日本語と日本文化について

(blog アーカイブ 2005〜)


 

2015年06月11日:「ご理解」ということばの暴力性

2006年12月04日:礼拝禁止

2006年06月01日:定住外国人

2005年11月10日:日本の人種差別

2005年06月01日:車が出庫します

2005年05月03日:有森裕子は何と言ったのか

2005年05月02日:堀江貴文氏の話し方

2005年04月20日:史料復刻と差別表現


 
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 ■2015年06月11日:「ご理解」ということばの暴力性

 細々したことから重大なことまで、様々なことがらについて、我々は日常的に態度を決め、あるいは評価し、そのことを周りの人々と共有しあって社会生活をおくっている。
 例えば、家族や友人と食事に行くという場面の中でも、(小さな)賛成/反対、同意/不同意、受け入れ/拒否といったプロセスが繰り返される。
 <ウナギにしようか? いや、イタリアンが良い。など・・・・>

 さて、もっと重大なことがらについてはどうだろうか。
 例えば、ある日突然、何の関係もない巨大な迷惑施設が自分が住む地域に建設されるという話〔計画)が持ち上がったら、あなたはどうするだろう。当然周りの人々と共同で、不同意、反対、拒否というメッセージを全力で発することになるだろう。

 そうなると、その計画を一方的に決めて強要してくる側の官僚や政治家は、必ずこう言い出す。
 『ご理解いただけるよう、丁寧に説明していきたい!』

 「理解」というのは、「達成」とか「成就」といったことばと同様に、「可能」の意味を内包する言葉である。これらの言葉は、一般に「○○する」とは使っても「○○しない」という使い方はせず、否定の場合は「○○できない」とする方が通常である。逆に、これに対応する肯定文は「○○できる」となってしまう。「理解できる/できない」とは、平たく言えば「わかる/わからない」ということである。

 住民の側が、その計画の詳細を検討した上で(当然 "理解" した上で)プラスよりマイナスの方が大きいから「反対だ」と言っているにも関わらず、計画する側は、「あなた方は "理解できない" ようだから、もっと良く説明してやろう」と言うのである。

 これは、明らかに意図的な、そして強い悪意の込められた "すり替え" である。

 世界の「自由で・民主的」とされる国々で共有されている最も基本的な概念は、全ての人々は「同等」〔敢えて "平等" とは言わない)である、ということである。それは、何かの意思決定において最終的には多数決原理が適用されるとしても、その過程において「意見表明」の機会は正しく与えられ、かつその意見は充分な敬意をもって扱われる、ということである。

 正当な反論・反論する人々に対しては、真摯に再反論するのが民主社会の原則である。そして、展開によってはその異論を受け入れ、あるいは妥協点を探って計画を修正するのがデモクラシーである。
 それを一方的に無知・無理解と決めつけ、 "ご説明" などと繰り返すのは、政府の方針は常に100%正しく、それに異を唱えるような人々は正常な理解力も判断力もない連中だ!と言っているのに等しい。これは、完全に「独裁国家」の思想である。

 政治家、官僚だけではない。『ご理解いただけるよう、丁寧に説明していきたい!』という奇怪な日本語のウラに隠れている "政治的意味" を知りながら、「政府は・・・引き続き、地元の理解を求めてゆく方針です。・・」などと伝えるだけの日本の "大手メディア" には、既に民主社会に不可欠の "ジャーナリズム" としての能力も気概も存在しないと言わざるを得ない。


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 ■2006年12月4日:礼拝禁止

 吐き気を催すような事件というのが実際にあるものだ。
 まず、何よりもこの研修生が引きずり込まれた過酷な環境についてである。「文書」の形で明るみに出たことで新聞記事になったのだろうが、こんなことを平気で行なっている企業の中で、記録に残らないいじめ、嫌がらせがどれだけあったかと考えるといたたまれない。例えば、イスラム教徒であれば豚肉は食べられないから、もしも食事に豚肉ばかり使われたらすぐに栄養失調になってしまうだろう。(そのかわり毎回一人分は“浮く”ことになる)
 第二に、この経営者の醜悪さに身の毛がよだつ。“無知”“無理解”などという逃げ道を断じて与えてはならない。ヨーロッパの一部で起きているイスラム教徒いじめのニュースなどをどこかで見て、早速とりいれたのに違いないのだから。もともと根強い下劣な差別意識(理由など何でも良い)や嗜虐性に、格好のネタが見つかった、ということだろう。もしも、この“縫製企業”にアメリカの取引先から見学に来た若手の白人社員が食事の前に十字を切ったとしても、それを禁止するなどとは考えもしないだろうと思う。単なる長時間労働や賃金ピンハネならば、(許すべきことではないが)ここまで不愉快なことではない。
 第三に、吐き気を催すのは、この経営者を“正しく罰する”法律がこの国には無い、ということである。法務省は国際人権規約など持ち出しているが、なによりも日本国憲法の規定を完全に踏みにじっているではないか。改めて驚愕するのは、憲法が基本的人権についてあれほど真剣に細かく定めているにもかかわらず、それを犯す行為についての法整備が徹底的に不完全であるという事実である。例えば、この経営者の行為は国際標準では“立派な人種差別”に当たるのだが、日本には(国連の再三の勧告にもかかわらず)人種差別禁止法が存在しないのである。
 「日本には“人種差別”は存在しないから」人種差別禁止法など要らないと主張してきた政府は、きっと「労働(あ、研修か?)条件の是正勧告」程度でごまかすことにするだろう。経営者には「・・な、国際人権規約なんてのもあって、いろいろうるさいから・・」とでも説得するのだろうか。

東日本の縫製工場、イスラム教徒研修生に「礼拝禁止」
 外国人研修・技能実習制度で来日したイスラム教徒のインドネシア人女性の受け入れ条件として、東日本の縫製工場が日に5回の礼拝や断食を禁止する誓約書に署名させていたことが、わかった。
 読売新聞が入手した誓約書では、宗教行為のほか、携帯電話の所持や外出など生活全般を厳しく制限している。
 法務省は、入管難民法に基づく同省指針や国際人権規約に反した人権侵害行為の疑いがあるとしている。
 誓約書は、禁止事項として〈1〉会社の敷地内でのお祈り〈2〉国内滞在中の断食〈3〉携帯電話の所持〈4〉手紙のやり取り〈5〉家族への送金〈6〉乗り物での外出――の6項目のほか、午後9時までに寮に帰宅、寮に友人を招かないという2項目の「規則」も明記している。
(読売新聞) - 12月4日17時24分更新


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 ■2006年6月1日:定住外国人

 民主制をとる国家の場合、何らかの方針の選択・決定にあたっては常に「そのことを決める権限」の所在を明確にすることが必要である。そして、それが「国民主権」という大前提のもとで公明正大に行われているか、ということを監視し、問い直し続けることが不可欠である。
 それを一瞬でも怠ると、官僚組織は必ず“緊急”とか“高度に専門的”などという口実のもとに暴走を始め、一部の政治家と組んで“官僚独裁国家”や“警察国家”への道を推し進めようとする。

 「定住外国人の在留者数に“上限”を設ける」という案が法務省のプロジェクトチーム(行政制度上は、公式には何の権限も責任も無い)でまとめられている、という報道があった。(下記)
 「日本という国が定住外国人をどのように受け入れるのか」というのは、社会・経済・内政・外交・文化・教育などあらゆる面に広く関係する、言わば“くにのかたち”に関わる大きな問題である。
 それを、「法務省内の入管、刑事、民事各局の担当者で構成」するような非公式のグループで議論し、あたかも国家的意思決定の重要な素案のようにして出すと言うのである。これはまるで、日本の「貿易のあり方」を「税関職員」が決める、というのに等しい無茶苦茶な話である。

人口比3%、定住外国人に上限=日系人在留「定職」要件に−法務省PT

 入管行政の改革を検討している法務省プロジェクトチームの責任者の河野太郎副大臣は30日、同省で記者会見し、近くまとめる改革案について、総人口に対する定住外国人の上限を3%とすることを盛り込む考えを明らかにした。また、日系人の在留条件を「定職と日本語能力」に改めることも打ち出すとしている。今後、各省庁や経済界などの意見を聞き、法改正も検討する。
 プロジェクトチームは河野氏の下、法務省内の入管、刑事、民事各局の担当者で構成され、昨年末から検討を重ねてきた。 
(時事通信/Yahoo  5月31日1時1分)


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 ■2005年11月10日:日本の人種差別
 

日本社会の「差別」指摘 国連人権委報告
 【ニューヨーク=長戸雅子】国連人権委員会のディエヌ特別報告者(セネガル)は七日、国連総会第三委員会(人権)で差別問題に関する報告を行い、日本についても在日韓国、朝鮮人への差別や同和問題が存在すると指摘した。
 この報告に中国代表は「人種差別は日本社会にあり、特定の政治家、悪名高い東京都知事らの人種差別主義的な発言がある」と日本批判を展開した。さらに韓国代表も日本社会に残る「差別への懸念」を表明、北朝鮮の代表も日本を批判した。
 ディエヌ報告者は七月の訪日調査を踏まえ、在日韓国、朝鮮人や中国人のほか、アジア、中東、アフリカからの移住者も「差別の対象になっている」と述べ、人種、外国人差別を禁止する法整備や教育を日本政府に求めた。さらに「外国人差別的な東京都知事の発言に日本政府がどういう立場を取っているのか説明を求めたい」と中国の主張に全面的に沿った見解を示した。
 こうした日本批判に対し、高瀬寧・国連代表部公使は「何らかの形の差別が存在しない国はほとんどないと考える」と述べ、教育分野で差別解消に向けた取り組みを行っていることを強調した。 (産経新聞)-11月9日2時52分更新

 この問題で重要な点は3つ。
 第一に、国連そのものを始め、世界の多くの国にこれだけ知られている日本国内の「差別」について、「多くの日本人がその実態を“知らない”あるいは正確には知らない」ということ。
 第二に、各国の代表が明らかに「この差別状況についての、日本政府の“思想”と具体的な“行動”」を問題にしているのに対して、日本の国連公使は「教育分野で差別解消・・・」と問題をすり替えていること。
 第三に、より多くの日本人が、日本国内の差別状況を「これだけ世界が“知っている”」ことを“知らない”ということ。

 第一の点は、確かに“教育”の問題であると言えるが、教科書や教育現場から“人権”や“平等”という言葉を消滅させようと躍起になっているのが、当の日本政府なのだから、事態が改善される可能性は低い。大学の教員が頑張るしかない。
 第二の点は、目立たないが重要である。つまり、この公使は(意訳すれば)「より一層(馬鹿な)国民を(政府が)教育して、差別解消に向けて・・・」と答えているのだから。自分たち高級官僚と国会議員の“差別意識”や、それにともなう政治的“不作為”(例えば「人種差別禁止法」を絶対に作らない、等)を無かったことにして、“国民”に問題があるかのように言うのである。これは、歪んだ企業体質そのものを問われている時に、「職員に対して厳しい指導・教育を・・」と言い続けたJR西日本の村上某という不気味な重役と同じ「確信犯的詭弁」である。
 第三の点も根が深い。現実に、日本はかなり重要で“目立つ”国になっているのに、当の日本人は“日本(国内)のことなど世界は知るはずがない”と思い込む、ということが大変に多くなっている。
 第一と第三の両方が重なると、一層みっともない状況となる。例えば、北海道の先住民であったアイヌの人々が“民族”としての権利をどのように奪われ、文化的に崩壊させられたのかという問題。あるいは、在日韓国・朝鮮人の人びとに対して日本の社会がどのように差別的な対応を続けてきたかという問題など。これらについて、世界の多くの国のインテリ層がかなり正確に知っているのに、日本でこれらの事実を正確に知る“一般市民”は極めて少ないのが現状である。


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 ■2005年6月1日:車が出庫します

 2005年春に、名古屋の主要駅である金山の駅前に「明日ナル」という奇妙な名前の大型商業施設がオープンした。
 駅側から見るとパティオを緩くカーブした3階建ての店舗群が囲むなかなか巧みな空間デザインである。雨天の際の利用について全く想定してないという、この種のデザインに共通の欠点をしっかりもっているが、まあ期待通りのにぎわいである。

 この施設の空間構成については、改めて詳しくとりあげるつもりであるが、今日は別の話である。
 反対側から(つまり駅に向って)この施設に近づくと、まず正面に立ち現れるのは巨大な駐車場ビルである。「歩いて来る人間」がまったく念頭に無い、ということ自体がすぐれて名古屋的であるが、さらに近づくともっとすごいことが判る、というか「聞こえて」くる。

 大手スーパーやオフィスビル、市民会館などとこの「明日ナル」が正対するスクランブル交差点に向って、その巨大駐車ビルの車出口が開いており、そこから「声」が出ているのである。声は
 「車が出庫します、ご注意下さい」「車が出庫します、ご注意下さい」・・・・
と絶え間なく続いている。

 この「日本語」は一体何なんだろう。例えば、「大量の花粉が飛びます、ご注意下さい」というのなら解る。しかし、車は「運転者が出す」から出てくるのである。一体いつから車が「勝手に出てくる」ようになったのだろうか。ここは、最低限「車を出します、ご注意下さい」とすべきだろう。

 こう言い換えることから、また新しい問題が見えてくる。「車を出す」というのは運転者の一方的な都合であるのに、「ご注意下さい」という頭ごなしの言い方は正しいのか、ということである。
 この車出口の前は本来歩道であるが、横断歩道のゼブラゾーンに塗られていて、歩行者信号が設置されている。スクランブル信号の一つとなっていて、「赤」の場合は歩行者が通れない設定である。駐車場の車用出入り口に「交通信号」を設置して、歩行者の通行を妨げるなど前代未聞であるが、それが名古屋ということなのだろう。

 それはさておき、排気ガスも出さず、石油資源も消費せず自分の足で歩いている人間が、鉄の箱に座って、石油を燃やして排気ガス出してる輩から「俺は車を出すぞ、気をつけろ」などと言われる筋合いは、どう考えても無い。「車を出します、すみませーん」とでもするのが最低の常識というものだろう。
 ちなみに、例えば東京の池袋駅前の西武百貨店の駐車場出口では、数人の制服の警備員が「車を出させていただきまーす」と個々の歩行者に丁寧に声をかけながら交通整理している。


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 ■2005年5月3日:有森裕子は何と言ったのか

 かつて、日本の代表としてオリンピックのマラソンで勝ったとき、有森裕子は「初めて、自分で自分を誉めたいと思います」と噛みしめるように語った。彼女が背負ってきた重圧と、気の遠くなるような努力の積み重ねを考えると、これは本当に重いそして美しい言葉であったと思う。
 それまで彼女は、高い実力と整った容姿で十分に人気選手であったにもかかわらず、どのような場面でも徹底的にストイックなことしか話さないことで、面白みのない「ドラマを作りにくい」選手と見られていた。したがって、初めての感情のこもった個人的な発言に、マスコミは一斉に飛びついたのであるが、その過程で奇妙なことが起こった。
 発言内容が「初めて、自分で自分を誉めてあげたいと思います」と変えられたのである。最初に誰がやったことなのかは今ではもうわからない。しかし、この「改訂版」はあっという間に全てのメディアに氾濫し、子引き・孫引きを繰り返しながら、(偽物の)事実として定着してしまったのである。
 記憶がさだかではないが、後に有森本人が「私は“あげたい”などとは言わなかった」と発言していたのを見たような気がするが、丁度その頃から「・・・てあげたい」という言い回しが目に付くようになっていたことの、象徴的な事件であったのかもしれない。
 「・・・てあげたい」は「・・・たい」の丁寧表現などでは決してない。有森発言は自分のことであったので判りにくいが、例えば「○○子(自分の子ども)を誉めたい」と「・・・誉めてあげたい」とを比べてみれば明らかである。「誉めたい」という表現には「自分の責任において、自分が誉める」という意志と責任が明確に示されているのに対し、「誉めてあげたい」という表現には「相手のために、相手の感情に合わせて」という色が濃く現われ、極論すれば「本当はそう思ってないが」という逃げの余地さえ残していると言えるからである。
 「・・あげたい」と前回とりあげた「・・じゃないですか」は、責任転嫁型の言い回しであるという点で奇妙に似ている。こんな訳の判らない「言い回し」を流行させながら、個性とか自立とか世界に通用する人材とか言っているのだから、何とも好い気なものである。


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 ■2005年5月2日:堀江貴文氏の話し方

 堀江貴文ライブドア社長について書こうと思う。
 彼は若くしてライブドアという会社を設立し、年商250億円の企業に成長させた。そのことは評価されるべきだと思う。しかしながら、ここで書くのは彼の「成功」や企業経営者としての「能力」、あるいはニッポン放送の株をめぐる今回の経緯などに関することではない。
 ただ、私が堀江氏に関してこれから書くような意見をもつに至ったのは、一連の騒動で彼のメディアへの「露出」が非常に多かったことによるわけなので、全く無関係とは言えないかもしれない。
 私は、テレビなどで見た限りの印象から堀江貴文氏が嫌いである。もっと正確に言うと彼の「話し方」に強い嫌悪感をもっている。それは、一部に言われるような「生意気」「態度が大きい」などということでは全くなく、文字通り「話し方」あるいは「論理」についての問題である。

 始めは、ニュースやドキュメンタリーに堀江氏が登場するたびに何となく不快になるという程度で、その原因についても良く判らなかった。彼の登場する回数がピークに達したとき、突然、問題は彼の「ことば」にあることが判った。
 堀江氏は記者に囲まれた場面で次のようなフレーズを連発する。
 「・・・・・じゃないですか」「ちがいますか?」「そうでしょ!」
 ほとんど全ての話が、上記のような「ことば」で結ばれるのである。
 こういう話し方は極めて不愉快である。なぜならば、自分が主張したいこと、認めて貰いたいことを、自分の意見・要求として「自己の責任において」真当に主張するのでなく、先回りして相手の同意を一方的に求める論法だからである。

 私自身は、「・・・じゃないですか」と言われたら「へエ、そうなんですか。あなたはそう思うわけですね?」、「ちがいますか?」と言われたら「さあ、私にはわかりません(私は知りません)。」、「そうでしょ!」と言われたら「無言」で返すことにしている。他人の意見・主張は「相手の意見として」誠実に聞いて理解する(賛否は後の問題として)ことにしているが、「考えるまでもなく」同意させられる覚えはないからである。


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 ■2005年4月20日:史料復刻と差別表現

 復刻された重要な史料に「差別的表現」が含まれていた場合、どのように扱うのが適切なのか、という問題は常に発生する。この問題について、小さいが注目すべき記事があった。
 かつての南海大地震の記録である「南海大地震誌」の復刻にあたって、いわゆる「不適切な表現」が含まれており、それについて高知県が陳謝、訂正を申し入れたのに対して部落解放同盟高知県連が逆に批判した、という毎日新聞高知版の報道である。
 県は、1.(差別的表現の存在について)確認を怠ったことを陳謝し、2.問題部分の「修正を行う」ことを申し入れた。
 これに対して、部落解放同盟側は、1.差別があったことは歴史的事実であり、「消す」という対応は良くない、2.注釈などの配慮をすべきだった、と批判して再度の話し合いを申し入れている。
 この「差別があったことは歴史的事実」という指摘と「消すな」という主張は重要である。これまで多くのケースで、単なる「部分削除」や極端な場合は「発行とりやめ」という結果に終わることが少なくなかったからである。
 「過去に目を閉ざすものは・・・」というワイツゼッカーの名演説を引用するまでもなく、「全部無かったことにする」という対応からは、何の反省も改善も生まれない。
 また、大きな災害の際には、自然現象としての破壊や損失以上に社会・経済的な要因による二次的な被害(とその格差)が大きな問題となるのであり、被差別地域(集団)の存在そのものは災害被害の実態に深く関わっていたはずである。その最も極端な最悪の事例が関東大震災における朝鮮人虐殺であることは言うまでもない。
 差別に関係する記述の削除や安易な修正は、当時社会的に弱い立場に置かれていた人々がどのように「被災」したか、という実態を見えにくくするという危険も孕んでいるのである。
 優れた知事が率いる高知県が、今後どのように取組むのか注目したい。

南海大地震誌:復刻版の不適切表現、県が解放同盟に陳謝 /高知
 
 昨年末に発刊された「南海大地震誌」の復刻版に一部不適切な表現があった問題で、県と部落解放同盟県連との話し合いが19日、高知市内で開かれた。
 県側は復刻版に掲載されたある地域について、指摘や県の調査で差別的な表現が2カ所あったことを説明。問題の部分の修正を行うことや、復刻版の作成について十分な確認などを怠ったことについて陳謝した。
 解放同盟側は「差別があったことは歴史的事実で、何でも消すということはよくない。注釈などの配慮をすべきだったのではないか」などと県の姿勢を批判、再度の話し合いを申し入れた。【内田幸一】
 (毎日新聞) - 4月20日朝刊


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