日本の政治を考える (blog アーカイブ 2004〜2007)


 

2007年07月31日:米下院の慰安婦決議

2007年07月03日:久間発言の問題

2006年10月22日:「首相」とは何か

2006年07月06日:ミサイル発射

2006年03月16日:ウィニーと官房長官

2005年09月16日:今、そこにある危機

2005年09月12日:小泉ポピュリズムの圧勝

2004年08月24日:沖縄米軍へり墜落事故について


 
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 ■2007年07月31日:米下院の慰安婦決議

 アメリカ下院本会議で、第2次世界大戦中に行われたいわゆる "慰安婦" の募集・徴用に日本軍が関わったことについて、日本政府に対して謝罪を求める決議が予想通り採択された。
 原文全文の入手・翻訳が未だなので、とりあえず「しんぶん赤旗」が伝えた外交委員会での決議文をもとに考える。
 決議文全体を読むと興味深いことが見えてくる。
 すなわち、 "慰安婦" に関してかなり一方的に旧日本軍および当時の日本政府を非難する一方で、現在の日本政府の様々な国際貢献については "称賛" という言葉まで用いて評価することで一種のバランスをとっているのであり、要するに、謝るべきことは早くきちんと謝って名誉ある国家たれ、と諭している論調なのである。
 そして、この決議文が真に深刻な懸念を示していると思われるのは、

 ・・・日本の学校で使用されるいくつかの新しい教科書は、「慰安婦」の悲劇や第二次世界大戦における他の日本の戦争犯罪を軽視しようとしており、
 日本の官民の関係者は最近、彼女たちの苦難に対して政府の真剣な謝罪と反省を表明した一九九三年の河野洋平内閣官房長官の「慰安婦」に関する声明を薄め、あるいは無効にしようとする願望を示しており、・・・
[2007年6月29日(金)「しんぶん赤旗」]


という記述であり、さらに日本政府に対する勧告として述べている下記の部分である。

 日本政府は、ーーーー中略ーーーー
 (3)日本帝国軍のための「慰安婦」の性奴隷化や人身取引などはなかったといういかなる主張に対しても、明確に公式に反ばくすべきである。そして、
 (4)「慰安婦」に関する国際社会の提案に従うとともに、この恐るべき犯罪について現在と将来の世代を教育すべきである。
[2007年6月29日(金)「しんぶん赤旗」]


 何のことはない、現在の内閣総理大臣がこだわり続ける2つの命題、
  戦後レジュームからの脱却
  教育の再生?
につながる政府および一部メディアの言動を強く批判・牽制しているのであり、現在の日本政府の全体的な政策傾向や姿勢そのものを問題にしていることが明らかなのである。

 政府筋、特に安倍首相は相変わらず "よく説明して" などと繰り返している。
 しかしながら、 "よく説明して、ご理解いただく" という言葉が実際には "問答無用で、受け入れさせる" ことを意味する日本国内専用のレトリックが、アメリカ議会に対して通用するはずもない。
  "テロとの闘い" におけるブッシュ路線への密着は、急速に政策転換を進めるアメリカに対して、最早大きな "貸し" にはなっていない。また "拉致" にこだわる北朝鮮敵視政策も、6カ国協議におけるマイナス要因としか見られなくなっている。
 このまま行けば今後の日米関係は極めて厳しいものとなるだろう。


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 ■2007年07月03日:久間発言の問題

 既に報道されているので、発言内容そのものは繰り返さない。
 ここで問題にしたいのは、この国の政治家とメディアの異常なほどの視野の狭さ、意識の偏りである。
 広島、長崎の首長や被爆被害に関わる人々が激怒するのはある意味で当然であるが、それにしても「心を傷つけた」の連呼ばかりなのは、一体何なんだろう。
 それ以上に、粗末というか惨めでさえあるのは「(選挙を控えた)この時期に・・」としか言わない(思いつかない)総理大臣である。前任の小泉総理の外交政策への批判に乗って登場し、一応中国訪問などしてみたが、実は国際関係に関するセンスなど皆無であることがよくわかる。

 少し時間を追って考えてみよう。

 世界の眼で見れば、核開発において日本は中国・インドとならんでアジアのトップであり、プルトニウムの備蓄量でもアメリカ、ロシアに次いでいる。
 さらに、人工衛星を打ち上げるロケット技術、誘導技術ももっているが、これは「弾道ミサイル」に必要な技術と全く同じものである。
 それにも関わらず、これまで日本を露骨に「危険な国」と名指しする国が(北朝鮮を除いて)無かったのは、以下の理由による。
 第一に憲法9条の存在、第二に被爆体験を基とする核兵器に対する国民の強い反発、そして第三に国内における軍部(=防衛庁)の地位の低さ、である。
 (しかし、潜在的な不信感は東南アジアなどには依然としてあった)

 これに対して、
 現在の日本政府・総理大臣は、「戦後体制からの脱却」を掲げ、「憲法改正」を最大の目標に掲げている政権である。
 憲法はまだでも、自衛隊に関する法改正は着々と進め、「海外任務(=活動)」もほぼ自由に行なえるようにした。
 さらに、総務省の下部組織であった「防衛庁」を「防衛省」に昇格させ、そのトップは「長官」から「大臣」になって権限も強化された。
 その流れの中で、初代の「防衛大臣」が「原爆の使用もしかたなかった」(文意をとれば、結果的には有意義であった、ととれる)と発言したのである。
 政治家の「失言」が、政策転換の「試し撃ち」として行われることがある、ということは世界的な常識であることからして、この発言が「日本の核武装」の可能性を示唆したものと受け取られる可能性は決して小さくない。
 実際、一部の政治家はこれまでにもそのような発言をしているのだが、問題は「初代防衛大臣」の発言だ、ということである。

 政府として、この件を厳正に処分(当然、大臣罷免)しない限り、既に6カ国会議で孤立し始めている日本は、外交的にさらに苦しい状況に追い込まれるだろう。
 明らかにわが国の信用を傷つけたこのような発言を、「心を傷つける」とか「選挙にダメージ」などというレベルでしか見ようとしないのが、この国の政治家とメディアのレベルなのだろう。


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 ■2006年10月22日:「首相」とは何か

 安倍晋三氏を首相とする政権が発足してまもなく1ヶ月である。
 報道を通じて伝わってくる安倍首相および政権の特徴を考えてみる。
 就任直後の記者会見などで非常に不愉快だったのは、安倍首相が何度も発言した「国民に語りかけて・・・」という言葉である。「・・語りかけて行きたい。・・直接語りかける、お話する機会を多くしたい。・・」などと繰り返された。
 また、首相本人ではないが、自民党の議員の発言の中に「新しい“指導者”として・・」という意味の言葉が多く見られたことも非常に気になった。
 例えば、イギリスにおいてブレア氏を国民の“指導者”とは決して言わない。ドイツの首相についても同じである。国家の最高権力者が“指導者”と呼ばれ、何かと国民に語りかけるような国は要するに独裁国家である。最も分りやすい国はまさに北朝鮮であり、過去にはナチ・ドイツやポルポトのカンボジアがあり、毛沢東時代の中国もそうであった。
 国民の精神的指導者も必要であると考える国の多くは、政治権力と分離するために首相と別に大統領職を設けたり、国民の多くが信仰する宗教の最高指導者がそれを担うという例が見られる。前者はヨーロッパのいくつかの国で、そして後者はイスラム世界で広く見られる。ローマ法皇というのも後者の極端な例と言える。
 その中で際立って特異なのは「アメリカ合州国大統領」という存在である。ここでは深入りしないが、旧いヨーロッパへの根深い劣等感と憧れから作り出されたこの奇妙な存在は、事実上は単なる政治権力者に過ぎないにもかかわらず、(家族まで含めて)アメリカ国民の「模範」「精神的指導者」というフィクションに包まれているのである。
 夫が政治家として成功しただけなのに、その妻を「ファーストレディ」と持ち上げる臆面の無さ、節目ごとに国民に向けて発表される大統領の「報告」に“教書”と名付ける尊大さに、ヨーロッパの政治家たちは辟易するのである。
 民主制が確立している(筈の)国であれば、議院内閣制すなわち間接的に国民によって選ばれた「首相」や「主席」は、あくまでも政治運営を“託された”存在なのであって、断じて“指導者”などではない。であるから、首相が国民に対して為すべき事は、なによりも率直で明快な「説明」と「報告」でなければならないのであって、“教えを垂れる”ことなどもってのほかである。
 自分の“ことばを聞く”ことを多くの国民が熱望し、自分が国民を“指導”して「美しい国」を“創る”のだ、などと考えているのだとしたら、日本国民と自由民主党は、戦後最悪の危険きわまりない政治家を代表に選んでしまったことになるのではないか。


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 ■2006年7月6日:ミサイル発射

 北朝鮮(これは始めから敵対的な呼称である)・朝鮮民主主義人民共和国(正式だが長い!以下ではDPRKの略称を使う))が各国の制止を無視して弾道ミサイルを発射した。
 この7発のミサイル発射については、DPRK政府独特の国際的非常識の一部として、および6カ国協議における申し合わせ事項の公然たる無視という意味で、きわめて異常な行動として非難されなければならない。
 しかし、こういう時にこそ、事実を冷静に見ることも大切である。
 ミサイルはどう見ても「ロシア沿岸」に向けて発射されている。特にスカッドかノドンと見られる中距離ミサイルは、ロシアの領海にきわめて近い海域に着弾しており、被害が出るとすればロシア沿海州の漁民である。
 また、失敗したと見られている3発目(テポドン2号?)が正常に2段目に着火したとしても、着弾地はアリューシャン列島付近になったと想定される。
 このような状況にも関わらず、今のところロシア政府が激怒する様子はない。ロシア側の落ち着きぶりからは、事前にDPRK側から何らかの通告があったのではないかとも考えられる。
 いずれにせよ、日本にとって現実に危険を感じさせる行為ではないにも関わらず、日本の一部の政治家はまるで非常事態であるかのような気色ばんだ態度を見せ、マスコミは政府発表をそのまま垂れ流して、日本近海に「向けて」ミサイルが「撃ち込まれた」かのような表現を繰り返している。街頭インタビューに「怖いです!」などと答える市民が少なくない(ように報道され続ける)ことに、私はむしろ恐怖を感じる。
 こちらに向いてなくても、ミサイル発射という行為自体が「許せない」、「恐怖」を感じるのは当然だ、と言うのだろうか。それでは、毎年行われる「米韓軍事演習」でいったい何発のミサイルが発射されているか、と問いたい。さらに、今現在、パレスチナの市街地に好き放題にミサイルを撃ち込み、多数の死者を出しているイスラエルという政府は許されるのかと。
 このようなDPRKの行動に対して「日本に軍事大国化の口実を与える」ものだから許されない、という意見が、韓国を中心としてアジアに広く存在することも忘れてはならないだろう。


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 ■2006年3月16日:ウィニーと官房長官

 ウィニー+ウィルスによる「情報の流出」という事件が続出している。 "事件" そのものの基本的な意味については後で触れるとして、この件について安倍官房長官が“国民に”語った、というニュースは不愉快極まるものである。
 彼は、それがまるで“有事”の一種であるかのような口ぶりで国家の危機を強調し、 "情報漏洩" を防ぐことが急務であって、「国民の皆さんはウィニーを(自分の)PCに入れないことが第一です」と結んでいる。
 この発言には見過ごすことのできない“すり替え”と“傲慢”とが含まれている。
 すり替えと言うのは次のようなことである。
 ウィニー+ウィルスによる情報流出が、個人のミスでは済まない「社会的な事件」となるためには、以下の2つのいずれかの条件が必要である。
 第一の条件は、機密情報・個人情報を扱う職員が、自分が使う職場のPCに "勝手にウィニーを入れ" そのために職場のPCの内部にある情報が外部に流出した場合である。
 第二の条件は、本来職場から持ち出してはならない機密情報・個人情報などのデータのコピーを、何らかの記憶メディアを用いて職員が "勝手に持ち出し" て自分の (ウィニーを入れた) PCに入れ、そのために個人のPCの内部に複製された情報が外部に流出した場合である。
 警察庁や防衛庁の“漏洩事件”など、いずれもこれらに該当する不法行為の結果起こったことである。組織内部でのモラルの低下、ルールの不徹底、そして情報管理意識の低さ、が生み出した結果に過ぎず、この場合、まず為すべきことはそのような本来禁止されている行為を行った人物を厳しく追求し、再発防止を徹底することでなければならない。いずれにせよ、この種の事件は "関係者" の意識と行動の問題なのである。
 ところが官房長官は、あたかも一般の国民全体が日常的に危険にさらされているかのような発言を行って根拠の無い危機感をあおり、さらに警告と言うか脅迫まがいの "指示" までしているのである。
 機密文書の " (紙の) コピー" が流出する事件が起きたからといって、記者会見で「一番良いことはコピー機を置かないことです」などと言ったら正気を疑われるのは確実だが、実は同じ論法なのである。
 個人のPCにウィニーを入れても、勤務先の仕事とは関係のないPCであれば別に何の問題も無い。そこに自分個人の銀行口座や暗証番号のデータを入れていてどうかなったとしても、それはその無知な自分の問題である。インターネットにはその種の危険があること、自分がどの辺りでどのような危険に近づいているのか、使うからにはそれくらいのことは知って使うのが最低限の“自己責任”というもので、それこそ日本政府の大好きな言葉だったはずである。
 ネット絡みということでニュースに大きくとりあげられたとしても、しょせん一部の公務員+企業社員が関係した "職務遂行上の不祥事" に過ぎない。そのような事件をねじ曲げて、上のようなすり替えを行い、しかもそれに便乗して「国民に教えを垂れる」かのような言動を示すのはなんとも不愉快千万である。


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 ■2005年9月16日:今、そこにある危機

 しつこいようだが、また書く。本当に危ないと思うから。
 議会制民主主義の基本は、思想・言論の自由と、その上に立って政策を議論しあう“選挙によって選ばれた”議員たちである。そして、一方で政治は“選択の連続”であることから、100人100様的混沌を整理し、議論・選択を効率的に進める手段として“政党”という形が作られる。
 そこでの参加条件は、大きな政治的思想において一致することであって、決してあらゆる選択において党首に盲従することなどではない。アメリカにおける民主・共和両党(議員)の場合も、イギリスの労働党・保守党の場合もまさしくそうである。
 “2大政党制”というのは、それぞれの政党内部において、自立した議員個々の判断が優先されるからこそ、“主要政党が2つでも良い”のであって、そうでなければまさに「51対49でも手軽に実現できる独裁制」と化してしまう。
 第二次世界大戦後の60年間、そのほとんどにわたって日本の政権を担ってきた自由民主党という政党は、政権党であることで当然多くの批判をあびてきたが、この“内部的多様性”という点において、優れたチェック&バランス機能を確保できる政党であった。
 その自由民主党が死にかけている。すなわち、世界の自由主義国では常識である政党内部の自由な言論・政策判断が完全に否定され、すべての議員が党首の決めたとおりに意思表示する=議席数という“数”でしかない、という異様な政党に変わりつつある。
 このような政党、その独裁的な指導者に“絶対多数”を与えたら、どのようなことになるだろうか。「私に賛成するのが自民党員なんだから、反対なら出て行けばよい」「私を総裁に選んでおいて、私の言うことが聞けないというのは、おかしいじゃないか」これらはいずれも現首相の発言である。
 彼に絶対多数の支持を与えたということは、この発言の「自民党員」を「日本国民」に、「総裁(党首)」を「総理(首相)」に書き換えることを認めた、ということなのである。
 多くの野党やいわゆる反対派が、彼のプロパガンダ的に単純化された“ことば”ではなく、彼が実際に何をやってきたか(やらなかったか)を見るべきだ、と訴えたにもかかわらず、日本国民の多くはそうしなかった。
 今、彼は何をしているだろうか?
 80人近い初当選議員全員に対して、自由民主党内部にあって自分に批判的な言論の砦となり得る派閥への参加を禁止し、自分の管理下で行う“勉強会”に参加させようとしている。すなわち、公言したとおり彼は自由民主党を壊し、小泉独裁党を着々と作っているのである。


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 ■2005年9月12日:小泉ポピュリズムの圧勝

 選挙が終わった。結果は民主党の一人敗け、それも“惨敗”という他ない。
 とは言え、自民党の票の伸びは大都市若年層が圧倒的に自民(小泉)を支持したことによると見られ、結果的には、投票率の上昇がこの結果を招いたとも言える。
 いずれ分析結果が出ると思うが、興味深いのは、“絶滅”も危惧された社民党、減少が予想された共産党が意外に(と言っては失礼だが)健闘していることである。この2党に共通するのは主張が単純で明快だったことである。小泉自民党が“究極的に単純な主張”で圧勝したことと併せて、考えさせられる結果である。
 実際に得票結果を見ると、自民、民主両党の間で前回の当落が逆転している小選挙区の場合、自民が“圧勝”しているケースはそれほど多くない。すなわち、元々自民党が強かった選挙区を除けば、個々の得票において民主党が“惨敗”したわけではないが、獲得議席数の結果がこうなるのは小選挙区制の特徴と言う他ない。
 これらを考えると、結局この選挙結果をもたらしたのは、民主党の主張に明確さが欠けていたことによるものと考えられる。しかもそれは“戦術”的なものと言うより、民主党の体質そのもに内在する不安定、混迷の結果であり、年金問題の強調も唐突に見えた、と言うことであろう。
 民主党の敗因はともかく、先に述べた“単純な明快さ”が勝敗を決するという傾向は重大である。政権政党の可能性がない弱小政党が、明快な主張をするのは “野党”としての存在意義を訴える意味で当然であるが、最大の政党があらゆる問題を2項対立的に単純化し、“白か黒か”で押しまくることが戦術的に有効であるというのは、極言すればファシズムへの道を開くものだからである。
 もう一つ、デモクラシーを守る国であれば、権力をもつ側は常に“やや保守”あるいは“緩やかな改革”の姿勢で政策を進め、一方野党側は常に“大胆な改革”を主張するものである。それで政権が交代すると、新与党は野党時代の主張の割には“穏健・現実的な”政策をとることになり・・・ということを繰り返すことで、絶えざる改革を続けながら暴走を防ぐというのが議会制民主主義システムの基本である。
 しかしながら、小泉政権の特徴は「自分たちの方が“改革”なのだ」と主張するところにある。権力をもつ側が“改革”や“世直し”を声高に唱え、権力をもって推進する状態は、始めのうちこそ一種の爽快感や充実感を与えるものだが、喝采を送っているうちに大変なことになるのは、かつてのドイツを見るまでもないことである。
 さあ、これから恐ろしいことになるぞ。


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 ■2004年8月24日:沖縄米軍へり墜落事故について

 米軍がへり墜落を「予測していた」ことは、無線がある以上当然だろう。むしろ、飛行困難の連絡に対して、(市街地の中では)大学敷地への「不時着」を指示した可能性が高い。
 それよりも、この事件は米軍が沖縄の一般市民どころか警察や消防にまで「命令」し、「行動を制約」できること、一方、沖縄県警は米軍(人)に対して指一本触れることもできないこと、を改めて明らかにした。
 世界の常識では、こういう状態を「占領」とか「軍事支配」と呼ぶのではないかね。


 
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