はじめに
1 議論の前提
1.1 情報化という変化
1.2 福祉の意味
2 情報化と技術
2.1 情報化をもたらした技術
2.2 技術は人にやさしいか
3 情報化と社会
3.1 情報行動と情報環境
3.2 情報と力
4 情報福祉の意義と課題
4.1 基本的視点
4.2 当面の課題
はじめに
「・・しかし、基本的な疑問が残る。わたしたちは、持つ者と持たざる者という古い分け方を、情報を知る者と知らざる者という新しい分け方に替えようとしているのだろうか?・・」 1)
これは、国際連合大学の第2代学長スジャトモコが1986年にバンクーバーに於て行なった演説の一節である。
情報と福祉という2つの言葉から導き出されるものは、ともすれば「情報機器やシステムによる福祉サービスの高度化」といったバラ色のイメージと、「管理社会化の進行とテクノストレスの激化」という暗いイメージ、の両極端に走りがちである。
この2つの側面を否定する必要はない。しかし、より大切なことはスジャトモコの演説が簡潔に表現しているように、人間社会が時代・地域を超えて常に内蔵している不公平・不平等というゆがみが、情報化時代にはどのような形をとって現われるかという冷静な視点ではなかろうか。
本稿では、できるかぎりこのような視点に立って、高度情報化の進むわが国における福祉の新しい側面としての「情報福祉」について考えてみたい。
1) 国際連合大学広報「WORK IN PROGRESS」 Vol 13-1 による
1.議論の前提
1.1 情報化という変化
情報化という問題については、ほとんどあらゆる議論がつくされているように見えるが、筆者にはその一般的なイメージに未だ大きな”ゆがみ”があるように見える。具体的には、技術面(の進歩)に偏った極めて楽観的なイメージの多数派と、その裏返しである技術発達の”非人間性”をやや過大にとりあげる少数派とである。
しかしながら、どのようなハイテクもそれを使うのは生身の人間であり、われわれ自身の肉体や感情が機器・設備と同様に進化しているわけではない以上、すべての技術(革新)が良いものであると言いきれるはずはない。また一方、巨大情報システムを悪の権化のように言うのは、銀行で預金が自由に迅速に出し入れでき、電気・ガスや電話が常に不安なく利用できるという、現実の生活自体を否定することに他ならない。
より重要なことは、われわれ自身の価値観、生活行動から仕事の内容、経済構造に至る広い範囲で、大きな変化が起きていることである。
例えば、企業や官庁の中枢管理部門に勤務する人の場合、朝出勤してから退社するまで、電話、ファクス、訪問客との面談、社内の会議、書類を読む、書く、といったことで仕事の大部分が構成されているのが普通である。これらはいずれも「情報」にかかわる作業である。また、この人々はおそらく自宅や通勤途上の車中でも、テレビ、新聞等で情報を精力的に吸収しているはずである。
顧客と直接接する、販売や渉外といった部門の人々でも変化は起きている。ポケットベルの普及につづいて、自動車電話、携帯電話が急激に普及し始めている。ラップトップ型のオンライン端末を持ち歩く銀行員も出てきた。これらはいずれも「必要かつ十分な情報を、何処でも即時に入手・提供できること」という必要から出ている。
この間、多くの製造業で生産現場の人員が減少し、かつては間接部門として合理化の主対象であった本社管理部門の人員が逆に増加してきている。これは、情報を扱うことの企業の中で占める重要性が、飛躍的に高まったことに他ならない。
ここで増加した、情報処理、調査、企画、デザイン、教育研修といった部門は、やがてスピンアウトして独立の(情報系)サービス産業となってゆくのであり、こうして産業構造全体では、いわゆる第三次産業特にサービス産業の比率が急激に増大している。
また、働く人々の職業構造でも、いわゆるホワイトカラーである専門的管理的職業と事務職に従事する人の比率が高まっている。
これらの変化は、当然職を得ようとする人々にある程度の情報処理能力(読み・書き・話す)を求めることになり、高学歴化、継続学習ニーズの増大につながっている。最近、東京大学、筑波大学等に設置された社会人向け大学院の人気の高さも、このことに関連するものと言えよう。
逆に言えば、情報化社会はこういった能力を持たない人々にとっては、一定の職を得ることが困難になり、きわめて末端的・補助的な仕事にしか就くことができなくなるという側面ももっている。人手不足のつづくわが国では未だ表面化していないが、アメリカにおいて「自然失業率」という非情な言葉で表されている数字は、この能力不足による失業を多く含んでいると言われる。
「情報化」は決して技術とその応用といった問題ではなく、社会・経済の組織・活動の全般にわたる大きな変動なのである。
1.2 福祉の意味
近代的な民主主義社会の基盤が「自由と平等」にあることは言うまでもない。わが国も戦後45年間、多少の揺れはあったとしても、全体としてこれら2つのより確かな実現に向けて歩んできたはずである。
狭義の情報に限ってみても、新聞、雑誌、書籍等の発行部数は世界有数の水準に達し、テレビ放送についても、全国のほとんどの地域で複数のチャネルが視聴できるようになった。多くのメディアが読者(視聴者)の声を重視するようになり、すべて投稿で構成される雑誌などというものも登場している。
また、電話網の発達によって全国同時通話が可能になり、通話料金のいわゆる遠近格差も次第に縮小されつつある。交通網も整備され、逢いに行くこと、行ってみることもはるかに容易になった。
このように、時代の流れのなかで見るかぎり、わが国は多くの点で幸せな道をたどっていると言える。しかしながら、スジャトモコも指摘するように、同時代のなかでの不公平・不平等は果たして解消・縮小されてきたのであろうか。形を変えて拡大・強化したような部分は無いと言いきれるであろうか。
「社会のあり方」という場合、いわば鳥の眼で見たあり方と同時に、その社会を構成する個々の人々にとってのあり方というものがあるはずである。この両者は決して別物ではないが、多少のズレがあるのが普通である。例えば「総合的に見て我慢の出来る範囲」という裁判などでよく用いられる見方と、「私は我慢できない」という意見との差である。
むしろ、望ましい社会のあり方というのは、ある(到達すべき)固定的な状態にあるのではなく、それを追及する権利の確保にあるのだ、と考えることができる。すなわち、個々の局面に於て、自分にとってより良い状態を追及する権利が、平等に認められていることが、健全な社会の第一条件であると考えられるのである。
その上で、このより良い状態の追及にあたっての不平等性を、できるかぎり小さくしようとするのが福祉であると考えると、福祉政策も一般のイメージのように、「特定の弱者に対する特定の政策」などではなく、健全な社会を実現させて行くための基本的政策のひとつであると言うことができる。
すなわち、特定の人々が自分ではどうにもできぬことで固有の不利をこうむっているのではないか、平等な条件に置かれずにいるのではないかという眼をもって、社会のあらゆる面を見守ってゆくことであり、そのような状況が生じたときには、平等な条件にもどすためにどうしたら良いかを考え、実行することが福祉政策の基本であると考えられるのである。
2.情報化と技術
2.1 情報化をもたらした技術
社会的な利便性が、情報化によって高まったことは明らかである。また、その変化の最大の要因が技術発達にあったことも言うまでもない。通信技術とコンピュータ技術、特にデジタル化によるその両者の融合が、これだけの大きな変化をもたらしたのである。
ここでも、一般に広まっているイメージには多少ゆがんだ部分がある。例えばコンピュータ技術は、実際にはいわゆる”コンピュータ”としてではなく、直接われわれの目には見えない形で深くかかわってきている。
その第一は組み込み型のマイクロプロッセッサである。具体的には、全自動洗濯機、エアコン、多機能電話機など、身の回りのあらゆる種類の機器に組み込まれ、その操作性を向上させるという形でわれわれの生活に貢献しているもので、いわば”小さくて見えない”グループである。
その第二は、巨大な情報システムとしてすでに社会の基盤を形成しているものである。例を挙げれば、銀行のオンラインシステムやJRの「みどりの窓口」さらには住民基本台帳や選挙人名簿などで、逆に”大きすぎて全体が見えない”ものである。この第二のタイプのシステムがもたらした効果は大変大きなものである。そのどれをとっても、仮に故障したらわが国社会全体のマヒにつながる重要なものばかりである。
これらに比べれば、いかにもそれらしく見える職場のパソコンなどは、しょせん文具の延長に過ぎないと言っても良いものである。
このような、コンピュータ応用機器と応用システムの普及・発達によって、一般の市民は時間と労力とを大きく節約することができ、また小さな日常的なトラブルからも解放されるようになった。
一方、問題も無いわけではない。例えば、身の回りの電気器具は、利用者には絶対修理出来ぬものとなって、粗大ゴミの増加と資源の浪費につながっている。さらに、巨大オンラインシステムの意外な脆弱性、故障したときの影響の大きさも再三指摘されるところである。
より日常的には、先にも延べたように、人々は読み書きから特殊な機器慣れまで、知らず知らずのうちに多くの能力を要求されるようになっている。自宅の旧型の電話機しか知らない老人にとって、電話ボックスのなかのカード式プッシュホンはとても同じ電話機とは思えぬものである。また、振込に際して窓口処理を嫌って、ATMの利用を強要する銀行も少なくなく、操作が飲み込めずに後ろにできた行列に脅える人を見ることも珍しくない。これらは、果たして過渡期に不可避の一時的な混乱にすぎないと言えるのであろうか。
2.2 技術は人にやさしいか
しばしば言われる言葉に、「情報化の光と影」あるいは「新技術のプラスとマイナス」といったものがある。皮相的には医薬品の効能と副作用のようにとられているようである。前述のような混乱は果たしてこれと同列のものなのだろうか。
医薬品の場合、それが化学的・生理的に「効く」こと自体に副作用が内在していることが多い。しかしハイテク機器が普通の人々にとってつきあい難い理由はこれとは本質的に異なっている。つまり、少しばかりの慣れの問題を除けば、そのほとんどは機器自体が未完成だからであり、要するに「使いにくいものだから難しい」のである。
マスコミが好んでとりあげる、中高年管理職のOA機器不適応もその一例である。永年難しい仕事をきちんとこなし、コピーや電卓は自由に使い、車の運転もできる立派な大人が、努力しても使えないパソコンというのは、どう考えても機械の方に重大な問題があると考えるべきである。
もちろん、単なる感情的な毛嫌いや、ほんの少しの努力もする気がない、といった明らかに本人側に問題があるケースも無いわけではないが、多くのパソコンやソフトウェアは道具としての完成度が異常に低く、ほとんど専門家かマニアのための製品であるように見える。
一方、より一般的・公共的なシステムにおいても、この使い勝手への無神経さは数多く見られる。例えば、2段・3段に並んだボタンを決められた正しい順序で押してゆかなければならない高機能の自動券売機は、乗客に駅員なみの知識と判断を強要している。これは、人件費や窓口の設置費用だけをコストとして見ていて、大切な「客の使い勝手」を計算に入れてないことの結果である。銀行などにも見られる、このような一方的な専門家用機器の押しつけを、日本人は無類の飲み込みの良さと、忍耐強さとで受け入れてしまっているのである。
このような、使い勝手に対する想像力の欠如は、一面でハンディキャップをもつ人々に対する、信じ難いほどの鈍感さとなって現われる。その典型的な例は銀行のCD機に急増しているタッチパネルに見ることができる。
従来型の押ボタン方式であれば、ボタンの押面に凹凸をつけること、周囲に点字表示をつけることで、視覚障害者にも容易に操作することができた。ところがタッチパネルというのは、スクリーンの中のブラウン管上に映像として現われるメニューを見て、その表面を押すことで指示を与える方式である。これでは、どこに何が表示されているかは、目が見えないかぎり絶対に判断できない。
この方式の長所は、ボタン等の機械的な作動部分が無いため故障し難いこと、利用メニューの変更にソフトウェアだけで対応できるため、機器の改造が不要なことなどであり、要するにコストの問題に過ぎない。
要は、機器の開発と導入にあたって、「目が見えない人にはどのように使ってもらうか」という想像が欠けていたというだけのことである。コストを度外視しろと言うのではない。そのような想像力と問題意識が正しく存在していれば、もう少し違った方向でこの技術(タッチパネル)も活かせたのではないかと思うのである。
例えば、全ての金融機関でスクリーン内のメニューの並びを共通にする、スクリーンの周囲の枠にガイドのための刻みを入れ、メニューの位置の見当がつけられるようにする、選択したメニューを音声で確認する、などといったことは、あらかじめ考えてあればそれほど大変なことではないはずである。
繰り返すが、新しい技術がわれわれにとって不快なものであるのは、ほとんどの場合技術そのものの欠陥ではなく、それを応用した機器自体が未熟な完成度の低いものであったり、想像力に欠けた無神経な製品となっているからなのである。
3.情報化と社会
3.1 情報行動と情報環境
労働時間と睡眠時間とを除いた残りの時間の実に多くの部分を、われわれは何かを見たり、読んだり、聞いたりすること、人と話すことなどに当てるようになってきている。このような変化は、前にも述べたように職場における仕事の内容においても進行している。また、活発な好奇心の強い学生を例にとれば、起きている時間のほとんど全てが、こういった行動で占められていると言っても過言ではない。
このように、何らかの情報を意図的に摂取すること、他者に対して情報を発信すること、をここでは「情報行動」と呼ぶことにする。加藤秀俊が1972年に著した同名の本2) は、この言葉を”経験の蓄積”といったようなより広い意味で使っているが、冒頭に『・・ことばの触手にさわりながら現代の人間は生きている。』というきわめて含蓄に富んだ記述のある名著であった。
この本での加藤の記述にもあるように、「ことば」をやりとりすること、「ことば」に触れることは、現代の人間にとってきわめて重要な行動であり、逆に一部の限られた人々でなく、いわば”大衆”もあらゆる情報に触れることができるようになってきたのが”現代”であると言うことができる。このことの重要性は、「知らしむべからず、依らしむべし」という対極にある思想を対比すれば明らかであろう。言い換えれば、われわれが多くのことをを知り、知らせることは、きわめて日常的な行動であると同時に、われわれが自由と平等に立脚する近代的な社会に属していることを最も具体的な形で示すことでもあるのである。
それでは、知ること、知らせることに関して現実はどこまで到達し、どのような問題を抱えているのであろうか。
筆者はかつて「情報の地域格差」という大規模な研究プロジェクトに携わったことがある。そのなかで、多くの人々にとっての最大の情報源であるテレビ放送について興味深い事実が出てきた。その第一は、視聴できるチャンネル数が少ないという強い不満が多くの地域にあること。そしてこの不満は地元の民放が全国ネット系列に対応する4局に達すると同時に解消することであった。その第二は、こうして受け取られているテレビ番組の圧倒的多数が東京で制作されているということであった。すなわち、「情報を受け取る面での地域差は確実に縮小しているが、情報を生産(発信)する面での地域差は依然として巨大である」ということであった。このことは、書籍の出版においてはもっと極端であり、当時の指標で全国の80パーセント以上が東京に集中していた。
さらに、経年的に見ると、この情報生産における東京への集中は確実に進行していることが明らかになった。東京以外の地域が停滞しているのではなく、それを上回る大変なスピードで東京の情報生産が成長していたのである。このような点から見ても、情報行動を展開する環境条件において、東京とその他の地域の間に明らかな格差があることが結論づけられたのである。
このような環境条件を「情報環境」とすると、上に挙げたような社会・経済的な要因の他に、テレビ受像機やアンテナ、電話回線やFAXといった個人(や事業所)の身の回りにあって、情報行動を支える施設、機材などもその構成要因と考えることができる。
一時期、後者のような要因、すなわち光ファイバーのISDN回線網やCATVといった「情報インフラ」を整備することが、情報の地域格差の解消に有効な手段である、という考え方が広まったことがある。今日ではほとんど結論の出たことであるが、これだけでは正に前述の「伝達の格差は縮小するものの、生産の格差をより広げる」ものでしかなかった。こういった整備、公共投資は無駄ではないが、あくまで必要条件の一つに過ぎず、決して充分条件ではなかったのである。
このような誤解は、結局のところ「情報を生産するのは人間(集団)の活動である」という基本的な認識を欠いたことからはじまっている。逆に、「情報を生産し得る人々」の存在を正しく捉え、そこに有効適切な情報インフラを整備することができれば、そこには新たな情報行動の集積が起こるはずであり、結果として創造的な情報が生産(発信)されることも期待できるのである。
総合的に見れば、情報環境は狭義の情報インフラと情報メディア、そして情報自体の集積、さらに情報行動を展開する人々の集積によって構成されると言える。回線の質・量やテレビのチャンネル数、図書館の有無などは前者であり、放送局や出版社、大学や研究機関などの存在が後者の例である。
今日、われわれはしあわせな生活をおくる重要な一部分として情報行動を展開している。そのために、空気、水といった生理的な環境や、家族、職場などの社会的な環境とならんで「情報環境」が重要な意味をもっているのである。
2) 「情報行動」加藤秀俊:中公新書 306、1972年
3.2 情報と力
東京への情報生産の集中は、経済活動や政治権力の集中と重なるという面ももっている。より具体的には、地方で成功した企業が最終的には本社(機能)を東京に移すという行動、また、その理由を問われたときに例外なく挙げられる「情報の入手機会」と「諸官庁との接触の便」という回答に現われている。
社会・経済構造が情報化の度を高めるほど、情報は固有の価値をもち、情報をもつことがそのまま「力」となる傾向が強まる。今日では、企業等の組織・集団の意志決定はすべて情報とそれに基づく判断によって為されるのであり、”必要な情報を必要な時に”入手することができるか否かがその組織の命運を分けるからである。事実、最近のいわゆる湾岸戦争では、衛星からの探査と解析という情報技術が決定的な役割を果たしている。これは極端な例としても、情報が武器となる局面はきわめて多くなっている。
戦争は別として、われわれの社会の基本である自由でかつ健全な競争を実現するためには、一方で、情報を武器とすることについての一定の制約を設けることが必要になる。日本と諸外国、特にアメリカとの間でしばしば問題になる「談合」や「インサイダー取引」は、まさにこの問題に対する正しい制限のあり方をめぐる議論である。
大変残念なことに、この問題に関するわが国の現状は決して望ましい姿とは言えない。明らかに「情報を武器とする戦略」に法や制度が追い付けず、一部には弱肉強食に近い状況が生まれている。株価を不正に操作して巨額の利益を得たことが明白な人物を、事実上脱税という名目でしか摘発できないことなどがその例である。
このような特殊な事例でなくとも、情報は大量に集積するだけで力を発揮する性質をもっている。それだからこそ、大量の情報を蓄える行政機関や金融機関には、一定の範囲での情報の公開が義務づけられるのである。
また、情報を発信することができるか否かというのも大きな問題である。もしも発言(発信)の機会、手段に関して著しい不平等があるとすれば、「声の大きい者がトクをする」という好ましくない事態になるからである。これは、前節の情報環境とも重なる問題であるが、情報の中身だけでなく入手や発信に関する機会や手段もまた格差を産み出す「武器」になりうることを忘れてはならない。
4.情報福祉の意義と課題
4.1 基本的視点
これまでに、情報技術は進歩したが、そこから生みだされる機器やシステムが必ずしも人間にとっての使い勝手を改善していないばかりか、むしろ悪化させている場合があること、見たり、聞いたり、読んだり、情報を受け取ることの利便の向上に比べ、その発信元が極く一部の人や組織、地域的には東京一点に、異常なほどに集中してきていること、などを述べてきた。
このような、情報化の進展にともなって新たに生じ、あるいは激化してきた様々なゆがみを是正し、関係するすべての人々にとって平等で公正な社会のあり方に近づけてゆくために、情報福祉の考え方が必要なのである。
登場する先端技術や情報機器が新たな格差を生まないようにするためには、当面ヒューマンインターフェースを重視する製品化のルールの徹底と、その技術(製品)やシステムの社会的な適正度を事前に評価する公的な制度の実現という2つの課題を指摘したい。
また、人々の情報行動における自由と平等を一層確実なものとするためには、あらゆる組織・機関における情報公開システムの確立をはじめとする情報環境の点検評価と、情報発信の機会を拡大するための新しいメディア技術の有効な利用という2つの課題を指摘したい。
これらすべてに共通する基本的な問題意識は、最初に述べたように「情報化が新たな格差を生まないように」ということである。逆に言えば、その情報格差の発生を常に監視し、最小限にとどめようとするのが「情報福祉政策」であると言うことができる。
4.2 当面の課題
(1) ヒューマンインターフェース基準と情報技術アセスメント
家庭用の電気器具の安全基準や食品におけるJASのように、高度な情報技術を駆使した新たな機器やシステムについても、その「安全性」と「使いやすさ」についての評価を行なうことが必要である。このような評価を行なうためには、達成すべき基準が明らかにされていなくてはならないことは言うまでもない。
ここでは、それを仮にヒューマンインターフェース基準と呼ぶことにし、これに沿って機器やシステムの事前評価を行なうことを情報技術アセスメントと呼ぶことにする。
具体的には、同種の機器の操作スイッチの形や操作法が、メーカーによって極端に異なっていたり、老人や視覚障害者など特定の人々にとって扱いにくい設計になっていることを発見し、修正を求めてゆくための基準であり、制度である。
1990年6月、通産省機械情報産業局は「情報処理機器アクセシビリティ指針」というメーカー向けのガイドラインを発表したが、これはパソコンやワープロなど狭義の情報機器について、いわゆる身体障害者の利用に対応することを第一義としたものである。
ここでは、もっと広い視野での基準の制定と運用を提案したい。もとより、このような制度やシステムは一地方公共団体の手に負えるものではないが、まず声を挙げることが大切である。
幸い神奈川県には、わが国を代表する電子機器メーカーのほとんどすべてが主力事業所を置いている。また、市民の消費者運動や活動もきわめて活発である。この両者を結び付け、問題を提起するというあたりに県が果たすべき重要な役割があるのではなかろうか。
(2) 情報環境評価とアクティブメディアの形成
情報環境についても、他の環境項目と同様に絶えざる点検(モニタリング)を行ない、可能な限りの保全・整備を進めてゆくことが必要である。
具体的には、第一に「知りたい」ことが生まれたとき、どれだけの時間と手間と費用でそれを知ることができるか、そのための行動の機会がすべての人々に平等に保証されているか、という問題についての調査と評価である。ここには、他の地域と同じテレビ放送が視聴できるか、身近に充実した公共図書館が在るか、といった従来から有る事項も含まれてくる。また、基本的に主権者たる市民(国民)のものであるはずの行政情報について、十分な公開制度が実施されているかどうか、というのも重要な項目である。
また、第二には逆に「知られたくない」情報がいかに厳格に取り扱われ、安全に管理されているかという問題がある。典型的には、個人情報保護のための条例の制定といったことであるが、国勢調査を筆頭とする各種の行政上の実態調査において、対象者を特定することのできる近隣の住民を安易に調査員に任命することの是非なども指摘され始めている。
本稿でとくに提案したいのは、第三の側面、すなわち、人々が何かを「知らせたい」と思ったとき、その機会・手段が十分に用意されているか、という問題である。情報公開制度自体も一つのメディアとして見ると、実は単に情報を見せてもらうだけではなく、個々の利用者自身が「公開請求」という情報を発信しているものであることが見えてくる。
このように、専門発信者からの一方通行ではなく、一般市民の側から自主的・能動的に働きかけ、参加することのできるメディアが重要になってきている。既に述べたように、情報化時代における平等とは、情報の供給者と受容者という関係を固定的、階層的なものにしない、という点にかかっているからである。巨大な人口集積をもつ大都市地域であればこそ、市民一人ひとりが広く自由に発言し、意見を交換できるようなメディアが必要なのである。
ここでは、これを仮に「アクティブメディア」と呼ぶことにする。このようなメディアこそ、新たな情報技術の効果的な導入によって構築されるはずであり、行政を含めた各分野において、様々な取り組みが為されることを期待したい。
神奈川県が、全国に先駆けて実施した行政情報公開制度は、言うまでもなく第一の問題に対する優れた貢献であった。ここではさらに一歩進めて、上に挙げた「知る」「知られない」「知らせる」という3つの側面について、そのための機会・手段の状況を定期的に測定し、評価し、改善を求めてゆくような「情報環境評価制度」の実現を強く期待して小論の結びとしたい。