教育について考える1

(blog アーカイブ 2004〜2006)


 

2006年08月25日:冥王星

2006年06月17日: レポートが書けない

2006年06月08日:理科離れ、再び

2005年09月19日:「蛙」?知らない大学生

2005年02月01日: 「発表を聞く」ということ

2005年01月28日:「あかじゅうじ」の謎

2004年12月08日:やりきれない「血液型番組」

2004年10月24日:科学は他人事か

2004年09月13日:「勉強苦手」と授業料滞納率


 
 
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 ■2006年08月25日:冥王星

 国際天文学連合の総会で惑星の定義が決定され、その結果、冥王星は太陽系惑星から除外され矮小惑星とすることとなった。

 このニュースに関するテレビニュースが面白かった。

 日本では、「教科書を改訂することになるのか・・・」出版社、「冥王星が無くなるなんてさびしい」引き攣った表情の小学生(男)、「せっかく覚えたのに・・・」憂鬱な表情の中学生(男)。(以上、24日のNHK)

 アメリカでは、「(アメリカ人が発見した)冥王星の格下げは少し残念だが、・・・それが科学だ」科学者。「科学が進歩していることを知ってわくわくした」満面笑顔の中学生(女)?。(以上25日のTBS)

 もちろん、これだけの断片で簡単に何かを断言すべきではないだろう。
 第一に文化の違い。アメリカではタテマエは常にポジティブでなければならないが、日本では多くの場合タテマエはネガティブでなければならない。子供たちは、“困ってみせる”“悩んでみせる”ことが望ましいという智恵を示しただけかもしれない。
 第二に、ニュース素材の選択において、局(ニュース・デスク)の意向が反映された部分もあるだろう。

 しかし、それらを差し引いたとしても、この違いは日本の社会全体にある“理科離れ”(正しくは学問離れ)の現実を良く現わす現象になっていると思う。

 科学の話題であるのに先ず“教科書”を話題にすることに、メディアそのものが本当は学問になど興味がないことが透けて見えている。
 <所詮、ガッコウの理科の問題に過ぎないだろうが、ゲンジツは厳しいんだよ!>

 これだけの(学問的に)大きな転換であるのに、そのこと自体に興奮も感動も感じることができずに、“自分の知識”の価値が減ることを先ず心配する子ども。
 <ホントはどうでもいいんだよ、早く正解教えてくれよ、忙しいんだから!>

 世の中全体として、ここまで知的好奇心が衰え、学問を大切にする意識が欠如しているのだから、子どもの学問離れ理科離れなどと偉そうに言うな!)など当然だと思う。


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 ■2006年06月17日:レポートが書けない

 レポートが書けない、あるいは苦手とする学生が、最近になって急に増えているような気がする。
 “苦手”はさておき、“書けない”というのには大きく2つの種類がある。
 第一は、文字通り“書けない”ケース。この場合、詳しく観察すると“書き始められない”というのが正確かもしれない。
 第二は、本人は書けているつもりだが“どう見てもレポートとは言えないもの”を書いてしまうケース。
 言うまでもなく、ここではそこそこの能力もやる気もあるのに“書けない”というケースを問題にしているので、そもそも“やる気がない”とか、必要な文献やデータを調べる“能力がない”というのは除いての話である。

 私は、この2つのケースの背後には実は共通の問題が隠れていると考えている。
 それは、レポートとはどのようにして“造る”ものか、ということを全く教えられていないために、見当違いの努力をしているということである。
 “造る”と書いたのには強い意味を込めている。話が前後するが、ここでとりあげる「レポート」は、あくまでも文献やデータ、さらにはオリジナルな調査を元に書くものを想定しており、自身の“考え”だけを述べたり評論するタイプのものは対象としていない。資料やデータをもとに論述するタイプのレポートの場合、素材となる事実やデータ、それらをつなぐ論理、そしてレポート全体を組み立てる設計図が必要である。であるから“創る・作る”ではなく“造る”が最もふさわしいと考える。

 “書き始められない”学生はなぜ書けないのだろうか。“書ける場合”について彼等がもっているイメージが興味深い。彼等は、言わば完全な(完成した)形の文章がすらすら書けることを期待しているのである。学業についてある程度の自信をもつ学生がよく言う「“書き出し”さえうまくいけば、あとはすらすら書けると思うんですが・・・」という言葉が、このことを良く示している。
 大学におけるレポートというのは、一気にすらすら書くようなものではない=書き下ろすものではない、何度も書き直しながら組み立てて行くものだ、という基本的な認識が欠けているのである。

 “レポートとは言えないものを書く”学生の場合、さらに大きく2つのタイプに分けられる。
 一つは、第一のケースと同じ認識の欠落のもとで、平気で“作文”を書いてしまうタイプである。
 中学/高校と作文が得意だった、という学生によく見られる例だが、例えば、あらゆる課題に対して“同じ形”の文章を書いてしまう者が居る。元になった事実やデータをさらさらと纏め、メディア等で仕入れた主要な論調を並べ、一言二言自分の感想めいたことを付け加えて終わり、というスタイルである。
 私はこのタイプをひそかに「NHK」と呼んでいる。最後の結びが、「今後の動向が注目されます」とか「未来の地球のためにも、現代の私たちの努力が大切だと思います」などと、他人事のような空疎なことばで“きれいに”締めくくるNHKのニュース解説そっくりだからである。
 また、これとは逆に、ほとんどなんの根拠も示すこと無く、自分の“考え”や "思い" だけを怒濤のように述べ立てる者も居る。理想や信念をもつことは決して悪いことではないが、レポートは “演説”や“宣伝”ではないということ、事実と論理で冷静に述べなくてはならない、という認識が無いのである。
 すべて借り物で小奇麗に纏める前者のような癖がつくと、意外に簡単にそれなりの成績がとれることもある。やる気のない教員が内容の貧しさを見抜けずに "形は整っている" ことだけを見て評価するからである。また、後者のような勝手な "演説文" の場合も、本心は面倒を避けたいだけの教員が「“熱心さ”を評価」などという口実で適当に採点する結果、単位はとれてしまうことがある。
 これらはいずれも無責任極まる教育放棄である。そんなことで単位を稼いできた学生は、いざ卒論になると全く書けないという最悪の事態になることが少なくないし、まかり間違って自分を過信して大学院などに進んだら、本人も回りもまさに悲劇なのである。

 もう一つのタイプは、“文章化できない”という例である。つまり、データはデータ、先行研究は抜き書きのまま、結論はいきなり箇条書き、という作業メモ、あるいは資料集のような状態で止まってしまい、一貫したレポートにできないというタイプである。
 私は、このタイプについてはあまり心配していない。要素を要素として扱うことができ、論理的な関係も認識できるのであれば、“文章にする”ことは純粋に技術と経験の問題だからである。
 このような状態で苦しんでいる学生が、口頭発表になると驚くほど見事に纏めることに気付いて、自分の発表を録音して改めて書き取らせてみたことがある。最終的に、彼女はこの方法で大変立派な卒論を書き上げたのである。

 全部で3つのタイプを挙げたが、前の2つについて私は“作文教育”の弊害ではないかと考えている。
 文章表現力を鍛える、という意味での作文教育であれば、まず何よりも、事実と論理に基づくメッセージをできるだけ正確に伝える能力を養うべきである。つまり、新聞記事や報告や指示といった「伝達」を目的とする文章の書き方を教えることが必要なはずである。
 そして、そのような文章を書くためには、個々の事実や知見について吟味・検証する、それらから自分の結論を導くための論理展開を考える、全体を効果的に表現するための構成を組み立てる、といった“造る”作業について、教え・鍛えることが必要不可欠である。
 こう書くと、すぐに「型にはめるのは・・」「個性を伸ばすことも・・」などという反論が聞こえてきそうである。でも、キャッチボールやランニングもさせずにいきなり野球をやらせるだろうか、まっすぐ正確に滑る技術を鍛えずにフィギュア・スケートをやらせるだろうか。“個性”や“創造性”はきちんとした基礎の上にしか成り立たないはずである。
 文章表現の基礎もきちんと教えずに、“自分らしい”文章を書けなどと指導するのは、将来にわたって社会人として生きて行かなければならない多くの“普通の”子供たちに対して、無責任というものである。
 (註) この記事は、ブログ「チェシャ猫の微笑」の2006年6月17日付け記事を転載したものです。


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 ■2006年06月08日:理科離れ、再び

 以前から繰り返し話題にしているテーマだが、またとりあげる。

 子供たち一人一人について、真の意味での「適性」を見抜いて進路を指導する学校・教師は残念ながらさほど多くない。多くの場合、途中の学年までの「数学」の成績によって<理系ー文系>を機械的に振り分けているのが実情である。また子供自身も、自分の中にある隠れた自然科学的なセンス・興味を自覚する以前に、目の前の「数学の成績」という現実に圧倒されて「自分は向いてない」と決めつけてしまうことが少なくない。
 かつて、友人の優れた研究者が言ったことを思い出す。
 「<“2+3”と“3+2”が同じだというが、計算結果はそうでも“同じこと”というのは納得できない、1/2と 0.5の意味の違いをもっときちんと知りたい>というようなことをグズグズ言う子供が居る。実は、こういう子供たちは大きな可能性をもっているのであり、彼らにこそ大学に来て本気で数学と取り組んで欲しいのだが、今の日本ではこういう子は途中で<理系コース>から排除されてしまう。」

 中学・高校時代、私は理系科目が概して好きで成績も決して悪くなかったが、日常的に(実験中でもないのに!)スーツの上に「白衣」を着ている教師は嫌いだった。子供なりに、ある種のエリート意識、ポーズを感じていたように思う。また、文系の学問、進路に対して差別的な言葉を投げる教師も居た。

 理系進学希望者数の減少という現象の背後には、こういった理系の教師・進学予定者、周辺の人々が無自覚に形成する「優れた少数者」という位置づけのマイナス、そのことと数学の点数での“線引き”による「迷い組」の排除、といったことが、一つの要素として間違いなく存在しているはずである。


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 ■2005年9月19日:「蛙」?知らない大学生

  またまた「国語力調査」。いや、正しくは「国語力調査に関する報道」と言うべきだろう。なぜなら、これから書くことはネット上で見た“新聞記事の情報”(下記)だけに基づくものだからである。
 “またまた”と言うのは、今ではこの種の報道は完全にステレオタイプ化しているから。曰く、現代の子供(若者)は基本的な言葉を知らない、少し難しい漢字をを示すと奇想天外な“読み”をする、ことわざの意味を知らずに逆用する・・・などなど。なるべく極端な誤答例や、低い正答率を示しては嘆いて(呆れて)見せる。

 私は、これを学会発表した研究者よりも、先ずこの記事を書いた記者に訊いてみたい。 1.対象となった“大学生”の専門はどのような構成だったのか。理学部や農学部と“国文学科”とでは、結果は当然違うはずだが。 2.ここで挙げている例題は全て“現代文”とは言い難いものばかり、これらの例題ができなかったとしても、(教員やジャーナリストなど一部の職業を除けば)通常の生活や仕事にはなんの問題もないのではないか。
 これらのことを記者自身はどう考えたのか・・・。
 たぶん、何も考えてないのだろう。

 研究そのものについては文書化されたものを読んでからまた採り上げるつもりであるが、この記事とこれまでの経験から次のようなことを考える。
 どうも、国語学研究者という人々は、コミュニケーション能力としての言語力と、国語・国文学的教養あるいは社会的教養とを同一視しているように感じる。「教養あっての言語力だ」というのは原則として誤りではないが、“能力”の議論においては話のすり替えである。
 第二に、古典や童謡を知らないからと言って、“活字離れ”とは何と傲慢な、ということである。上の結果から言えることは、古典文学離れ、唱歌知らず、ということでしかない。
 最後に、少なくとも対象学生の親の世代である40歳代後半の人々についても同様の調査をすべきである。私自身は、経験的印象として殆ど同じ結果が出ると思うが、そうなると問題は“大学生の”ではなく“日本人の”に近づくだろう。


「蛙」?知らない大学生35%

 大学生の3人に1人は、「春はあけぼの」の意味が分からない――。国立国語研究所の島村直己主任研究員らの研究グループが17日、千葉市で開かれた日本教育社会学会でこんな調査結果を発表した。
 現代文は高校生より正答率が低く、研究グループは「大学生の活字離れが深刻になっているのではないか」としている。
 調査は今年6〜7月、国立大5校と私立大3校の1〜4年生までの約850人に実施。古文4、現代文2の計6問を出題し、2年前に高校生1〜3年生約1500人に実施した同一問題での調査結果と比較した。
 それによると、古文では、枕草子の「春はあけぼの」の意味を「春は夜が明け始めるころが素晴らしい」と正答できた大学生は62・9%。松尾芭蕉の俳句「古池や 蛙飛び込む 水の音」の「蛙」について、「カエル」と答えたか、「かわず」という正しい読み方を答えた学生は65・3%だった。
 また、童謡「赤とんぼ」の「負われて見たのは」の歌詞の意味を「背負われて見たのは」と正答できたのも61・6%にとどまり、「追いかけられて見た」という誤答が目立った。唱歌「夏は来(き)ぬ」については、「夏が来ない」と逆の意味にとらえた学生が多く、正答率は47・8%と半数を割った。
 (読売新聞/Yahoo) - 9月18日


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 ■2005年02月01日:「発表を聞く」ということ

 「卒業論文成果報告会」に参加する学生に「講評報告」を書かせた。以下は、頑張り過ぎて?少々暴走した学生へのやや辛口のコメント。本人は大変やる気のある真面目な学生で、将来大学院への進学を希望している。

 君は研究発表を「批判的に聞く」ということが未だ良く判ってないようです。
 「研究発表に対する批判」の基本は「言ったこと」について批判的に考察することで、「言わなかったこと」を指摘することではないのです。
 特に、研究の内容について「批判」するためには、発表を真剣に全力で聞き、きちんと理解し、考えたた上で発言する責任があります。また、発表で(自分にとって)不明だった部分については、後で発表者本人に確認してから考えなければなりません。何故ならば、発表には「時間制限」があり、「口頭で話す」という制約もあるからです。
 それだけの覚悟が無いのであれば、批判は研究の内容ではなく発表の技術や効果、発表者の態度といった表面的なことに限るべきです。

 対象となった最初の発表は、現在学部学生のレベルで読むことのできるほとんど全ての関係文献に目を通した上で、「江戸時代以前には男女による色の区分や制約があったという明確な証拠は見出せない」と結論付けたもので、その経過は研究論文には詳しく記されています。発表の中では時間の制約から結論を中心に述べたもので、君自身の先入観と感覚だけで「そんなことはないだろう」と反論するのは間違いです。仮に、学会のような場でこの種の「批判」をすれば、「それではあなた(君)はどんな研究をしたのか、どのような根拠で反対意見を述べるのか」と逆に厳しく批判されます。
 また、「一般に人々の服装は自由になったのだから、ジェンダー的制約を言うのは現実に合わない・・」というような意見は、さらに見当違いです。研究発表では「一般には色使いは自由になったのに、教育現場などでは未だにジェンダー的な制約が強い」ということを主題にしているのだから、これは発表自体を正しく聞いていないことに過ぎません。

 もう一つの発表に対する君の意見、「特に優れているとは(君には)思えない日本の大学から、中国の大学が学ぶべきことなど無いのだから、これは無意味な研究だ」についても、上記と同様の問題があります。
 この研究では、「高等教育の大衆化、市場化のためのシステムや制度整備について、日本の経験が(中国にとっても)参考になるだろう」と言う視点で見ているのであって、大学や教育制度そのものにおいて中国と日本のどちらが優れているか、などと言ってるのではないからです。他人の研究の主旨を誤解(きちんと聞いてない?)した上で、研究の枠組み自体を否定するような批判をするのは単なる暴言です。

 全体として、君の意見には感覚的な「好き嫌い」が先行して、その上で具体的な「欠点」を探し出そうとしている印象があります。

 「発表を批判的に聞く」ためになによりも必要なことは、他者が「研究したこと」そのことに正しく尊敬の意識をもつこと、発表を白紙の態度で謙虚に聞くこと、内容を正しく理解するように真剣に努力すること、それでも判らないこと納得できないことは先ず発表者本人に確認すること、などです。

 大学院進学を考える人ならば、これらのことは特に身につけておかなければならない基本です。(2005年2月1日)


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 ■2005年1月28日:「あかじゅうじ」の謎

 また、一部の人々の大好きな「子ども学力調査」。
 今度は「漢字」だそうだが、相変わらず話がおかしい。


赤十字は「あかじゅうじ」 小学生の漢字読み書き調査

 小学2年生の4人に1人は「犬」を「☆」と書き、「赤十字」は5年生の半数近くが「あかじゅうじ」と読む。
 文部科学省所管の財団法人、総合初等教育研究所(本部・岐阜県)が、27日発表した小学生の漢字の読み書き習得状況調査でこんな結果が出た。
 同研究所が1980年に実施した読み書き調査に比べ、全体として正答率はやや高くなったものの、低学年では「三(み)日月」、「十(とお)日」など日常生活で使う数字を表す読みの正答率が低く、研究所は「漢字を習得するには家庭生活の中でも意識して使うことが必要」としている。
 調査は2003年5月、小中学生計約1万5000人に実施。小学生で学ぶ配当漢字計1006字について、前年度に学習した漢字の読み書きを、次学年の児童を対象に調べた。
 (注)☆は犬の「、」を大の横棒の右下
(共同通信 1月27日)


 上記の共同記事では、「赤十字」を“あかじゅうじ”と読んだ子どもが居ることを問題にし、NHK(夜10時)では「とんや(=“問屋”)」という問題に“豚屋”と回答した例をとりあげていた。
 いずれも、「小学生の漢字読み書き能力が深刻な事態になっている」と報じているのであるが、これは明らかな誤り、ないしは事実のねじ曲げである。
 冷静に考えれば、これらはいずれも「漢字が読めない・書けない」のではなく、「単語を知らない」ということでしかない。少なくとも「赤」を“あか”と読むのは漢字の読みとしては正しいのであり、“読み書き能力”に問題があるとは言えない。また、「とん」というカナに“豚”という漢字を当てることについても、一般に「豚カツ」などとして使われているのであるから、完全な誤りとは言えない。むしろ「問」よりも難しい「豚」という字が書けることを評価すべきかもしれない。
 この問題の深刻さは、子どもたちが赤十字や問屋という「事柄」を知らず、したがってその名称も判らない、ということにある。つまり問題は、子どもの総合的な知識量の減少と、それに密接に関わる「語彙力」の低下なのであって、「字を知らない」というようなことではない。明らかに、子どもの総合的な知識・教養のレベルが低下し始めているのであり、「国語教育」などといった狭い世界の問題ではないのである。
 その意味で、実は最も恐ろしいことは、一部の<専門家>や行政が明らかに「知識「や「語彙」という教育の根幹にかかわる部分で問題が起きていることから故意に目を逸らし、「漢字力」などと寝惚けたことを言っていることであり、それを無批判に垂れ流し報道するマスコミのあり方ではないだろうか。
 2005年1月28日


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 ■2004年12月8日:やりきれない「血液型番組」

 やっと動きが出た。
 もう、触れるのもうんざりの「血液型」話、どうすれば消滅させられるのか?
 一方で、メディアの規制につながるような主張はしたくないし。などと考えていたら、「放送倫理・番組向上機構」がやっととりあげた。これは間違いなく良いことだが、惜しいのは「差別助長の恐れがある」として「配慮を求める」といった表現にとどまっていることである。
 不思議に思うのは、これが典型的な似非科学しかも非常に危険で悪質なつくり話だ、ということを問題にする議論が少ないことである。
 申し訳程度に「科学的根拠はありません」などと字幕を出して逃げるくらいなら、いっそのこと血液型(ABO分類)別の人口比には民族的な(すなわち国による)偏りがきわめて大きい、といったところまで暴走すれば良いのである。そうすれば、対象国の政府から抗議が来るぐらいでは当然済まなくなり、世界中がかつてのドイツの「ゲルマン優位説」などと結びつけ、日本人および日本政府への信頼は大きくゆらぐことになるだろうから。
 一方で「理科離れ」だの「学力低下」だのと大騒ぎしているくせに、こんな恥ずかしく危険な番組を放送し、かつ多くの「若者が」見ているという事実を、なぜ気にもしないのだろうか。
 計算技術とアメリカ風の英語発音にばかりこだわるような歪んだ教育が、年齢相応の知性と教養と論理的思考力を異常に欠いた、奇妙な若者集団を生み出しているのではないだろうか。
 なお、血液型モノ対策について、熱心に活動しているページがある。私も、自分のページで紹介するという形で支援したい。 [血液型性格判断資料集

血液型扱う番組に配慮を 差別助長の恐れとBPO
 NHKと民放連でつくる第三者機関「放送倫理・番組向上機構」(BPO)の「放送と青少年に関する委員会」(原寿雄委員長)は8日、血液型をテーマにしたテレビ番組は人格が血液型で決まるといった差別的な考え方を助長し、民放連の放送基準に抵触する恐れがあるとして、放送各局に番組制作上の「配慮」を求めることを決めた。
 民放連の放送基準は占いなど非科学的な事柄について「断定したり、無理に信じさせたりするような取り扱いはしない」と定めている。同委員会は、テレビ番組が取り上げる血液型と性格の関係は「証明されていない」とし「血液型で人を価値付けすることは社会的差別に通じる危険がある」と注意喚起した。
(共同通信) -12月8日


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 ■2004年10月24日:科学は他人事か

 本日の朝日新聞「時流・自論」の「科学は他人事か」に注目。
 全体として妥当な主張(少し回りくどいが)で、「このままで良いのか」という危機感は伝わってくる。

 残念な点は2つ。

 第一は、相も変わらず「科学=自然科学」を当然の前提としていること。
 本文中で、著者自身述べているように、問題の中心は「専門家まかせ」「関心放棄」である。これは、人文科学、社会科学でも全く同じことで、そのことがオウム真理教の暴走や、各種のネズミ講・マルチ商法横行の根本原因の一つとなっている。
 「科学」を自然科学に限定する思想は、一面では一部の権力者の「愚民政策」に利用される危険をもつ。
 つまり、「自由」「平等」「平和」「生存権」などといった小煩いことを考えない「理科少年」を優先的に育成し、さらに「理系」を過剰にエリート扱いすることで、視野の狭い「スペシャリスト」(同名のアイヒマン裁判の記録映像を見よ)を育てて「活用」すること、の根拠となるからである。

 第二は、大衆が「専門家まかせ」「関心放棄」に走る「背景」を見ていないことである。
 「分をわきまえる」「身の程を知る」といった悪しき(暴力的な)道徳、小学校段階から進む「選別」といったことを棚上げして、結果だけを「憂慮する」のは偽善的である。
 この著者自身、あくまでも「専門家」の立場から(大衆を見下ろして)発言していることに根本的な限界が見える。

 大衆が「人間は皆同じ(=対等)だ」と本気で考え、対等に発言することが出発点。
 その上で、あらゆる「専門家」の言説に対して、「私に解るように説明しろ」、「私を納得させろ」、「根拠を示せ」と反問しつづけること。
 そして、次の世代(子供たち)を、そこで言い負かされない、誤魔化されない、「面倒な」大人に育てること。
 実は、これは「デモクラシー」を基本とする社会を形成し維持するための根本原則である。つまり、日本の社会は未だデモクラシーを基本としていない、ということである。


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 ■2004年09月13日:「勉強苦手」な高校は授業料滞納率が高め?

朝日新聞記事から。

 国立教育政策研究所の研究者による調査結果の紹介で、標題どおりの見事な相関関係が認められる結果となっている。
 ところが、調査報告は徹底的に標題どおりの話、つまり 低学力--故に--滞納者多い という論理に終始、結論は「低学力校の教育にもっと配慮を」という、視野狭窄の教育屋に典型的な結び方。

 記事も、この能天気な話をただ紹介するだけ。

 話が逆だということぐらい子どもでも判る。
 授業料の滞納者が多い(=保護者が経済的に豊かでないか教育についての意識が低い)生徒の多い学校ほど学力も低い、ということではないか。
 経済格差が学力格差に直結する時代になったという重大な事実を、劇的に示す重要な証拠だというのに、いやはや。


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