶりで国家の危機を強調し、 "情報漏洩" を防ぐことが急務であって、「国民の皆さんはウィニーを(自分の)PCに入れないことが第一です」と結んでいる。
 この発言には見過ごすことのできない“すり替え”と“傲慢”とが含まれている。
 すり替えと言うのは次のようなことである。
 ウィニー+ウィルスによる情報流出が、個人のミスでは済まない「社会的な事件」となるためには、以下の2つのいずれかの条件が必要である。
 第一の条件は、機密情報・個人情報を扱う職員が、自分が使う職場のPCに "勝手にウィニーを入れ" そのために職場のPCの内部にある情報が外部に流出した場合である。
 第二の条件は、本来職場から持ち出してはならない機密情報・個人情報などのデータのコピーを、何らかの記憶メディアを用いて職員が "勝手に持ち出し" て自分の (ウィニーを入れた) PCに入れ、そのために個人のPCの内部に複製された情報が外部に流出した場合である。
 警察庁や防衛庁の“漏洩事件”など、いずれもこれらに該当する不法行為の結果起こったことである。組織内部でのモラルの低下、ルールの不徹底、そして情報管理意識の低さ、が生み出した結果に過ぎず、この場合、まず為すべきことはそのような本来禁止されている行為を行った人物を厳しく追求し、再発防止を徹底することでなければならない。いずれにせよ、この種の事件は "関係者" の意識と行動の問題なのである。
 ところが官房長官は、あたかも一般の国民全体が日常的に危険にさらされているかのような発言を行って根拠の無い危機感をあおり、さらに警告と言うか脅迫まがいの "指示" までしているのである。
 機密文書の " (紙の) コピー" が流出する事件が起きたからといって、記者会見で「一番良いことはコピー機を置かないことです」などと言ったら正気を疑われるのは確実だが、実は同じ論法なのである。
 個人のPCにウィニーを入れても、勤務先の仕事とは関係のないPCであれば別に何の問題も無い。そこに自分個人の銀行口座や暗証番号のデータを入れていてどうかなったとしても、それはその無知な自分の問題である。インターネットにはその種の危険があること、自分がどの辺りでどのような危険に近づいているのか、使うからにはそれくらいのことは知って使うのが最低限の“自己責任”というもので、それこそ日本政府の大好きな言葉だったはずである。
 ネット絡みということでニュースに大きくとりあげられたとしても、しょせん一部の公務員+企業社員が関係した "職務遂行上の不祥事" に過ぎない。そのような事件をねじ曲げて、上のようなすり替えを行い、しかもそれに便乗して「国民に教えを垂れる」かのような言動を示すのはなんとも不愉快千万である。


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 ■2005年11月29日:無免許で助産行為
 

 不法滞在の外国人にとって「医療」は深刻な問題であると言われてきたが、遂に暗く痛ましい事件が起きた。
 40歳の韓国人女性(不法滞在者)が、分娩状態になったが病院に行くことができず、無資格の韓国人女性を頼った挙句に異常出産で母子ともに死亡したという事件。
 警察発表によるため各社のニュース記事の本文には大きな違いはない。異なるのはその「見出し」である。

   朝日新聞 無免許で助産行為、容疑の女逮捕 出産の女性と胎児死亡
   毎日新聞 <無資格助産行為>母子とも死なす 77歳容疑者逮捕
   時事通信 無資格で助産、母子死亡=韓国人の77歳女逮捕−警視庁
   共同通信 無資格助産で女を逮捕 韓国人女性と胎児が死亡


 興味深いのは、朝日・毎日の両新聞の「見出し」が関係者の「国籍」に全く触れてないのに対して、時事通信の「見出し」では容疑者の、そして共同通信では死亡した女性の国籍だけが記されていることである。
 すなわち、時事の見出しだけを見る限り“韓国人の女が日本人の母子を死なせた”ように見え、共同の見出しでは逆に“日本人の女が韓国人の母子を死なせた”ように見えるのである。
 この事件の特異性は、「不法滞在」という弱みがきっかけとなって、韓国人同士というエスニック・コミュニティの内部で起きた事件、という点にあるのだが、そこを正しく伝える「見出し」は残念ながら見られない。
 実は、不法滞在の同国人に対して(疑似)医療行為を行っている者は、意外に多いと言われており、中には出身国の医師免許をもつ人物も含まれているとされる。この77歳の女性がどのような経歴なのか報道されていないので判らないが、もしかしたら韓国の助産婦資格はもっていたのかもしれない。
 いずれにせよ、医師や看護師の免許が国単位で決められている以上、重大な法律違反であることは明らかであるが、単純に「ヤミ○○」とか「ニセ××」と決めつけて済む問題ではないこともまた明らかである。

<無資格助産行為>母子とも死なす 77歳容疑者逮捕 東京
 無資格で助産行為をしたとして警視庁組織犯罪対策2課と荒川署は27日、東京都荒川区荒川3、無職、崔春月(チェチュンウォル)容疑者(77)=韓国籍=を保健師助産師看護師法違反容疑で逮捕した。崔容疑者は26日夜、自宅アパートで助産行為をし、母子とも死亡したため発覚した。
 調べでは、崔容疑者は26日夜から27日未明にかけて、住所不定、無職の女性(40)=韓国籍=に対し、助産師免許がないにもかかわらず出産を助ける行為をした疑い。
 女性は26日午後10時半ごろ、出産の気配を感じ崔容疑者宅に駆けつけた。しかし死産だったうえ、女性も27日午前5時ごろ容体が急変。崔容疑者の夫が119番し病院に搬送されたが、出血多量で死亡した。
 女性は崔容疑者と面識がなかったが、崔容疑者が助産行為をしていることを知っていたらしい。女性は不法滞在で、摘発を恐れて正規の病院を避けた可能性もあるという。【川上晃弘】
(毎日新聞/Yahoo 11月27日)


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 ■2005年11月10日:日本の人種差別
 

日本社会の「差別」指摘 国連人権委報告
 【ニューヨーク=長戸雅子】国連人権委員会のディエヌ特別報告者(セネガル)は七日、国連総会第三委員会(人権)で差別問題に関する報告を行い、日本についても在日韓国、朝鮮人への差別や同和問題が存在すると指摘した。
 この報告に中国代表は「人種差別は日本社会にあり、特定の政治家、悪名高い東京都知事らの人種差別主義的な発言がある」と日本批判を展開した。さらに韓国代表も日本社会に残る「差別への懸念」を表明、北朝鮮の代表も日本を批判した。
 ディエヌ報告者は七月の訪日調査を踏まえ、在日韓国、朝鮮人や中国人のほか、アジア、中東、アフリカからの移住者も「差別の対象になっている」と述べ、人種、外国人差別を禁止する法整備や教育を日本政府に求めた。さらに「外国人差別的な東京都知事の発言に日本政府がどういう立場を取っているのか説明を求めたい」と中国の主張に全面的に沿った見解を示した。
 こうした日本批判に対し、高瀬寧・国連代表部公使は「何らかの形の差別が存在しない国はほとんどないと考える」と述べ、教育分野で差別解消に向けた取り組みを行っていることを強調した。 (産経新聞)-11月9日2時52分更新

 この問題で重要な点は3つ。
 第一に、国連そのものを始め、世界の多くの国にこれだけ知られている日本国内の「差別」について、「多くの日本人がその実態を“知らない”あるいは正確には知らない」ということ。
 第二に、各国の代表が明らかに「この差別状況についての、日本政府の“思想”と具体的な“行動”」を問題にしているのに対して、日本の国連公使は「教育分野で差別解消・・・」と問題をすり替えていること。
 第三に、より多くの日本人が、日本国内の差別状況を「これだけ世界が“知っている”」ことを“知らない”ということ。

 第一の点は、確かに“教育”の問題であると言えるが、教科書や教育現場から“人権”や“平等”という言葉を消滅させようと躍起になっているのが、当の日本政府なのだから、事態が改善される可能性は低い。大学の教員が頑張るしかない。
 第二の点は、目立たないが重要である。つまり、この公使は(意訳すれば)「より一層(馬鹿な)国民を(政府が)教育して、差別解消に向けて・・・」と答えているのだから。自分たち高級官僚と国会議員の“差別意識”や、それにともなう政治的“不作為”(例えば「人種差別禁止法」を絶対に作らない、等)を無かったことにして、“国民”に問題があるかのように言うのである。これは、歪んだ企業体質そのものを問われている時に、「職員に対して厳しい指導・教育を・・」と言い続けたJR西日本の村上某という不気味な重役と同じ「確信犯的詭弁」である。
 第三の点も根が深い。現実に、日本はかなり重要で“目立つ”国になっているのに、当の日本人は“日本(国内)のことなど世界は知るはずがない”と思い込む、ということが大変に多くなっている。
 第一と第三の両方が重なると、一層みっともない状況となる。例えば、北海道の先住民であったアイヌの人々が“民族”としての権利をどのように奪われ、文化的に崩壊させられたのかという問題。あるいは、在日韓国・朝鮮人の人びとに対して日本の社会がどのように差別的な対応を続けてきたかという問題など。これらについて、世界の多くの国のインテリ層がかなり正確に知っているのに、日本でこれらの事実を正確に知る“一般市民”は極めて少ないのが現状である。


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 ■2005年9月16日:今、そこにある危機

 しつこいようだが、また書く。本当に危ないと思うから。
 議会制民主主義の基本は、思想・言論の自由と、その上に立って政策を議論しあう“選挙によって選ばれた”議員たちである。そして、一方で政治は“選択の連続”であることから、100人100様的混沌を整理し、議論・選択を効率的に進める手段として“政党”という形が作られる。
 そこでの参加条件は、大きな政治的思想において一致することであって、決してあらゆる選択において党首に盲従することなどではない。アメリカにおける民主・共和両党(議員)の場合も、イギリスの労働党・保守党の場合もまさしくそうである。
 “2大政党制”というのは、それぞれの政党内部において、自立した議員個々の判断が優先されるからこそ、“主要政党が2つでも良い”のであって、そうでなければまさに「51対49でも手軽に実現できる独裁制」と化してしまう。
 第二次世界大戦後の60年間、そのほとんどにわたって日本の政権を担ってきた自由民主党という政党は、政権党であることで当然多くの批判をあびてきたが、この“内部的多様性”という点において、優れたチェック&バランス機能を確保できる政党であった。
 その自由民主党が死にかけている。すなわち、世界の自由主義国では常識である政党内部の自由な言論・政策判断が完全に否定され、すべての議員が党首の決めたとおりに意思表示する=議席数という“数”でしかない、という異様な政党に変わりつつある。
 このような政党、その独裁的な指導者に“絶対多数”を与えたら、どのようなことになるだろうか。「私に賛成するのが自民党員なんだから、反対なら出て行けばよい」「私を総裁に選んでおいて、私の言うことが聞けないというのは、おかしいじゃないか」これらはいずれも現首相の発言である。
 彼に絶対多数の支持を与えたということは、この発言の「自民党員」を「日本国民」に、「総裁(党首)」を「総理(首相)」に書き換えることを認めた、ということなのである。
 多くの野党やいわゆる反対派が、彼のプロパガンダ的に単純化された“ことば”ではなく、彼が実際に何をやってきたか(やらなかったか)を見るべきだ、と訴えたにもかかわらず、日本国民の多くはそうしなかった。
 今、彼は何をしているだろうか?
 80人近い初当選議員全員に対して、自由民主党内部にあって自分に批判的な言論の砦となり得る派閥への参加を禁止し、自分の管理下で行う“勉強会”に参加させようとしている。すなわち、公言したとおり彼は自由民主党を壊し、小泉独裁党を着々と作っているのである。


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 ■2005年9月12日:小泉ポピュリズムの圧勝

 選挙が終わった。結果は民主党の一人敗け、それも“惨敗”という他ない。
 とは言え、自民党の票の伸びは大都市若年層が圧倒的に自民(小泉)を支持したことによると見られ、結果的には、投票率の上昇がこの結果を招いたとも言える。
 いずれ分析結果が出ると思うが、興味深いのは、“絶滅”も危惧された社民党、減少が予想された共産党が意外に(と言っては失礼だが)健闘していることである。この2党に共通するのは主張が単純で明快だったことである。小泉自民党が“究極的に単純な主張”で圧勝したことと併せて、考えさせられる結果である。
 実際に得票結果を見ると、自民、民主両党の間で前回の当落が逆転している小選挙区の場合、自民が“圧勝”しているケースはそれほど多くない。すなわち、元々自民党が強かった選挙区を除けば、個々の得票において民主党が“惨敗”したわけではないが、獲得議席数の結果がこうなるのは小選挙区制の特徴と言う他ない。
 これらを考えると、結局この選挙結果をもたらしたのは、民主党の主張に明確さが欠けていたことによるものと考えられる。しかもそれは“戦術”的なものと言うより、民主党の体質そのもに内在する不安定、混迷の結果であり、年金問題の強調も唐突に見えた、と言うことであろう。
 民主党の敗因はともかく、先に述べた“単純な明快さ”が勝敗を決するという傾向は重大である。政権政党の可能性がない弱小政党が、明快な主張をするのは “野党”としての存在意義を訴える意味で当然であるが、最大の政党があらゆる問題を2項対立的に単純化し、“白か黒か”で押しまくることが戦術的に有効であるというのは、極言すればファシズムへの道を開くものだからである。
 もう一つ、デモクラシーを守る国であれば、権力をもつ側は常に“やや保守”あるいは“緩やかな改革”の姿勢で政策を進め、一方野党側は常に“大胆な改革”を主張するものである。それで政権が交代すると、新与党は野党時代の主張の割には“穏健・現実的な”政策をとることになり・・・ということを繰り返すことで、絶えざる改革を続けながら暴走を防ぐというのが議会制民主主義システムの基本である。
 しかしながら、小泉政権の特徴は「自分たちの方が“改革”なのだ」と主張するところにある。権力をもつ側が“改革”や“世直し”を声高に唱え、権力をもって推進する状態は、始めのうちこそ一種の爽快感や充実感を与えるものだが、喝采を送っているうちに大変なことになるのは、かつてのドイツを見るまでもないことである。
 さあ、これから恐ろしいことになるぞ。


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 ■2005年6月3日:街頭募金について

募金苦境、逮捕事件の余波 金額減り、「偽もの」非難も 「信頼失墜怖い」
 
 虚偽の求人広告で集めたアルバイトに街頭募金をさせていた職業安定法違反容疑でNPO(民間非営利団体)を名乗る団体の主宰者、横井清一容疑者(34)らが逮捕された事件の余波で、正当な活動を行っているほかの団体の募金額が減るなど、事件の影響とみられる現象が起きていることが二日、分かった。「偽の募金やろ」などと不当な非難を浴びるケースもあるという。
  ・・・・中略・・・・
 災害や病気で親を亡くした子供を支援する「あしなが育英会」(本部・東京)でも今春、関西地区の募金がここ数年で最少額に落ち込んだ。通りがかりの人から「(警察の)道路使用許可証を見せろ」「偽の募金やで」など、ひどい言葉を浴びせられたという報告もあがっている。
  ・・・・中略・・・・
 「赤い羽根」で知られる社会福祉法人「大阪府共同募金会」の古谷泰景事務局長は「募金団体がまともかどうかを区別するのは難しいが、規制するよりも募金の受け皿はたくさんある方がよく、どうすればいいのか」と戸惑っている。
(産経新聞/Yahoo 6月2日)


 職業安定法違反という妙なところから出てきた問題であるが、いんちき街頭募金がどんなに多いか、マスコミの方々は本当に知らないのだろうか。
 東京・横浜など大都会の駅頭では毎日無数の人々が「募金活動のようなこと」を行っている。それらの中には、昨日は「飢餓に苦しむアフリカの子ども救援」という箱を持っていたのに、今日は「XX大地震の被害者支援」の箱に変わっている、などという人物も決して珍しくないのである。

 私は、あしなが育英会も赤い羽根も含めて「街頭募金」というものには一切応じない。
 誤解されると困るので書いておく。現在の私は比較的豊かであり、そのような人間は(税金とは別に)社会に一定の貢献をする「義務」があると考えているので、毎年ある程度の(それほど少なくない)金額を、特定の災害地域への支援や飢餓に苦しむ国々への支援などの義援金として、日本赤十字社などの確実と思われる経路で銀行や郵便局から振り込んでいる。
 善意で街頭募金に応じている人々に、それを「止めろ」などと言うつもりは無いが、家族や親しい人々には私と同様にすることを勧めている。その理由は次のようなことである。

1.なぜ「振り込み」なのか。  そもそも「何のために募金に応じるのか」を考えてみたことがあるだろうか。上に書いたような「動機」ではなく「金を出すことの意味」である。私たちが出した金が、救援や支援といった本来の目的に、確実にそして何よりも「効率的に」活かされることが大切なはずである。
 毎年全国で繰り広げられる「赤い羽根共同募金」の騒ぎについて知らない人は居ないと思うが、あそこで消費される「羽根」、使われる「募金箱」、様々なイベントなどの費用などは、おそらく相当の額になるはずである。私たちが出した金について、「経費分」だの「歩留まり」だの本来あってはならない、仮に不可避であるとしても、それは最小限に止めるように努力するべきであると私は考えるからである。
 一部の募金については、「関係者全員がボランティアであり、集めた金から経費など支出していない」という反論もあるだろう。私はそういうことだけを言っているのではない、トータルな費用のことも言っているのである。募金だけのためにボランティアが10人集まるとしたら、その10人は自分の交通費や昼食の費用を各人で支出しているはずである。本当に有効な募金や支援を目指すのであれば、それらの費用も節約して募金に加えるべきだ、と言っているのである。
 つまり、しかるべきメディアで、募金の趣旨、活動主体、振込先などを伝えてもらい、そこに金融機関のシステムを利用して振り込む、というのが最も無駄な費用を使わない方法なのである。
 もっとも、「単なる金集めではない、国民(啓蒙)運動なのだ」と言うのなら話は別である。このことについては次に述べる。

2.街頭募金の暴力性
 私が街頭募金に一切応じないもう一つの理由は、言わば「正しい募金活動」を行っている人々への嫌悪感である。
 「赤い羽根共同募金」の時期に、動員された中学生の集団などの前を通るとき、その嫌悪感はピークに達する。通行人の胸元の羽根の有無を見ては「アカイハネキョードーボキンニゴキョーリョクオネガイシマース」と怒声に近い声で喚き立てる子供たちを見ていると背筋が寒くなる。そこでは、「正しい活動」に参加しているという強烈な酔いと集団意識、そしてその「正しい活動」を無視して通りすぎる大人たちへの反感とが、見事に集団狂気化されているからである。
 そのうち、無視して通りすぎようとする大人は皆でとり囲んで「なぜ募金に協力しないのか」糾弾し、「非協力」と書いた三角帽子をかぶせて引き回すようになるかもしれない。今はまだ冗談だが・・・。
 また、歳末助け合いや赤い羽根の重要基盤である町内会・自治会ルートの募金では、募金が「踏み絵」のような性質を帯びてくることも否定しがたい。氏名や拠出額が担当者には全て判ってしまうこの種の「募金」は、街頭募金よりさらに始末の悪いものと言えるのである。

3.信用の問題
 上の記事にもあるように、目の前で行われている街頭募金が本物か偽物かを確実に見分けることなど不可能である。だから、自分の大切な金(と善意を)詐欺師に奪われたくないのなら、街頭募金には応じないのが一番である。
 まともな機関・組織であれば当然銀行口座くらい持っているし、口座番号を公開することでその団体の活動は衆人環視の中に置かれるからである。
 逆に言えば、街頭募金しか募金手段が無い、ということ自体、一つの重要な否定的要素であると考えるべきである。


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 
 ■2005年6月1日:車が出庫します

 2005年春に、名古屋の主要駅である金山の駅前に「明日ナル」という奇妙な名前の大型商業施設がオープンした。
 駅側から見るとパティオを緩くカーブした3階建ての店舗群が囲むなかなか巧みな空間デザインである。雨天の際の利用について全く想定してないという、この種のデザインに共通の欠点をしっかりもっているが、まあ期待通りのにぎわいである。

 この施設の空間構成については、改めて詳しくとりあげるつもりであるが、今日は別の話である。
 反対側から(つまり駅に向って)この施設に近づくと、まず正面に立ち現れるのは巨大な駐車場ビルである。「歩いて来る人間」がまったく念頭に無い、ということ自体がすぐれて名古屋的であるが、さらに近づくともっとすごいことが判る、というか「聞こえて」くる。

 大手スーパーやオフィスビル、市民会館などとこの「明日ナル」が正対するスクランブル交差点に向って、その巨大駐車ビルの車出口が開いており、そこから「声」が出ているのである。声は
 「車が出庫します、ご注意下さい」「車が出庫します、ご注意下さい」・・・・
と絶え間なく続いている。

 この「日本語」は一体何なんだろう。例えば、「大量の花粉が飛びます、ご注意下さい」というのなら解る。しかし、車は「運転者が出す」から出てくるのである。一体いつから車が「勝手に出てくる」ようになったのだろうか。ここは、最低限「車を出します、ご注意下さい」とすべきだろう。

 こう言い換えることから、また新しい問題が見えてくる。「車を出す」というのは運転者の一方的な都合であるのに、「ご注意下さい」という頭ごなしの言い方は正しいのか、ということである。
 この車出口の前は本来歩道であるが、横断歩道のゼブラゾーンに塗られていて、歩行者信号が設置されている。スクランブル信号の一つとなっていて、「赤」の場合は歩行者が通れない設定である。駐車場の車用出入り口に「交通信号」を設置して、歩行者の通行を妨げるなど前代未聞であるが、それが名古屋ということなのだろう。

 それはさておき、排気ガスも出さず、石油資源も消費せず自分の足で歩いている人間が、鉄の箱に座って、石油を燃やして排気ガス出してる輩から「俺は車を出すぞ、気をつけろ」などと言われる筋合いは、どう考えても無い。「車を出します、すみませーん」とでもするのが最低の常識というものだろう。
 ちなみに、例えば東京の池袋駅前の西武百貨店の駐車場出口では、数人の制服の警備員が「車を出させていただきまーす」と個々の歩行者に丁寧に声をかけながら交通整理している。


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 
 ■2005年5月3日:有森裕子は何と言ったのか

 かつて、日本の代表としてオリンピックのマラソンで勝ったとき、有森裕子は「初めて、自分で自分を誉めたいと思います」と噛みしめるように語った。彼女が背負ってきた重圧と、気の遠くなるような努力の積み重ねを考えると、これは本当に重いそして美しい言葉であったと思う。
 それまで彼女は、高い実力と整った容姿で十分に人気選手であったにもかかわらず、どのような場面でも徹底的にストイックなことしか話さないことで、面白みのない「ドラマを作りにくい」選手と見られていた。したがって、初めての感情のこもった個人的な発言に、マスコミは一斉に飛びついたのであるが、その過程で奇妙なことが起こった。
 発言内容が「初めて、自分で自分を誉めてあげたいと思います」と変えられたのである。最初に誰がやったことなのかは今ではもうわからない。しかし、この「改訂版」はあっという間に全てのメディアに氾濫し、子引き・孫引きを繰り返しながら、(偽物の)事実として定着してしまったのである。
 記憶がさだかではないが、後に有森本人が「私は“あげたい”などとは言わなかった」と発言していたのを見たような気がするが、丁度その頃から「・・・てあげたい」という言い回しが目に付くようになっていたことの、象徴的な事件であったのかもしれない。
 「・・・てあげたい」は「・・・たい」の丁寧表現などでは決してない。有森発言は自分のことであったので判りにくいが、例えば「○○子(自分の子ども)を誉めたい」と「・・・誉めてあげたい」とを比べてみれば明らかである。「誉めたい」という表現には「自分の責任において、自分が誉める」という意志と責任が明確に示されているのに対し、「誉めてあげたい」という表現には「相手のために、相手の感情に合わせて」という色が濃く現われ、極論すれば「本当はそう思ってないが」という逃げの余地さえ残していると言えるからである。
 「・・あげたい」と前回とりあげた「・・じゃないですか」は、責任転嫁型の言い回しであるという点で奇妙に似ている。こんな訳の判らない「言い回し」を流行させながら、個性とか自立とか世界に通用する人材とか言っているのだから、何とも好い気なものである。


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 
 ■2005年5月2日:堀江貴文氏の話し方

 堀江貴文ライブドア社長について書こうと思う。
 彼は若くしてライブドアという会社を設立し、年商250億円の企業に成長させた。そのことは評価されるべきだと思う。しかしながら、ここで書くのは彼の「成功」や企業経営者としての「能力」、あるいはニッポン放送の株をめぐる今回の経緯などに関することではない。
 ただ、私が堀江氏に関してこれから書くような意見をもつに至ったのは、一連の騒動で彼のメディアへの「露出」が非常に多かったことによるわけなので、全く無関係とは言えないかもしれない。
 私は、テレビなどで見た限りの印象から堀江貴文氏が嫌いである。もっと正確に言うと彼の「話し方」に強い嫌悪感をもっている。それは、一部に言われるような「生意気」「態度が大きい」などということでは全くなく、文字通り「話し方」あるいは「論理」についての問題である。

 始めは、ニュースやドキュメンタリーに堀江氏が登場するたびに何となく不快になるという程度で、その原因についても良く判らなかった。彼の登場する回数がピークに達したとき、突然、問題は彼の「ことば」にあることが判った。
 堀江氏は記者に囲まれた場面で次のようなフレーズを連発する。
 「・・・・・じゃないですか」「ちがいますか?」「そうでしょ!」
 ほとんど全ての話が、上記のような「ことば」で結ばれるのである。
 こういう話し方は極めて不愉快である。なぜならば、自分が主張したいこと、認めて貰いたいことを、自分の意見・要求として「自己の責任において」真当に主張するのでなく、先回りして相手の同意を一方的に求める論法だからである。

 私自身は、「・・・じゃないですか」と言われたら「へエ、そうなんですか。あなたはそう思うわけですね?」、「ちがいますか?」と言われたら「さあ、私にはわかりません(私は知りません)。」、「そうでしょ!」と言われたら「無言」で返すことにしている。他人の意見・主張は「相手の意見として」誠実に聞いて理解する(賛否は後の問題として)ことにしているが、「考えるまでもなく」同意させられる覚えはないからである。


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 ■2005年4月20日:史料復刻と差別表現

 復刻された重要な史料に「差別的表現」が含まれていた場合、どのように扱うのが適切なのか、という問題は常に発生する。この問題について、小さいが注目すべき記事があった。
 かつての南海大地震の記録である「南海大地震誌」の復刻にあたって、いわゆる「不適切な表現」が含まれており、それについて高知県が陳謝、訂正を申し入れたのに対して部落解放同盟高知県連が逆に批判した、という毎日新聞高知版の報道である。
 県は、1.(差別的表現の存在について)確認を怠ったことを陳謝し、2.問題部分の「修正を行う」ことを申し入れた。
 これに対して、部落解放同盟側は、1.差別があったことは歴史的事実であり、「消す」という対応は良くない、2.注釈などの配慮をすべきだった、と批判して再度の話し合いを申し入れている。
 この「差別があったことは歴史的事実」という指摘と「消すな」という主張は重要である。これまで多くのケースで、単なる「部分削除」や極端な場合は「発行とりやめ」という結果に終わることが少なくなかったからである。
 「過去に目を閉ざすものは・・・」というワイツゼッカーの名演説を引用するまでもなく、「全部無かったことにする」という対応からは、何の反省も改善も生まれない。
 また、大きな災害の際には、自然現象としての破壊や損失以上に社会・経済的な要因による二次的な被害(とその格差)が大きな問題となるのであり、被差別地域(集団)の存在そのものは災害被害の実態に深く関わっていたはずである。その最も極端な最悪の事例が関東大震災における朝鮮人虐殺であることは言うまでもない。
 差別に関係する記述の削除や安易な修正は、当時社会的に弱い立場に置かれていた人々がどのように「被災」したか、という実態を見えにくくするという危険も孕んでいるのである。
 優れた知事が率いる高知県が、今後どのように取組むのか注目したい。

南海大地震誌:復刻版の不適切表現、県が解放同盟に陳謝 /高知
 
 昨年末に発刊された「南海大地震誌」の復刻版に一部不適切な表現があった問題で、県と部落解放同盟県連との話し合いが19日、高知市内で開かれた。
 県側は復刻版に掲載されたある地域について、指摘や県の調査で差別的な表現が2カ所あったことを説明。問題の部分の修正を行うことや、復刻版の作成について十分な確認などを怠ったことについて陳謝した。
 解放同盟側は「差別があったことは歴史的事実で、何でも消すということはよくない。注釈などの配慮をすべきだったのではないか」などと県の姿勢を批判、再度の話し合いを申し入れた。【内田幸一】
 (毎日新聞) - 4月20日朝刊


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 ■2005年3月16日:「振り込め詐欺」の病理

夫が「痴漢行為」をした、と言われて示談金を騙し取られた主婦のニュース。

 何と言うかやりきれない話だ。夫73歳・妻66歳というからには、おそらく40年くらいの結婚生活があったはずである。もちろん「結婚したばかり」という可能性も無いことはないが、それなら逆に騙されなかったという気がする。
 知らない他人から、夫が「痴漢をやった」と言われて信じてしまう、ということがたまらない。半信半疑だったと言うのだろうが、相手が「警官」を装ったからと言って、自分の夫を「100%は信じなかった」のは事実である。私が夫の立場だったら、600万円取られたことよりも一瞬でも自分の「痴漢」を信じた妻が許せないと思う。
 なぜなら、「信じる」というのはそもそも最も「能動的な」行為であって、「信じたい」「信じよう」と本気で思って初めて信じられるものだからである。この妻は、夫を信じて「警官」と戦おうとはせずに、「警官」の言うことを信じて金を振り込んだのである。
 決して犯罪を肯定する訳ではないが、「振り込め詐欺」というのは、自分の家族の人格や自分自身の「直感」よりも「警官」や「医師」といった見せかけの権威を信じてしまう人々がこれほど多いという、日本社会の病理を見事にえぐり出す行為でもあると言える。
 
 形は似ていても、やくざを装って「家族を助けたければ金を振り込め」と要求するのは、本当は家族は捕まっていないとしても明らかな「恐喝」であって「振り込め詐欺」などではないので、念のため。

「73歳夫が痴漢」とだます 振り込め詐欺で6百万円
 16日午後5時ごろ、横浜市磯子区の主婦(66)が「夫(73)の痴漢の示談金名目で現金600万円をだまし取られた」と磯子署に届け出た。同署は振り込め詐欺事件として捜査している。
 調べでは、警官を装った男が同日午前、女性宅に電話し「ご主人が痴漢行為をした」として示談金300万円を振り込むよう要求。女性が口座に300万円を振り込んだ後、さらに300万円を要求され送金した。
 主婦は「うちの夫が捕まっていますか」と磯子署に問い合わせ、被害が分かった。夫は外出中で連絡が取れなかったという。
(共同通信) - 3月16日


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 ■2005年2月19日:報道されないこと

消えたホームレス

 2月17日、中部国際空港が開港した。当地・名古屋のメディアは、高揚した調子で連日その人気ぶりや人出を報じ続けている。その驚異的な客集めについては、一種の違和感があるのだが、それについてはもう少し様子が見えてきてからとりあげたい。
 白川公園における青テントの強制撤去以来、地下鉄金山駅通路には常時15・16名のホームレスが居た。「白川」以前は多くても一桁であったと記憶しているので、流れてきた人が含まれていたのは確実だろう。
 開港前日の16日朝、8時頃に地下通路を通ると彼等は完全に消えていた。腰掛けていた仕切り壁の低い段の前には、行列整理などに使う移動ポールが1.5メートルくらいの間隔で置かれ、その先端が幅広の青いリボンで繋ぎ合わされていた。また「駅構内での居座りを禁止する」といったプリントが柱ごとに貼られていた。
 さて、おじさん達(一部おばさんも含む)はどこに行ったのか。
 ここで書きたいのはその行方ではない。この事実(金山駅がホームレスを追い出した)が、およそどこのメディアにも掲載・報道された形跡がない、ということである。
 名古屋市側が政治的圧力で報道を抑えたのか、それともメディア側が「時局を考えて」自主的に無視したのか、はたまた単にメディアの怠慢なのか。
 いずれにせよ、この寒い季節に「家のない」比較的高年齢の人々が、少しはましな地下空間から冷えの厳しい外に出ていずれかに消えた、それも10数人。ということはどこにも報道されていない。(私の知るかぎり)


戻る    先頭に戻る

 

 
 
 ■2004年8月24日:沖縄米軍へり墜落事故について

 米軍がへり墜落を「予測していた」ことは、無線がある以上当然だろう。むしろ、飛行困難の連絡に対して、(市街地の中では)大学敷地への「不時着」を指示した可能性が高い。
 それよりも、この事件は米軍が沖縄の一般市民どころか警察や消防にまで「命令」し、「行動を制約」できること、一方、沖縄県警は米軍(人)に対して指一本触れることもできないこと、を改めて明らかにした。
 世界の常識では、こういう状態を「占領」とか「軍事支配」と呼ぶのではないかね。


 
戻る    先頭に戻る