教育について考える

(blog アーカイブ 2004〜2010)


 

2010年03月06日: "パワポ授業" という病

2009年03月29日: "学問離れ" のデータがまた一つ

2007年12月05日:またまた "理科離れ"

2007年12月04日: 「学力低下」をめぐって

2007年09月21日: 「勉強離れ」について

2006年08月25日:冥王星

2006年06月17日: レポートが書けない

2006年06月08日:理科離れ、再び

2005年09月19日:「蛙」?知らない大学生

2005年02月01日: 「発表を聞く」ということ

2005年01月28日:「あかじゅうじ」の謎

2004年12月08日:やりきれない「血液型番組」

2004年10月24日:科学は他人事か

2004年09月13日:「勉強苦手」と授業料滞納率


 
 
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 ■2010年03月06日: "パワポ授業" という病

 偶然見つけた古い記事だが、重要な内容なので紹介する。
 この加藤先生の意見に私も100%同感であるが、さらに付け加えたいことを以下に書いておく。
 <決して、パワポやスライドを全否定するわけではない。 "資料提示" には大変有効なツールであり、私も利用している。念のため・・>

 実は、学生の一部にはこの記事で言う「暗闇の紙芝居」を好む者が(結構な比率で)居る。つまり、その状態で「対話をしなくて済む」のは学生にとっても同じだからで、こういった学生は教員と目を合わすこと、教員から話しかけられることを極端に嫌い、どんなに広い教室で(少人数で)あっても、教室の最後列から "後ろに詰めて" 座ろうとする。彼等は、暗闇の教室で "教員の視線" から解放され、連写されるパワポの画像をぼんやり眺め、90分が過ぎるのを待つのである。
 後ろから詰まっていく教室で、健全な学習意欲や生真面目さをもつ一部の学生が群れから離れて前の席に座るのは、ある種の "勇気" が要ることでさえある。教員が「前に移れ」と指示した際に、一部の学生が席を移りながら瞬間的に浮かべる安堵の表情にそのことが伺える。
 もちろん、加藤先生が書いているとおり、「暗闇の紙芝居」は教員のエゴ、手抜き以外の何ものでもない。学生の顔も見ず、話が伝わっているかどうかも関知せず、自分の言いたいことだけを一方的に喋って、理解できないのは学生の学力が低いためと言い張る。休講せず、毎回90分目一杯話していれば、学内で公式に批判することは難しいからである。
 学生・生徒にとって、「勉強」への意欲や倫理観を素直に外に表わすことが難しく、勇気が必要であるというこの国の多くの学校の状況、そして大学に見られる「教育軽視(蔑視)の教員天国」という疾病、情けなさを通り越して将来への恐怖を感じる。


【正論】暗黒の「紙芝居」教育はご免だ プレゼンの道具が変じて…
産経新聞(IZA) 2009/11/24 07:34更新


 ほうぼうの大学が公開講座、教養講座のたぐいを開設して一般市民に講義をきかせてくださるのがありがたい。わたしもときどき聴講にゆく。受講料は500円くらい。タダのところもある。教室で現役の先生たちの専門的なおはなしをうかがうのは勉強になる。
 だが、ここ数年、気になってしかたないことがある。それはこのごろの大学教授がやたらにスライド映写で授業をなさることだ。
  スライドといってもこれはパソコンのなかに画像を貯蔵しておいてそれを投射するパワー・ポイントという新発明。あらかじめ作成しておいた文字、グラフ、写 真などをスクリーンに映し、レーザー・ポインターで指しながら説明してくださるのである。いうなれば「学術紙芝居」である。
 これをはじめてみたのはもう20年もむかしになろうか、ある国際会議で某経営学者が、いろんな組織図やグラフをみせながら学説を展開なさったときのことであった。これは便利だ、とそのときは感心した。
 その発明はビジネスの世界に導入されて商談の手段につかわれるようになった。いわゆる「プレゼンテーション」、略して「プレゼン」用の道具である。
 これが大学でも採用され、講義の内容を学生に説明するのに便利だ、ということになった。その手法があっというまに普及してしまったのである。
 その結果、極端なばあい、先生は教壇にあがると即座に照明を消して室内を真っ暗になさり、かねて用意のスライドをみせながら講義をなさることになった。

 ≪「対面」の効能いずこへ≫
  それがたとえば考古学の講座で必要に応じて古い土器の写真をみせてくださる、というのならはなしはわかる。生物学しかり、古美術しかり。映像をちょっとみ せてことばで説明してくだされば理解はゆきとどく。視聴覚教育のための技術がここまで進歩したことはご同慶の至りである。
 しかし、必要なときだ け補助的に映写する、というのではなく、講義時間いっぱい、ずっとスライドの連続、という先生がふえてきた。思想史、哲学、経済学、などの学問でもスライ ドになっている。引用文などもあらかじめ用意されたスライドに書かれているのを投射するだけだから黒板に書くにはおよばない。
 教授先生のほうはそれでよろしかろうが、われら受講生のほうはまことに迷惑である。まず、講義をききながら要点をノートにとろうとしても室内が真っ暗だからそれができない。
 なによりも先生の顔がみえない。むかしは教授と学生はおたがいに顔をみながら教室で問答した。教育といい、学習といい、それは「対面授業」であることを暗黙の前提にしていたのである。
 わたしはけっしていい教師ではなかったが、それでも教授時代には学生たちの顔をみながら講義をすすめた。内容がむずかしそうならやさしい事例で説明する。それでもダメならちょっと脇道にそれて注意をひきつけたりしてあれこれくふうしていた。

 ≪個性を抹殺する電子黒板≫
  ところがいまどきのスライド授業は暗黒のなかでの一方的なオハナシである。なによりも教授諸公はじぶんの手元のコンピューター操作にいそがしく、予定のス ライドを順序よく映写することに専念なさっているから背後のスクリーンばっかりみていて学生の反応なんかみているヒマがない。せっかくおなじ教室にいるの に「対面授業」になっていないのである。ときにはパソコンのご機嫌がわるいから講義はできない、などと公言なさるかたもおられる。これにはおどろいた。
 このごろのお医者さまのなかにも電子カルテになってからコンピューター画面ばかりみていて、いっこうに患者の顔色さえみてくださらないかたがおられるという。それとおなじ情景である。
  さきごろ、わたしは小中学校に国費で導入されるという「電子黒板」というものをはじめてみてびっくりした。これは正式には「黒板」ではなく「白板」で、こ こに手書きで文字を書くと、あらふしぎ、それが活字体になってでてくる、という仕掛け。さらにクイズ仕立ての問題が用意されていて、これもキレイな絵や文 字がいっぱい。
 むかしは、先生がチョークで黒板に文字や数式をお書きになるのをお手本にして、じぶんもあんなふうにじょうずに字を書けるように なりたい。そうおもってこどもたちは育ってきた。それなのに電子黒板は手書き文字を活字体に変換させて文字の個性を抹殺し、またクイズ仕立ての画面で勉強 させようとする。
 この導入計画はいまのところ棚あげになったらしいが、小学校から大学まで「紙芝居教育」がひしめきあっているのはあんまり健康なことではあるまい。ある大学の公開講座を真っ暗な教室のなかでききながらわたしはそうおもったのであった。
(社会学者・加藤秀俊)


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 ■2009年03月29日: "学問離れ" のデータがまた一つ

 内閣府の「世界青年意識調査」で、学校に通う意義についての質問に、欧米では「知識を身に付ける」という回答が多かったのに対し、日本は「友情をはぐくむ」が最も多かったということである。
 この傾向は別に今回が初めてというわけではない。
 前回(第7回)でも、日本、韓国、アメリカ、スウェーデン、ドイツの5カ国の中で、日本だけ「友情を・・」がトップになっているのである。
第7回調査における同じ質問の結果
 この「友情をはぐくむ」なる選択肢は、本人の努力によって達成するものではないという点で他の項目とは全く異質のものである。
 要するに、日本では学校が "学ぶ場" や "自分を高める機会" とは認識されていないということである。そんな重大なことを子どもたちが勝手に決める訳はないのであって、大人たちがそのように仕向け、あるいは刷り込んでいると考えざるを得ない。
 何度も書いているが、この国の教育にとって今本当に大変なことは、 "理科離れ" どころではない "学問離れ" である。
 それは結局大人たちが引き起こしたことなのであり、教育現場に見当違いな非難を浴びせるのではなく、この国の社会や大人たちの学問や教育に対する意識、価値観を改め、学ぶことを大切にする "空気" を行き渡らせることこそ、緊急にとりくむべきことであろう。


日本は「友情」、欧米は「知識」=学校の意義で若者調査−内閣府
 内閣府は27日、若者の意識を国際比較した「世界青年意識調査」の結果を公表した。学校に通う意義について、欧米では「知識を身に付ける」という回答が多 かったのに対し、日本は「友情をはぐくむ」が最も多かった。内閣府は「知識を身に付ける意義を低く見ると、社会に出た時に現実とのギャップを感じることに つながるのではないか」としている。
 調査は1972年からほぼ5年ごとに行っている。8回目の今回は2007年に日本と韓国、米国、08年に英国、フランスを対象に実施。各国とも18〜24歳の男女1000人ずつをめどに回答を集めた。
 3月28日5時11分配信 時事通信


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 ■2007年12月05日:またまた "理科離れ"

 タイトルの通りで、まったくうんざりする話である。
  "理科離れ" に、ではない。この問題化の姿勢、歪んだ価値観にうんざりするのである。
 それでは、日本の子どもたちは国語や社会科について訊ねられたら、世界最高水準の学力と意欲を示すとでも言うのだろうか? まさか!
 数式問題では一流でも、読解力や論述力の必要な応用問題では途端に低レベルになること自体、国語力が欠けていることの何よりの証拠ではないか。
 要するに、今、日本の子どもたちは "勉強すること" に魅力を感じなくなっており、その結果意欲も限りなく減退し、そして学力は低下し続けているのである。
 仕事の性質上中学生と接する機会は無いが、高校生や大学1年生は身近に見ている。特別優秀な少数の学生・生徒は別にして、多くの場合非常に気になるのは "世の中で起きていること" に対する全般的な関心の低さである。
 正しく言うと、世の中で起きていることに対して、 "自分が学校で学んできたこと" を使って理解しようとする姿勢が殆ど見られない、ということである。
 留学生が驚く "血液型迷信" では理科教育が、ねずみ講式詐欺に嵌まる若者の存在は数学教育が、選挙への無関心は社会科教育が、全く意味をもたなくなっていることを示している。彼らを見ていると、そもそも学校で学んだことが役に立つなどとは思ってないのではないか、と思われる節さえ有る。
  "子は親の鑑" が正しいのだが、最近では "鏡" だと思い込んでいる人も少なくないようだ。むしろ、この後者の意味で強く感じるのが、この国の大人たちにしても "学校教育が大切で価値あるもの" だと本当に考えているのか、という疑問である。
 企業のエリートなら小中学校の校長など簡単に務まる、と高をくくって自殺者を出した例があった。教育再生などと称して、実際の学校教育現場とは無縁な評論家や企業経営者ばかり集めて、偏見まみれの勝手な思いつきを出させていたのはつい最近のことだ。
 国の学術の根幹を支える高等教育はまさに百年の大計で扱わなければならないのに、大学の管理運営に企業のセンスを、などと馬鹿げた改革を持ち込み、あげくの果てに国立大学というシステムを放棄したのはこの国の政府である。
 このような、社会、政治、経済の全体に蔓延る "学問軽視" "教育蔑視" の空気が、子どもたちの意識に投影しているのは明らかである。
 毎回同じことを書いているが、問題は "理科離れ" などではない。国家的な "学問離れ" を改めない限り、この国の将来は絶望的だろう。


<国際学力調査>「理科に関心」最下位 数学的活用力も低下
 経済協力開発機構(OECD)は4日、57カ国・地域で約40万人の15歳男女(日本では高1)が参加した国際学力テスト「学習到達度調査」(PISA)の06年実施結果を発表した。学力テストで、日本は数学的活用力が前回(03年)の6位から10位となり、2位から6位に下げた科学的活用力と併せ大幅に低下した。また、理科学習に関するアンケートで関心・意欲を示す指標などが最下位になり、理科学習に極めて消極的な高校生の実態が初めて明らかになった。
 ◇57カ国・地域が参加
 調査には、前回より16多い57カ国・地域が参加。日本では無作為抽出された高校1年の約6000人が参加し、学力テストでは「数学的活用力」「読解力」「科学的活用力」の3分野を、アンケートでは、理科学習への関心・意欲などを調べた。
 日本の数学的活用力は前回534点から523点に低下した。特に女子が男子より20点低く課題が残った。また、読解力は前回と同じ498点だったが、順位を一つ下げ15位となった。8位から14位と落ち込んだ前回と同様、OECD平均レベルではあるが、改善しなかった。科学的活用力はOECDが先行して公表しており既に前回548点から531点に低下したことが分かっている。
 関心などのアンケートでは、理科を学ぶ「動機」や「楽しさ」などについて、それぞれ複数の項目を尋ねた。このうち「自分に役立つ」「将来の仕事の可能性を広げてくれる」など、「動機」について尋ねた5項目では、「そうだと思う」など肯定的に答えた割合がOECD平均より14〜25ポイント低かった。これらを統計処理し、平均値からどれだけ離れているかを「指標」にして順位を出したところ、日本は参加国中最下位だった。
 また、科学に関する雑誌や新聞などの利用度を尋ねた「活動」の指標でも最下位。科学を学ぶ「楽しさ」を聞いた指標も2番目に低かった。こうした関心・意欲の低下が順位の低下につながった可能性もあるとみられる。【高山純二】
(毎日新聞 12月4日18時25分 )


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 ■2007年12月4日:学力低下をめぐって

 PISAで示された結果をどう考えるかについては様々な議論がある。
 解りやすくまとめている記事を見つけたので紹介。


学習到達度調査:日本人の学力さらに低下? 教育テスト研究センター理事に聞く

 経済協力開発機構(OECD)が57カ国・地域の15歳(日本では高1)を対象に実施した「学習到達度調査」(PISA)の06年の結果が4日、発表された。00年に始まったPISAは今回が3回目で、日本は、読解力15位(前回は41カ国・地域で14位)、科学的リテラシー6位(同2位)、数学的リテラシー10位(同6位)と、各分野で順位を下げた。PISAは、生徒たちのどんな力を測っているのか。国際学力調査に詳しい、NPO「教育テスト研究センター」の鎌田恵太郎理事に聞いた。【岡礼子】

 ッッPISAで測る「読解力」「科学的リテラシー」「数学的リテラシー」とは。
 リテラシーは通常、「読み書き」「識字力」の意味ですが、日本と欧米ではとらえ方が違います。「読み書き」という言葉から私たち日本人が考えるのは「読むこと」「書くこと」で、それ以外のことは意識しません。しかし、欧米でいう「リテラシー」はもっと幅の広い概念です。
 ッッどう違うのですか。
 データや文章など、さまざまな素材を読み解き、理解したうえで、自分なりの知識と経験を基にして考える。さらに、自分の意見を組み立てて相手に伝える。この一連の行為のすべてを「リテラシー」と言います。
 ッッ「読解力」は、「文章を読んで意味が分かる力」だけではないのですね。
 「母語によるコミュニケーション能力の基礎」ととらえると分かりやすいかもしれません。どこの国でも一番大事にしている能力です。素材を読み解き、考えて伝える点では、3つの力は同じです。数学的知識や経験を使えば「数学的リテラシー」で、科学的知識や経験を活用すれば「科学的リテラシー」です。
 ッッPISAでは、どんな内容が出題されるのでしょうか。
 科学的リテラシーであれば、資源やエネルギー、環境問題、生命科学などが出題されやすい分野でしょう。「クローン羊について、あなたはどう思いますか」という問題が出題されたことがありました。
 ッッその場合、クローン羊に関する情報は提示されますか。
 知識がないと答えられない問題ではありません。基本的な情報は文章の中に書かれています。さらに、自分が持っている科学の基礎知識や、社会背景的な知識も使って、自分の考えをまとめます。
 ッッ総合的な学習で扱いそうな内容ですね。
 ある程度は授業で取り上げているかもしれませんが、日本の学校では、資源エネルギーや科学技術という切り口で、社会的な問題を取り上げる機会は少ないのではありませんか。欧米では、生命科学、地球科学、テクノロジーといった分け方で科学を教えます。子供たちが社会に出て直面する問題のテーマとしては、その方が分かりやすい。
 ッッPISAはなぜ始まったのですか。
 80年代後半に各国で教育法規の改正が始まり、90年代に各国で教育カリキュラム改革が行われました。そんな中、97年から03年にかけて、「2020年に義務教育を終了した子供たちに必要な能力」を考える国際的なプロジェクトがスイスで開かれました。このプロジェクトと平行して、PISAの準備が進められました。経済がグローバル化し、情報化も進みつつあったため、教育も国際的に共通の尺度で測定して、足りないところを補っていく必要があると考えられたためです。
 ッッ子供たちに必要な力を測ろうということですね。
 昔なら、「リテラシー」は、母語で読んで書いて、計算ができれば良かったかもしれません。しかし現代では、科学技術やIT機器を活用する力も求められます。PISAには外国語はありませんが、英語のリテラシーも必要です。科学技術、情報、外国語と必要なリテラシーは増えてきています。これらの力が一定の基準に達していなければ、子供たちが社会に出てから困るという考えです。
 ッッPISAの問題はどのように作られるのですか。
 コンペ形式です。オーストラリアやオランダ、米国などの教育機関、日本の国立教育政策研究所も問題を作っています。その中から、文化の違いに左右されない、男女で差がつかない素材を選んで出題されます。問題と採点基準が各国に配られて翻訳され、調査を実施した後は、採点基準に従って採点します。結果がOECDに返される仕組みです。
 ッッPISAの結果をどのように見ればいいでしょうか。
 現行の(日本の)学習指導要領で対応が不十分なところが、結果に表れてしまうと思います。大幅に順位を回復することは望めないでしょう。ただ、日本はPISAで問われるような教育をしていないのですから、そういった教育をしている他国に比べると、低いということです。
 ッッ「学力低下」と言われそうです。
 「もっと知識を詰め込まなければ」と思いがちですが、そうではありません。子供たちに求められているのは、自分が持っている知識を使って考え、人に伝え、人と議論しながら自分の考えを高めていける力です。順位が低かったとしても、そこが劣っていると考えればいい。「詰め込み」では駄目だと気づいている保護者も大勢います。
 ッッ「学力」の意味を考えてほしいということですか。
 「学力」という言葉は欧米にはありません。日本で一般的に言われる「学力」は「知識理解力」です。一方、OECDが重要だとしているのは(1)知識を使いこなす能力(2)対人関係能力(3)自主的、自立的な行動力ッッです。子供たちが社会に出た時に必要な力は何かという議論が、日本ではまだ足りないように思います。
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◇かまた・けいたろう NPO「教育テスト研究センター」理事、ベネッセ教育研究開発センター主席研究員。福岡県出身、九州大学理学部卒。専門は国際教育比較、教育テスト。
 (毎日新聞)


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 ■2007年09月21日: "勉強離れ" について

 ベネッセの調査結果をただ紹介するだけで、ジャーナリストとして仕事をしたことになるのだろうか?
 新聞社ならば、関連する膨大な情報をもっているのだから、 "何故こうなってしまったのか?" について、試論でも良いから何か提示すべきであろう。


小学生から「負け組」 勉強の目的見えぬ子供たち

 「勉強が役に立つ」と考える東京の小学生の割合は、世界6都市の中で最低であることが、ベネッセコーポレーションが実施した学習調査でわかった。進学希望でも「四年制大学まで」が18%にとどまり、「中学まで」「高校まで」が合わせて21%と、6都市の中で最も“低学歴志向”が強い。学校外での勉強時間も3時間半以上が14%もいる一方で、「ほとんどしないー1時間半」も半数以上いるなど、二極化が浮き彫りになった。
 調査は東京、ソウル、北京、ヘルシンキ、ロンドン、ワシントンDCの6都市の学校に通う10歳と11歳の小学生を対象に、2006年6月ー07年1月にかけて実施した。回答者は5都市で約900人ー1300人、ヘルシンキのみ約500人で、計108校。男女比は半々。各都市の公的な教育機関などに依頼したほか、ホームページの学校情報などを参照して、地域の教育水準、学力レベルが偏らないように対象を抽出した。
 「金持ちになるために勉強が役立つ」と考えている子供の割合は、他の都市が6割を超えたのに対し、東京は43%。「一流の会社に入るために(役立つか)」など、経済的な豊かさや社会地位と関連づけた質問のほか、「尊敬される人になるために」「心にゆとりがある幸せな生活をするために」といった質問でも、最下位だった。
 調査を担当したベネッセ教育研究開発センターの木村治生・教育調査室長は「英米では、授業の中で、勉強の目的や、何に役立つかなどをしっかり説明している。中国や韓国では、勉強して良い大学にいけば、豊かな生活を送れるという意識が社会全体で強い。日本では、勉強の価値を下げるような言説があるのではないか」と推測する。
 北京と東京の子供が、学校外で平日に学習している時間(塾での時間も含む)を比べると、3時間半以上の長時間勉強する子供の割合はほぼ同じ14%。だが、北京は「2時間から3時間半」が計46%いるのに対し、東京は「ほとんどしないー1時間半」が合計で60%と、学習時間の面でくっきりと二極化している。木村室長は「東京は、学習時間に長短がある子供が混在しており、学校の授業で教えにくいのではないか」と格差の大きさを心配する。
 ヘルシンキ、ロンドン、ワシントンDCの子供たちの学習時間は「ほとんどしないー1時間」までで7割に上る。一方で、テレビを3時間半以上見ている子供が、ロンドン25%、ワシントンDC28%いる。東京も22%で3位。平均試聴時間でみると、東京が135分で6都市中、もっとも長い。
 一方、ソウルでは、週5日塾に行っている子が半数いる。木村室長によると、ソウルでは学校の校門前に塾が乱立しており、成績優秀者の写真を掲げたり、学校まで送迎バスが来たりするケースがあるという。
 木村室長は「欧米の小学生の学習時間は短いが、年齢が上がるにつれて長くなる。ソウルと北京は小学生からずっと長時間勉強している。東京は小中学生の方が高校生より勉強時間が長い」と説明した。高校生同士で比べると、東京の子供の学習時間の短さがさらに際立つかもしれない。
 大学院まで進学したいと答えたのは、北京市が最多で65%、ソウルの30%が続く。それに対して東京は14%。四年制大学への進学を希望する子も18%にとどまった。
 学校の成績を7段階に分けた場合、最上位の「1」をとりたいと思っている子の割合も、東京は低い。最多は北京市の86%で、東京は49%。6都市中5番目だった。最下位はヘルシンキの19%だが、がんばれば「1」をとれると思う子供の割合になると、ヘルシンキは一転して5割を超える。北京のトップ(76%)と東京の最下位(37%)は変わらず、小学生の段階で「負け組」意識を持つ児童が東京には多いといえる。【岡礼子】(毎日新聞)


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 ■2006年08月25日:冥王星

 国際天文学連合の総会で惑星の定義が決定され、その結果、冥王星は太陽系惑星から除外され矮小惑星とすることとなった。

 このニュースに関するテレビニュースが面白かった。

 日本では、「教科書を改訂することになるのか・・・」出版社、「冥王星が無くなるなんてさびしい」引き攣った表情の小学生(男)、「せっかく覚えたのに・・・」憂鬱な表情の中学生(男)。(以上、24日のNHK)

 アメリカでは、「(アメリカ人が発見した)冥王星の格下げは少し残念だが、・・・それが科学だ」科学者。「科学が進歩していることを知ってわくわくした」満面笑顔の中学生(女)?。(以上25日のTBS)

 もちろん、これだけの断片で簡単に何かを断言すべきではないだろう。
 第一に文化の違い。アメリカではタテマエは常にポジティブでなければならないが、日本では多くの場合タテマエはネガティブでなければならない。子供たちは、“困ってみせる”“悩んでみせる”ことが望ましいという智恵を示しただけかもしれない。
 第二に、ニュース素材の選択において、局(ニュース・デスク)の意向が反映された部分もあるだろう。

 しかし、それらを差し引いたとしても、この違いは日本の社会全体にある“理科離れ”(正しくは学問離れ)の現実を良く現わす現象になっていると思う。

 科学の話題であるのに先ず“教科書”を話題にすることに、メディアそのものが本当は学問になど興味がないことが透けて見えている。
 <所詮、ガッコウの理科の問題に過ぎないだろうが、ゲンジツは厳しいんだよ!>

 これだけの(学問的に)大きな転換であるのに、そのこと自体に興奮も感動も感じることができずに、“自分の知識”の価値が減ることを先ず心配する子ども。
 <ホントはどうでもいいんだよ、早く正解教えてくれよ、忙しいんだから!>

 世の中全体として、ここまで知的好奇心が衰え、学問を大切にする意識が欠如しているのだから、子どもの学問離れ理科離れなどと偉そうに言うな!)など当然だと思う。


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 ■2006年06月17日:レポートが書けない

 レポートが書けない、あるいは苦手とする学生が、最近になって急に増えているような気がする。
 “苦手”はさておき、“書けない”というのには大きく2つの種類がある。
 第一は、文字通り“書けない”ケース。この場合、詳しく観察すると“書き始められない”というのが正確かもしれない。
 第二は、本人は書けているつもりだが“どう見てもレポートとは言えないもの”を書いてしまうケース。
 言うまでもなく、ここではそこそこの能力もやる気もあるのに“書けない”というケースを問題にしているので、そもそも“やる気がない”とか、必要な文献やデータを調べる“能力がない”というのは除いての話である。

 私は、この2つのケースの背後には実は共通の問題が隠れていると考えている。
 それは、レポートとはどのようにして“造る”ものか、ということを全く教えられていないために、見当違いの努力をしているということである。
 “造る”と書いたのには強い意味を込めている。話が前後するが、ここでとりあげる「レポート」は、あくまでも文献やデータ、さらにはオリジナルな調査を元に書くものを想定しており、自身の“考え”だけを述べたり評論するタイプのものは対象としていない。資料やデータをもとに論述するタイプのレポートの場合、素材となる事実やデータ、それらをつなぐ論理、そしてレポート全体を組み立てる設計図が必要である。であるから“創る・作る”ではなく“造る”が最もふさわしいと考える。

 “書き始められない”学生はなぜ書けないのだろうか。“書ける場合”について彼等がもっているイメージが興味深い。彼等は、言わば完全な(完成した)形の文章がすらすら書けることを期待しているのである。学業についてある程度の自信をもつ学生がよく言う「“書き出し”さえうまくいけば、あとはすらすら書けると思うんですが・・・」という言葉が、このことを良く示している。
 大学におけるレポートというのは、一気にすらすら書くようなものではない=書き下ろすものではない、何度も書き直しながら組み立てて行くものだ、という基本的な認識が欠けているのである。

 “レポートとは言えないものを書く”学生の場合、さらに大きく2つのタイプに分けられる。
 一つは、第一のケースと同じ認識の欠落のもとで、平気で“作文”を書いてしまうタイプである。
 中学/高校と作文が得意だった、という学生によく見られる例だが、例えば、あらゆる課題に対して“同じ形”の文章を書いてしまう者が居る。元になった事実やデータをさらさらと纏め、メディア等で仕入れた主要な論調を並べ、一言二言自分の感想めいたことを付け加えて終わり、というスタイルである。
 私はこのタイプをひそかに「NHK」と呼んでいる。最後の結びが、「今後の動向が注目されます」とか「未来の地球のためにも、現代の私たちの努力が大切だと思います」などと、他人事のような空疎なことばで“きれいに”締めくくるNHKのニュース解説そっくりだからである。
 また、これとは逆に、ほとんどなんの根拠も示すこと無く、自分の“考え”や "思い" だけを怒濤のように述べ立てる者も居る。理想や信念をもつことは決して悪いことではないが、レポートは “演説”や“宣伝”ではないということ、事実と論理で冷静に述べなくてはならない、という認識が無いのである。
 すべて借り物で小奇麗に纏める前者のような癖がつくと、意外に簡単にそれなりの成績がとれることもある。やる気のない教員が内容の貧しさを見抜けずに "形は整っている" ことだけを見て評価するからである。また、後者のような勝手な "演説文" の場合も、本心は面倒を避けたいだけの教員が「“熱心さ”を評価」などという口実で適当に採点する結果、単位はとれてしまうことがある。
 これらはいずれも無責任極まる教育放棄である。そんなことで単位を稼いできた学生は、いざ卒論になると全く書けないという最悪の事態になることが少なくないし、まかり間違って自分を過信して大学院などに進んだら、本人も回りもまさに悲劇なのである。

 もう一つのタイプは、“文章化できない”という例である。つまり、データはデータ、先行研究は抜き書きのまま、結論はいきなり箇条書き、という作業メモ、あるいは資料集のような状態で止まってしまい、一貫したレポートにできないというタイプである。
 私は、このタイプについてはあまり心配していない。要素を要素として扱うことができ、論理的な関係も認識できるのであれば、“文章にする”ことは純粋に技術と経験の問題だからである。
 このような状態で苦しんでいる学生が、口頭発表になると驚くほど見事に纏めることに気付いて、自分の発表を録音して改めて書き取らせてみたことがある。最終的に、彼女はこの方法で大変立派な卒論を書き上げたのである。

 全部で3つのタイプを挙げたが、前の2つについて私は“作文教育”の弊害ではないかと考えている。
 文章表現力を鍛える、という意味での作文教育であれば、まず何よりも、事実と論理に基づくメッセージをできるだけ正確に伝える能力を養うべきである。つまり、新聞記事や報告や指示といった「伝達」を目的とする文章の書き方を教えることが必要なはずである。
 そして、そのような文章を書くためには、個々の事実や知見について吟味・検証する、それらから自分の結論を導くための論理展開を考える、全体を効果的に表現するための構成を組み立てる、といった“造る”作業について、教え・鍛えることが必要不可欠である。
 こう書くと、すぐに「型にはめるのは・・」「個性を伸ばすことも・・」などという反論が聞こえてきそうである。でも、キャッチボールやランニングもさせずにいきなり野球をやらせるだろうか、まっすぐ正確に滑る技術を鍛えずにフィギュア・スケートをやらせるだろうか。“個性”や“創造性”はきちんとした基礎の上にしか成り立たないはずである。
 文章表現の基礎もきちんと教えずに、“自分らしい”文章を書けなどと指導するのは、将来にわたって社会人として生きて行かなければならない多くの“普通の”子供たちに対して、無責任というものである。
 (註) この記事は、ブログ「チェシャ猫の微笑」の2006年6月17日付け記事を転載したものです。


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 ■2006年06月08日:理科離れ、再び

 以前から繰り返し話題にしているテーマだが、またとりあげる。

 子供たち一人一人について、真の意味での「適性」を見抜いて進路を指導する学校・教師は残念ながらさほど多くない。多くの場合、途中の学年までの「数学」の成績によって<理系ー文系>を機械的に振り分けているのが実情である。また子供自身も、自分の中にある隠れた自然科学的なセンス・興味を自覚する以前に、目の前の「数学の成績」という現実に圧倒されて「自分は向いてない」と決めつけてしまうことが少なくない。
 かつて、友人の優れた研究者が言ったことを思い出す。
 「<“2+3”と“3+2”が同じだというが、計算結果はそうでも“同じこと”というのは納得できない、1/2と 0.5の意味の違いをもっときちんと知りたい>というようなことをグズグズ言う子供が居る。実は、こういう子供たちは大きな可能性をもっているのであり、彼らにこそ大学に来て本気で数学と取り組んで欲しいのだが、今の日本ではこういう子は途中で<理系コース>から排除されてしまう。」

 中学・高校時代、私は理系科目が概して好きで成績も決して悪くなかったが、日常的に(実験中でもないのに!)スーツの上に「白衣」を着ている教師は嫌いだった。子供なりに、ある種のエリート意識、ポーズを感じていたように思う。また、文系の学問、進路に対して差別的な言葉を投げる教師も居た。

 理系進学希望者数の減少という現象の背後には、こういった理系の教師・進学予定者、周辺の人々が無自覚に形成する「優れた少数者」という位置づけのマイナス、そのことと数学の点数での“線引き”による「迷い組」の排除、といったことが、一つの要素として間違いなく存在しているはずである。


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 ■2005年9月19日:「蛙」?知らない大学生

  またまた「国語力調査」。いや、正しくは「国語力調査に関する報道」と言うべきだろう。なぜなら、これから書くことはネット上で見た“新聞記事の情報”(下記)だけに基づくものだからである。
 “またまた”と言うのは、今ではこの種の報道は完全にステレオタイプ化しているから。曰く、現代の子供(若者)は基本的な言葉を知らない、少し難しい漢字をを示すと奇想天外な“読み”をする、ことわざの意味を知らずに逆用する・・・などなど。なるべく極端な誤答例や、低い正答率を示しては嘆いて(呆れて)見せる。

 私は、これを学会発表した研究者よりも、先ずこの記事を書いた記者に訊いてみたい。 1.対象となった“大学生”の専門はどのような構成だったのか。理学部や農学部と“国文学科”とでは、結果は当然違うはずだが。 2.ここで挙げている例題は全て“現代文”とは言い難いものばかり、これらの例題ができなかったとしても、(教員やジャーナリストなど一部の職業を除けば)通常の生活や仕事にはなんの問題もないのではないか。
 これらのことを記者自身はどう考えたのか・・・。
 たぶん、何も考えてないのだろう。

 研究そのものについては文書化されたものを読んでからまた採り上げるつもりであるが、この記事とこれまでの経験から次のようなことを考える。
 どうも、国語学研究者という人々は、コミュニケーション能力としての言語力と、国語・国文学的教養あるいは社会的教養とを同一視しているように感じる。「教養あっての言語力だ」というのは原則として誤りではないが、“能力”の議論においては話のすり替えである。
 第二に、古典や童謡を知らないからと言って、“活字離れ”とは何と傲慢な、ということである。上の結果から言えることは、古典文学離れ、唱歌知らず、ということでしかない。
 最後に、少なくとも対象学生の親の世代である40歳代後半の人々についても同様の調査をすべきである。私自身は、経験的印象として殆ど同じ結果が出ると思うが、そうなると問題は“大学生の”ではなく“日本人の”に近づくだろう。


「蛙」?知らない大学生35%

 大学生の3人に1人は、「春はあけぼの」の意味が分からない――。国立国語研究所の島村直己主任研究員らの研究グループが17日、千葉市で開かれた日本教育社会学会でこんな調査結果を発表した。
 現代文は高校生より正答率が低く、研究グループは「大学生の活字離れが深刻になっているのではないか」としている。
 調査は今年6〜7月、国立大5校と私立大3校の1〜4年生までの約850人に実施。古文4、現代文2の計6問を出題し、2年前に高校生1〜3年生約1500人に実施した同一問題での調査結果と比較した。
 それによると、古文では、枕草子の「春はあけぼの」の意味を「春は夜が明け始めるころが素晴らしい」と正答できた大学生は62・9%。松尾芭蕉の俳句「古池や 蛙飛び込む 水の音」の「蛙」について、「カエル」と答えたか、「かわず」という正しい読み方を答えた学生は65・3%だった。
 また、童謡「赤とんぼ」の「負われて見たのは」の歌詞の意味を「背負われて見たのは」と正答できたのも61・6%にとどまり、「追いかけられて見た」という誤答が目立った。唱歌「夏は来(き)ぬ」については、「夏が来ない」と逆の意味にとらえた学生が多く、正答率は47・8%と半数を割った。
 (読売新聞/Yahoo) - 9月18日


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 ■2005年02月01日:「発表を聞く」ということ

 「卒業論文成果報告会」に参加する学生に「講評報告」を書かせた。以下は、頑張り過ぎて?少々暴走した学生へのやや辛口のコメント。本人は大変やる気のある真面目な学生で、将来大学院への進学を希望している。

 君は研究発表を「批判的に聞く」ということが未だ良く判ってないようです。
 「研究発表に対する批判」の基本は「言ったこと」について批判的に考察することで、「言わなかったこと」を指摘することではないのです。
 特に、研究の内容について「批判」するためには、発表を真剣に全力で聞き、きちんと理解し、考えたた上で発言する責任があります。また、発表で(自分にとって)不明だった部分については、後で発表者本人に確認してから考えなければなりません。何故ならば、発表には「時間制限」があり、「口頭で話す」という制約もあるからです。
 それだけの覚悟が無いのであれば、批判は研究の内容ではなく発表の技術や効果、発表者の態度といった表面的なことに限るべきです。

 対象となった最初の発表は、現在学部学生のレベルで読むことのできるほとんど全ての関係文献に目を通した上で、「江戸時代以前には男女による色の区分や制約があったという明確な証拠は見出せない」と結論付けたもので、その経過は研究論文には詳しく記されています。発表の中では時間の制約から結論を中心に述べたもので、君自身の先入観と感覚だけで「そんなことはないだろう」と反論するのは間違いです。仮に、学会のような場でこの種の「批判」をすれば、「それではあなた(君)はどんな研究をしたのか、どのような根拠で反対意見を述べるのか」と逆に厳しく批判されます。
 また、「一般に人々の服装は自由になったのだから、ジェンダー的制約を言うのは現実に合わない・・」というような意見は、さらに見当違いです。研究発表では「一般には色使いは自由になったのに、教育現場などでは未だにジェンダー的な制約が強い」ということを主題にしているのだから、これは発表自体を正しく聞いていないことに過ぎません。

 もう一つの発表に対する君の意見、「特に優れているとは(君には)思えない日本の大学から、中国の大学が学ぶべきことなど無いのだから、これは無意味な研究だ」についても、上記と同様の問題があります。
 この研究では、「高等教育の大衆化、市場化のためのシステムや制度整備について、日本の経験が(中国にとっても)参考になるだろう」と言う視点で見ているのであって、大学や教育制度そのものにおいて中国と日本のどちらが優れているか、などと言ってるのではないからです。他人の研究の主旨を誤解(きちんと聞いてない?)した上で、研究の枠組み自体を否定するような批判をするのは単なる暴言です。

 全体として、君の意見には感覚的な「好き嫌い」が先行して、その上で具体的な「欠点」を探し出そうとしている印象があります。

 「発表を批判的に聞く」ためになによりも必要なことは、他者が「研究したこと」そのことに正しく尊敬の意識をもつこと、発表を白紙の態度で謙虚に聞くこと、内容を正しく理解するように真剣に努力すること、それでも判らないこと納得できないことは先ず発表者本人に確認すること、などです。

 大学院進学を考える人ならば、これらのことは特に身につけておかなければならない基本です。(2005年2月1日)


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 ■2005年1月28日:「あかじゅうじ」の謎

 また、一部の人々の大好きな「子ども学力調査」。
 今度は「漢字」だそうだが、相変わらず話がおかしい。


赤十字は「あかじゅうじ」 小学生の漢字読み書き調査

 小学2年生の4人に1人は「犬」を「☆」と書き、「赤十字」は5年生の半数近くが「あかじゅうじ」と読む。
 文部科学省所管の財団法人、総合初等教育研究所(本部・岐阜県)が、27日発表した小学生の漢字の読み書き習得状況調査でこんな結果が出た。
 同研究所が1980年に実施した読み書き調査に比べ、全体として正答率はやや高くなったものの、低学年では「三(み)日月」、「十(とお)日」など日常生活で使う数字を表す読みの正答率が低く、研究所は「漢字を習得するには家庭生活の中でも意識して使うことが必要」としている。
 調査は2003年5月、小中学生計約1万5000人に実施。小学生で学ぶ配当漢字計1006字について、前年度に学習した漢字の読み書きを、次学年の児童を対象に調べた。
 (注)☆は犬の「、」を大の横棒の右下
(共同通信 1月27日)


 上記の共同記事では、「赤十字」を“あかじゅうじ”と読んだ子どもが居ることを問題にし、NHK(夜10時)では「とんや(=“問屋”)」という問題に“豚屋”と回答した例をとりあげていた。
 いずれも、「小学生の漢字読み書き能力が深刻な事態になっている」と報じているのであるが、これは明らかな誤り、ないしは事実のねじ曲げである。
 冷静に考えれば、これらはいずれも「漢字が読めない・書けない」のではなく、「単語を知らない」ということでしかない。少なくとも「赤」を“あか”と読むのは漢字の読みとしては正しいのであり、“読み書き能力”に問題があるとは言えない。また、「とん」というカナに“豚”という漢字を当てることについても、一般に「豚カツ」などとして使われているのであるから、完全な誤りとは言えない。むしろ「問」よりも難しい「豚」という字が書けることを評価すべきかもしれない。
 この問題の深刻さは、子どもたちが赤十字や問屋という「事柄」を知らず、したがってその名称も判らない、ということにある。つまり問題は、子どもの総合的な知識量の減少と、それに密接に関わる「語彙力」の低下なのであって、「字を知らない」というようなことではない。明らかに、子どもの総合的な知識・教養のレベルが低下し始めているのであり、「国語教育」などといった狭い世界の問題ではないのである。
 その意味で、実は最も恐ろしいことは、一部の<専門家>や行政が明らかに「知識「や「語彙」という教育の根幹にかかわる部分で問題が起きていることから故意に目を逸らし、「漢字力」などと寝惚けたことを言っていることであり、それを無批判に垂れ流し報道するマスコミのあり方ではないだろうか。
 2005年1月28日


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 ■2004年12月8日:やりきれない「血液型番組」

 やっと動きが出た。
 もう、触れるのもうんざりの「血液型」話、どうすれば消滅させられるのか?
 一方で、メディアの規制につながるような主張はしたくないし。などと考えていたら、「放送倫理・番組向上機構」がやっととりあげた。これは間違いなく良いことだが、惜しいのは「差別助長の恐れがある」として「配慮を求める」といった表現にとどまっていることである。
 不思議に思うのは、これが典型的な似非科学しかも非常に危険で悪質なつくり話だ、ということを問題にする議論が少ないことである。
 申し訳程度に「科学的根拠はありません」などと字幕を出して逃げるくらいなら、いっそのこと血液型(ABO分類)別の人口比には民族的な(すなわち国による)偏りがきわめて大きい、といったところまで暴走すれば良いのである。そうすれば、対象国の政府から抗議が来るぐらいでは当然済まなくなり、世界中がかつてのドイツの「ゲルマン優位説」などと結びつけ、日本人および日本政府への信頼は大きくゆらぐことになるだろうから。
 一方で「理科離れ」だの「学力低下」だのと大騒ぎしているくせに、こんな恥ずかしく危険な番組を放送し、かつ多くの「若者が」見ているという事実を、なぜ気にもしないのだろうか。
 計算技術とアメリカ風の英語発音にばかりこだわるような歪んだ教育が、年齢相応の知性と教養と論理的思考力を異常に欠いた、奇妙な若者集団を生み出しているのではないだろうか。
 なお、血液型モノ対策について、熱心に活動しているページがある。私も、自分のページで紹介するという形で支援したい。 [血液型性格判断資料集

血液型扱う番組に配慮を 差別助長の恐れとBPO
 NHKと民放連でつくる第三者機関「放送倫理・番組向上機構」(BPO)の「放送と青少年に関する委員会」(原寿雄委員長)は8日、血液型をテーマにしたテレビ番組は人格が血液型で決まるといった差別的な考え方を助長し、民放連の放送基準に抵触する恐れがあるとして、放送各局に番組制作上の「配慮」を求めることを決めた。
 民放連の放送基準は占いなど非科学的な事柄について「断定したり、無理に信じさせたりするような取り扱いはしない」と定めている。同委員会は、テレビ番組が取り上げる血液型と性格の関係は「証明されていない」とし「血液型で人を価値付けすることは社会的差別に通じる危険がある」と注意喚起した。
(共同通信) -12月8日


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 ■2004年10月24日:科学は他人事か

 本日の朝日新聞「時流・自論」の「科学は他人事か」に注目。
 全体として妥当な主張(少し回りくどいが)で、「このままで良いのか」という危機感は伝わってくる。

 残念な点は2つ。

 第一は、相も変わらず「科学=自然科学」を当然の前提としていること。
 本文中で、著者自身述べているように、問題の中心は「専門家まかせ」「関心放棄」である。これは、人文科学、社会科学でも全く同じことで、そのことがオウム真理教の暴走や、各種のネズミ講・マルチ商法横行の根本原因の一つとなっている。
 「科学」を自然科学に限定する思想は、一面では一部の権力者の「愚民政策」に利用される危険をもつ。
 つまり、「自由」「平等」「平和」「生存権」などといった小煩いことを考えない「理科少年」を優先的に育成し、さらに「理系」を過剰にエリート扱いすることで、視野の狭い「スペシャリスト」(同名のアイヒマン裁判の記録映像を見よ)を育てて「活用」すること、の根拠となるからである。

 第二は、大衆が「専門家まかせ」「関心放棄」に走る「背景」を見ていないことである。
 「分をわきまえる」「身の程を知る」といった悪しき(暴力的な)道徳、小学校段階から進む「選別」といったことを棚上げして、結果だけを「憂慮する」のは偽善的である。
 この著者自身、あくまでも「専門家」の立場から(大衆を見下ろして)発言していることに根本的な限界が見える。

 大衆が「人間は皆同じ(=対等)だ」と本気で考え、対等に発言することが出発点。
 その上で、あらゆる「専門家」の言説に対して、「私に解るように説明しろ」、「私を納得させろ」、「根拠を示せ」と反問しつづけること。
 そして、次の世代(子供たち)を、そこで言い負かされない、誤魔化されない、「面倒な」大人に育てること。
 実は、これは「デモクラシー」を基本とする社会を形成し維持するための根本原則である。つまり、日本の社会は未だデモクラシーを基本としていない、ということである。


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 ■2004年09月13日:「勉強苦手」な高校は授業料滞納率が高め?

朝日新聞記事から。

 国立教育政策研究所の研究者による調査結果の紹介で、標題どおりの見事な相関関係が認められる結果となっている。
 ところが、調査報告は徹底的に標題どおりの話、つまり 低学力--故に--滞納者多い という論理に終始、結論は「低学力校の教育にもっと配慮を」という、視野狭窄の教育屋に典型的な結び方。

 記事も、この能天気な話をただ紹介するだけ。

 話が逆だということぐらい子どもでも判る。
 授業料の滞納者が多い(=保護者が経済的に豊かでないか教育についての意識が低い)生徒の多い学校ほど学力も低い、ということではないか。
 経済格差が学力格差に直結する時代になったという重大な事実を、劇的に示す重要な証拠だというのに、いやはや。


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