「情報化××」のいかがわしさ

「総合ジャーナリズム研究」 1998年3月

 

 「情報化」というのは、単独で出てくると気にならないが、後に何かが付いた「情報化××」となると妙にいかがわしくなる言葉である。そのいくつかを挙げてみたい。

 まずとりあげるべきは「情報化社会」であろう。
 我々の周囲には、多くの新しい情報施設・設備や情報機器が登場し、様々な役割を果たしている。このことを指して「情報化社会」と呼ぶ単純な使い方がある。言葉はさておき、筆者は、この「情報・通信技術の発達とその成果の普及」ということについては素直に評価するものである。
 みどりの窓口で特急券を買う、夜の七時にCD機で金を引き出す、近所の出張所で戸籍謄本や印鑑証明を取る、日本中どこでも、さらには海外まで簡単に電話がつながる、こうしたことの全てを我々はほとんど意識せずに享受しているのである。視覚障害者や老人には操作が困難なCD機、やたらにかかってくるセールス電話など、決して「良いことずくめ」ではないのも事実であるが。
 これについて、「情報化にともなう人間疎外」とか「権力に都合の良い情報化」といった論点に頑なにこだわる人々がいる。しかし、救急車も暴走車も同じ車であるように、また増えた車で交通渋滞も起きるように、評価は技術と成果を受容する社会の側も含めて下すべきであり、技術そのものを一方的に否定するような発想は、やはり歪んだものと言わざるを得ない。
 もっとも、これと対極にあるような、少しばかり文化や社会を噛っただけのノーテンキなエンジニアや企業の広報担当、さらには(体制寄りの)時流に乗ることしか考えていない一部の学者達が、押しつけがましく展開する「バラ色ずくめの技術万能的情報化社会論」の不愉快さに比べれば、頑迷ではあっても真面目なだけまだマシと思うべきなのかもしれない。
 「情報化社会」はもうひとつ、経済の発展における一段階という意味で使われる言葉でもある。「ポスト・インダストリアル・ソサエティ」などといったものである。
 元々はそれぞれの論者なりの論理性や独創性、そして一定の節度をもった主張であったものが、特にわが国においては、怪しげな評論家や行政の間で子引き孫引きされるうちに、果てしなく誇張され、断定的になり、まるで神託のように暴走を始めてしまうのがこの種の用語の常である。
 「脱工業化」などという珍訳もあったが、人間が肉体を持つ存在である以上、住居を造り、衣服を着、そしてものを「食べる」ことからは逃れられないのである。この面について言えば、「情報化」といっても所詮は農業・工業の生産性がより高まり、経済階層的分業化が進むことでしかないのではなかろうか。

 「情報化人材」というのもいかがわしい。
 ただし、これは官庁的造語法そのものからくる「いかがわしさ」であって、意味する(したかった)ところはそれほど異様なものではない。
 要するに、産業を中心に、コンピュータ化を進める上で必要と思われる専門技術者や教育者、さらにはコンピュータ化が進んだときに必要と思われる「コンピュータを使える経営者や事務員」を養成しておきたい、というだけの話である。
 それなら最初からそう言えばよいのである。妙な言葉を造るから、つい植木職人=緑化人材、ビル清掃=美化人材、助産婦=人材化人材?、などと茶化してみたくなる。
 むしろ、問題は当然のように「情報化=コンピュータ化」になってしまっていることであろう。ある会議で「これは情報を創る人材ではなくて、情報を処理したり、その道具を作る人材のことなんですネエ」とやって猛烈に嫌な顔をされたことがあるが、筆者はこの見解を変えるつもりはない。
 また、「×××人材」という言い方そのものも、人を産業や企業に従属させるような高圧的な響きをもつものであり、先に述べたような「頑迷的懐疑派」ならずとも「何を偉そうに・・」と言いたくなるものである。

 情報化×××ではないが、「地域からの情報発信」というのも奇怪な言葉である。
 情報・通信技術の発達は、少なくとも自由社会では「場所と時間による人々の間の不平等を減少させ、自由度を高める」という面で最も大きな貢献をしてきたのであり、言ってみれば「いつでも、どこでも、同じように・・・」という理想に向かって突き進んできたものである。
 その過程で一応の到達点に達したと思われる今になって、「地域からの・・・」とは一体どういうつもりなのだろう。「地域内での情報発信」ならば妥当な目標である。全ての情報を外部に依存するのは好ましくないし、地域でしか扱えない情報も少なくないからである。ところが、やはり「地域から外への・・」であるらしい。困ったものである。
 「情報発信に不利な地域環境の改善、発信条件の不平等の解消」というのなら良くわかる。そのうえで、どちらから発信しようが「発信人の勝手」というものである。あとは、その発信人と発信された情報とが、受け手にどう評価されるか、という問題に過ぎない。
 そもそも「発信」という、なんとなく電波塔とかパラボラ・アンテナとかを連想させる言葉に陥穽があったのである。ある自治体の担当者から「わが×××の地域情報のデータ・ベースを創って、全国に発信したい」と相談されて困惑したことがある。
 「地域で創って全国に出す」というのは要するに地場産業である。その場合「商品自体の魅力」が絶対的な条件であることは、常識以前の問題である。モノであれば考える筈のない妙なことを、情報と言うだけで思い込んでしまうのが「言葉の魔力」というものであろう。
 これについては、「単に、売れる売れないといった問題ではない。地域のアイデンティティの問題なのだ」というような反論を受けたことがある。いいでしょう、「アイデンティティのためなら無駄遣いも許される」と言うのなら。ただし言っておきたいのは、「それならば全部自分達で考えるべきだ」ということ。「地域からの」発信を「地域の」アイデンティティのためにやると言う以上、東京の広告屋やコンサルタント、あるいは流れ者の「仕掛け人」などに頼るのは明らかな矛盾だからである。

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