日本の政治を考える

(blog アーカイブ 2004〜2015)


 

2015年10月16日:モニュメントと言い放つ異常

2015年09月17日:日本の国会の異常性

2015年09月17日:「落選運動」について

2015年07月19日:安倍政権について

2008年06月18日: "イラン救出" について

2008年06月10日:秋葉原通り魔便乗発言

2008年02月23日:クラスター爆弾と日本政府

2007年07月31日:米下院の慰安婦決議

2007年07月03日:久間発言の問題

2006年10月22日:「首相」とは何か

2006年03月16日:ウィニーと官房長官

2005年09月16日:今、そこにある危機

2005年09月12日:小泉ポピュリズムの圧勝

2004年08月24日:沖縄米軍へり墜落事故について


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■2015年10月16日:モニュメントと言い放つ異常

 小さいことのように見えて、ウラにある "重大な" 本音が透けて見えている、ということがある。
 「五輪担当相」なる人物が、更地になった建設予定地(旧国立競技場跡地)に立って述べた「言葉」に注目する。

 「安保法制」で最近やや影が薄くなっているので、要点を繰り返す。
 国立競技場の計画白紙撤回においては、工事費が最大の焦点だったことは当然だが、本来主役であるべき選手や競技関係者からも痛烈な批判が出ていたこと、オリンピック後の維持管理の見通しについても異常な甘さ、と言うか好い加減さが指摘されていたこと、を無視してはならない。
 すなわち、工事費や景観以外の主要な批判は大きく「競技施設としての性能=使い勝手」と、スポーツ以外の利用も含む「運用=収益確保につながる施設計画・運営計画」の二つに集約されていた。どちたも極めて現実的かつ重要な問題である。
 前者については、世界を代表する最高の選手たちに無駄なストレスを与えることなく競技が実施され、観客も快適に観覧できる設計でなければならないということである。工場の建設にたとえれば「高い生産性」「高度に安全で、職員が快適に働ける環境」の確保が最優先であって、外見の "インパクト" のためにそれらを犠牲にするなど言語道断、というのと同じである。
 後者については、大手メディアでも再三とり上げられたので「金の話」は繰り返さないが、この種の施設では「大は小を兼ね "ない" 」ことを強く指摘しておきたい。観客が確実に6万人を超えるようなイベントは、オリンピックとワールドカップ・サッカーを除けば殆ど存在せず、どちらも日本で開催されるのは数十年に一度に限られる。すなわち、健全な維持運営=高い利用率を確保するためには3万人〜5万人程度のイベントに、快適かつ合理的な利用料で提供できることが必須なのである。これについては、ロンドンオリンピックのメインスタジアムが、当初から五輪後の「減築=縮小改築」を見込んだ設計であったことが良い参考になる。

 遠藤と言う人物は、森喜朗とのラグビーコネクションによって「五輪担当相」になったらしいが、上に要約したような "国立競技場問題" をめぐるこれまでの経緯をまったく理解していないようだ。
 彼は、更地になった建設予定地(旧国立競技場跡地)に立って以下のように述べたというのである。

「レガシーとして残るもの、国民にとって最高のモニュメントといえるものを(工費の)上限の枠内で造っていきたい」
(2015年10月13日17時10分 スポーツ報知)


 いやはや、レガシーでモニュメントである。
 選手や競技のことなど無関心。この巨大施設を、今後何十年にもわたって誰がどうやって維持運営して行くのかについても、ナーンも考えてない。
 「大恩人・森センセイのモニュメント」を立派に造ることでアタマが一杯なのだろう。


 
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■2015年09月17日:日本の国会の異常性

 日本も、議会制デモクラシーを国の基本とする「先進自由主義国」の一つ、であるはずである。
 しかしながら、この国の国会における「議論」や「採決」は、他の国々におけるものと明らかに異なる点がある。

 このブログで既に何度も言及してきたが、それは、政府・与党から提出される法案について、与党の議員からは批判的意見、修正意見が一切出ないこと。一部の少数野党(の議員)を除いて、法案への賛否が常に与野党の議席数(出席者数)と一致すること、である。
 多党連立内閣の国は当然として、米国、英国の議会の場合でも、多くの法案について与党議員の一部は反対、野党議員の一部は賛成、というケースは少なくなく、政府提案が大幅に修正されることも珍しくない。

 これは、議会制デモクラシーのもとでの「議員」というのは、選挙民による付託と政治家としての信念のみに依拠する存在であって、それ以外のなにものにも左右されてはならない、ということが当然の前提として共有されているからである。

 先の記事でも書いたが、今回の安保法制について、自身を選んだ有権者の過半が採決に反対している与党議員は決して少なくないはずである。彼ら全員が、各人の「確固たる政治信条」に基づいて(次の落選も覚悟で)法案を採決すべきと言うのなら、それはそれで結構である。
 しかしながら、「党で決めたから、党首の意向だから・・」ということであれば、それは有権者への裏切りであり、言わば「親分」に従うヤクザと同じ論理に過ぎない。

 常に、議席数と同じ投票結果にしかならないのであれば、国会の議論・採決など無意味であり、選挙終了とともに開始される「多数党独裁(51対49でも)」制度に過ぎないのである。
 国民の意識や議員の資質が大きく変わる、などということが期待できないのであれば、自民党長老議員の一部の人たちが主張するように、「中選挙区制」による多数政党制の復活しか途は無いのかもしれない。


 
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■2015年09月17日:「落選運動」について

 安保法案の採決に反対している「SEALDs(シールズ)」を中心に、法案に賛成する議員を次の選挙で「落選」させよう、という呼びかけが出てきた。

     安保法案:合言葉は「賛成議員を落選させよう」
      毎日新聞 2015年09月17日 11時01分(最終更新 09月17日 13時50分)


 これは言わば「当たり前」の訴えなのだが、メディアでは "ユニークな運動" 扱いされている点に強い違和感を覚える。
 各種の世論調査では、およそ80%の有権者が「今は採決すべきでない」としている。現在でも、与党の政党支持率は40%程度と見られるので、少なく見積もっても、与党支持者でも半数が採決に反対していることになる。 この種の問題については、世論にかなりの地域差が有ることを考えると、自分を国会に送った有権者の過半が反対していることに「賛成」しようとしている議員も少なくない、ということになる。選挙民の意志に反した行動をとる代議士を、次の選挙で落選させるのは当然である。
 むしろ問題なのは、政権・政策への批判や不満が、これまで "選挙と全く結びつけられずに" 語られてきたことの方である。
 例えば、テレビによる街頭でのインタビューで、「反対です・・・」と語る "市民" に、「では、前回の選挙でどの政党(の候補)に投票しましたか?」と何故訊かないのだろう。
 仮に「選挙に行かなかった」という答えなら、「では、今の事態をどう考えるのか。次の選挙ではどうするのか。」と(有権者としての責任を)問うべきであろう。
 「与党(候補)に投票した」という答えなら、自身の意思に反する政策を強引に進めていることについての「見解」と、次の選挙への考えを訊くべきであろう。
 現在の事態を招いたのは、政治家の資質もさることながら、「主権者」たる自覚を持たずに選挙を蔑ろにし、責任を放棄してきた我々自身とも言えるのである。


 
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■2015年07月19日:安倍政権について

 断っておくが、私は特に「反自民」ではない。
 政権党が一定の周期で交代する「二大政党制」が理想と考えているが、今の日本で現実的に政権を担い、国政を混乱なく運営できる政党は自民党しかない、と考えている。

 しかしながら、現在「政府中枢」にいる何人かの政治家の異様なほどの独裁志向、傲慢な態度によって、「安倍政権」には100%反対である。
 これまでにも書いてきたが、議会制デモクラシーの下では「総理大臣」は政府という行政組織の代表者に過ぎず、断じて国民の "指導者" などではない。国民の意見と国会の議論を "丁寧に聞いて、正しく理解して" 政策を遂行する責任者なのであり、逆に自分の意見を「国民の皆様に "丁寧に説明してご理解いただく" 」などとは勘違いも甚だしい。
 また、国家の意思決定の最高責任者は「国民」とそれを代表・代理する「国会」であって総理大臣個人ではない。「 "私" の責任で全て進める」というのなら、それは独裁国家に他ならない。

 二大政党による政権交代がほとんど実現しなかったにもかかわらず、この国で国家権力が暴走しなかったのは、自民党という政党がもつ独特の「党内多様性」によるものであった。
 ところが、小泉 "郵政" 選挙後その党内多様性・党内デモクラシーは一挙に失われ、小選挙区制によって党内のタテ社会化がさらに進行したとされる。その挙句に誕生したのが「第二次安倍内閣」である。
 現在「安保法制」に議論が集中しているが、この内閣が本当に危険なのは「思想・信条の自由」「言論・表現の自由」に対するあからさまな否定、教育を「人材製造」としか見ない露骨な干渉、といったこと全体を含む「戦後民主主義」の全否定であり、その思想に基づく憲法=国家体制の改変の主張だと考える。

 このまま「アベ政治」が続けば、行き着く先は国内的には "北朝鮮並み" の独裁体制であり、国際的には絶望的な "孤立" しかないと思う。
 それを止めることができるのは、短期的には自民党内の "対抗勢力" だけである。そして彼らに奮起してもらうためには、「このまま行けば来年の参院選挙で自民党は惨敗する」という "空気" をわれわれ自身が作り出すことであろう。
 長期的には、「野党の再編と成長」を期待することになるが、こちらについては残念ながら全く見通しがたたないのが現実である。


 
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■2008年06月18日: "イラン救出" について

 予想通りの "声" が出てきたものだ。
 6月17日夜の Yahoo トップニュースに下記のような見出しが出た。
  <イラン救出 自己負担にとの声>
 この見出しの記事は、18日になると何故か "昨日の話題" の "海外ニュース" にアーカイブされるという奇妙なことになっているが、下記のようなものである。

救出費用は自己負担に=イランの邦人解放で−笹川氏

 笹川堯衆院議院運営委員長は17日午前の自民党役員連絡会で、イランで誘拐された日本人大学生が8カ月ぶりに解放された事件に関し「外務副大臣がスタッフを連れて、3度イランに行っている。これはみんな国民の税金(で負担している)」と指摘した。その上で「政府が渡航の自粛を要請しているところに行った人については、今後、外務省で厳しく徹底する必要があるのではないか」と述べ、救出に要した費用は本人の負担とすべきだとの考えを示した。
6月17日13時0分配信 時事通信

 このニュースには注目すべき点が2つある。
 第一は、何でも "アメリカと同じ" が大好きな保守系の政治家の一人であるのに、 "コクサイ社会 (つまりアメリカのこと) では・・・" と言ういつものセリフが無いことである。
 また第二は、さほど大きな、全国民的に関心の集まっているような事件でもないのに、なぜわざわざこのような発言をしたか、である。
 第一はきわめて簡単なことで、アメリカ政府は絶対にこのような考え方はしないから。
 アメリカだけでなく民主国家と呼ばれる国であれば、例えどのような理由・経緯であれ "誘拐された自国民の保護" に全力を尽くすのは当然であり、費用を負担させるなどという馬鹿げた意見などあり得ない。仮に、自国の法令に違反した行為があれば (後で) 容赦なく処罰はするが、国家としての義務である "救出" とは別の問題である。
 大変興味深いのは第二の点である。
 総選挙が時間の問題となっている現在、ベテラン政治家たちの発言はほぼ全てが "選挙" を意識したものとなっていることは明らかで、笹川代議士のこの発言も、一定の割合の国民が賛同する=支持を集めることを見越してのものと思われるからである。


 
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■2008年06月10日:秋葉原通り魔便乗発言

 大きな事件があった際の "大臣コメント" というのは、官僚の作文を元にしゃべるだけ、というのが一般的。
 だから、防衛相、国家公安委員長など実際に事件に対峙する官庁の大臣の発言は慎重・現実的になる一方で、総務省(旧自治省・郵政省、もっと昔は内務省!)や文部科学省などの大臣の発言は騒ぎに "便乗" して "かねてから狙っていた規制や調査" などを持ち出すものとなる。

秋葉原通り魔:有害情報規制に努力 増田総務相

 東京・秋葉原の通り魔事件で、加藤容疑者が事件までの経緯を携帯電話サイトの掲示板に書き込んでいたことが、10日午前の閣議後の閣僚懇談会で取り上げられた。
 石破茂防衛相が「『これから人を殺します』と犯行予告が出ている。技術的に察知してアクションが取れないのか」と指摘したのに対し、増田寛也総務相がネット上の有害情報の規制策について「努力してみる」と応じた。また、泉信也国家公安委員長は「できる限り情報を入手できるように、警察庁が9日付でインターネット接続業者に通達した」と説明した。また、泉氏は、殺傷力の高いダガーナイフの規制について閣議後会見で「一般に使う家庭の主婦が持っている包丁もあるので、慎重に考えなければならない」と述べた。
 渡海紀三朗文部科学相は閣議後会見で「今の子どもはキレるといわれるが、脳科学で解明したい」と述べた。近く発足させる発達と徳育に関する調査研究会で、脳科学者や発達心理学者を集め、幼児期の脳の働きと行動について解明に乗り出す。
毎日新聞 2008年6月10日 13時29分


 
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■2008年02月23日:クラスター爆弾と日本政府

 代表的な無差別殺戮兵器の一つである「クラスター爆弾」の禁止条約について、日本政府は禁止条約そのものに "反対" を表明している。
 例に拠って「実効性がない」などと国際的にはまったく通用しない理由を挙げている。
 この種の議題は常に「国家としての基本的な思想・姿勢」を表明するものであり、「他の国が賛成しそうにないから」反対だ、などというのは、「思想も理想も無く、ただパワーバランス」だけしか見てない国、ということを政府自らが宣伝しているようなもので、まさに国辱ものである。
 条約に反対する他の国々は「武器として必要だ(使いたい)」と主張しているのだから、賛否はともかく主張は明快である。
 しかし、この典型的な "攻撃用兵器" を、「自衛のための限られた戦力しか保有しない」筈の自衛隊が "専守防衛のために必要だ" と主張するのはいかにも異様であることから、この訳の判らない理由になるのだろう。
 もちろん、駐日アメリカ軍による "持ち込み" への配慮、生産・輸出企業への配慮を最大限行なった結果であることは言うまでもないだろう。
 何よりもやりきれないのは、この件に関するメディアの関心の低さである。
 自分たちを(一応)代表する政府が、世界に向かってクラスター爆弾の「禁止」に反対しているということは、すなわち、日本国民がこのような兵器の保有・使用を望んでいると主張していることになるのである。これは、国民に知らせるべき重大事項ではないのだろうか。

クラスター爆弾、禁止合意持ち越し 国際会議が閉幕
 多数の子爆弾が不発弾として残り、民間人に被害を与えるクラスター(集束)爆弾の禁止条約締結を今年末までに目指す「オスロ・プロセス」の国際会議が22日までニュージーランドのウェリントンで開かれ、今年中の条約締結などを掲げる宣言を採択し、閉幕した。全面禁止を訴えるノルウェーなどと、部分禁止を求める西欧主要国や日本などとの対立は解けず、条約案の最終合意を目指す5月のダブリンでの会合に持ち越された。
 会議筋によると、英国やドイツ、フランスなどは目標を識別して破壊する最新型のクラスター爆弾などについて禁止対象から外すよう求め、宣言への署名の保留も示唆した。日本も「実効性を担保するために主要な生産・保有国が参加できる枠組みとすべきだ」と部分禁止を主張した。
 議長のゴフ・ニュージーランド国防相は、今回の宣言への署名が次回以降の会合の参加要件になるとしたため、宣言は部分禁止を主張する国々の意見も別途付記する両論併記の形となり、西欧主要国と日本も最終的に宣言に署名した。
  ーー以下略ーー
(Asahi.com 2008年02月22日22時02分)

「地雷廃絶日本キャンペーン (JCBL) 」によれば、
  ーー前略ーー
 クラスター爆弾は、現在73ヵ国が保有し、そのうち35ヵ国で210種類を製造しています。日本も国内の3社が生産をしているクラスター爆弾製造国であり、4種類のクラスター爆弾を貯蔵している保有国です。少なくとも12ヵ国が輸出し、58ヵ国が輸入したと言われています。米国、ロシア、英国、ドイツ、イスラエルが「輸出大国」です。今までに世界中で約3億6千万個の子爆弾が使用され、不発弾3千万個が23ヵ国に残っていると言われています。世界中の武器庫に保管されているクラスター爆弾の子爆弾は40億個に上ると推定されています。
  ーー後略ーー

詳しい情報は下記サイト。
地雷廃絶日本キャンペーン

その後、政権交代にともなって日本政府は態度を変えた。福田内閣のもと2008年5月28日のダブリンでの国際会議では一部を除いて禁止するとの条約案に同意、麻生内閣になった後の2008年11月28日の安全保障会議で自衛隊が保有するすべてのクラスター弾の廃棄を決定、12月3日にオスロで開催された禁止条約署名式には中曽根弘文外相が出席して署名した。(2008年12月10日追記)


 
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 ■2007年07月31日:米下院の慰安婦決議

 アメリカ下院本会議で、第2次世界大戦中に行われたいわゆる "慰安婦" の募集・徴用に日本軍が関わったことについて、日本政府に対して謝罪を求める決議が予想通り採択された。
 原文全文の入手・翻訳が未だなので、とりあえず「しんぶん赤旗」が伝えた外交委員会での決議文をもとに考える。
 決議文全体を読むと興味深いことが見えてくる。
 すなわち、 "慰安婦" に関してかなり一方的に旧日本軍および当時の日本政府を非難する一方で、現在の日本政府の様々な国際貢献については "称賛" という言葉まで用いて評価することで一種のバランスをとっているのであり、要するに、謝るべきことは早くきちんと謝って名誉ある国家たれ、と諭している論調なのである。
 そして、この決議文が真に深刻な懸念を示していると思われるのは、

 ・・・日本の学校で使用されるいくつかの新しい教科書は、「慰安婦」の悲劇や第二次世界大戦における他の日本の戦争犯罪を軽視しようとしており、
 日本の官民の関係者は最近、彼女たちの苦難に対して政府の真剣な謝罪と反省を表明した一九九三年の河野洋平内閣官房長官の「慰安婦」に関する声明を薄め、あるいは無効にしようとする願望を示しており、・・・
[2007年6月29日(金)「しんぶん赤旗」]


という記述であり、さらに日本政府に対する勧告として述べている下記の部分である。

 日本政府は、ーーーー中略ーーーー
 (3)日本帝国軍のための「慰安婦」の性奴隷化や人身取引などはなかったといういかなる主張に対しても、明確に公式に反ばくすべきである。そして、
 (4)「慰安婦」に関する国際社会の提案に従うとともに、この恐るべき犯罪について現在と将来の世代を教育すべきである。
[2007年6月29日(金)「しんぶん赤旗」]


 何のことはない、現在の内閣総理大臣がこだわり続ける2つの命題、
  戦後レジュームからの脱却
  教育の再生?
につながる政府および一部メディアの言動を強く批判・牽制しているのであり、現在の日本政府の全体的な政策傾向や姿勢そのものを問題にしていることが明らかなのである。

 政府筋、特に安倍首相は相変わらず "よく説明して" などと繰り返している。
 しかしながら、 "よく説明して、ご理解いただく" という言葉が実際には "問答無用で、受け入れさせる" ことを意味する日本国内専用のレトリックが、アメリカ議会に対して通用するはずもない。
  "テロとの闘い" におけるブッシュ路線への密着は、急速に政策転換を進めるアメリカに対して、最早大きな "貸し" にはなっていない。また "拉致" にこだわる北朝鮮敵視政策も、6カ国協議におけるマイナス要因としか見られなくなっている。
 このまま行けば今後の日米関係は極めて厳しいものとなるだろう。


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 ■2007年07月03日:久間発言の問題

 既に報道されているので、発言内容そのものは繰り返さない。
 ここで問題にしたいのは、この国の政治家とメディアの異常なほどの視野の狭さ、意識の偏りである。
 広島、長崎の首長や被爆被害に関わる人々が激怒するのはある意味で当然であるが、それにしても「心を傷つけた」の連呼ばかりなのは、一体何なんだろう。
 それ以上に、粗末というか惨めでさえあるのは「(選挙を控えた)この時期に・・」としか言わない(思いつかない)総理大臣である。前任の小泉総理の外交政策への批判に乗って登場し、一応中国訪問などしてみたが、実は国際関係に関するセンスなど皆無であることがよくわかる。

 少し時間を追って考えてみよう。

 世界の眼で見れば、核開発において日本は中国・インドとならんでアジアのトップであり、プルトニウムの備蓄量でもアメリカ、ロシアに次いでいる。
 さらに、人工衛星を打ち上げるロケット技術、誘導技術ももっているが、これは「弾道ミサイル」に必要な技術と全く同じものである。
 それにも関わらず、これまで日本を露骨に「危険な国」と名指しする国が(北朝鮮を除いて)無かったのは、以下の理由による。
 第一に憲法9条の存在、第二に被爆体験を基とする核兵器に対する国民の強い反発、そして第三に国内における軍部(=防衛庁)の地位の低さ、である。
 (しかし、潜在的な不信感は東南アジアなどには依然としてあった)

 これに対して、
 現在の日本政府・総理大臣は、「戦後体制からの脱却」を掲げ、「憲法改正」を最大の目標に掲げている政権である。
 憲法はまだでも、自衛隊に関する法改正は着々と進め、「海外任務(=活動)」もほぼ自由に行なえるようにした。
 さらに、総務省の下部組織であった「防衛庁」を「防衛省」に昇格させ、そのトップは「長官」から「大臣」になって権限も強化された。
 その流れの中で、初代の「防衛大臣」が「原爆の使用もしかたなかった」(文意をとれば、結果的には有意義であった、ととれる)と発言したのである。
 政治家の「失言」が、政策転換の「試し撃ち」として行われることがある、ということは世界的な常識であることからして、この発言が「日本の核武装」の可能性を示唆したものと受け取られる可能性は決して小さくない。
 実際、一部の政治家はこれまでにもそのような発言をしているのだが、問題は「初代防衛大臣」の発言だ、ということである。

 政府として、この件を厳正に処分(当然、大臣罷免)しない限り、既に6カ国会議で孤立し始めている日本は、外交的にさらに苦しい状況に追い込まれるだろう。
 明らかにわが国の信用を傷つけたこのような発言を、「心を傷つける」とか「選挙にダメージ」などというレベルでしか見ようとしないのが、この国の政治家とメディアのレベルなのだろう。


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 ■2006年10月22日:「首相」とは何か

 安倍晋三氏を首相とする政権が発足してまもなく1ヶ月である。
 報道を通じて伝わってくる安倍首相および政権の特徴を考えてみる。
 就任直後の記者会見などで非常に不愉快だったのは、安倍首相が何度も発言した「国民に語りかけて・・・」という言葉である。「・・語りかけて行きたい。・・直接語りかける、お話する機会を多くしたい。・・」などと繰り返された。
 また、首相本人ではないが、自民党の議員の発言の中に「新しい“指導者”として・・」という意味の言葉が多く見られたことも非常に気になった。
 例えば、イギリスにおいてブレア氏を国民の“指導者”とは決して言わない。ドイツの首相についても同じである。国家の最高権力者が“指導者”と呼ばれ、何かと国民に語りかけるような国は要するに独裁国家である。最も分りやすい国はまさに北朝鮮であり、過去にはナチ・ドイツやポルポトのカンボジアがあり、毛沢東時代の中国もそうであった。
 国民の精神的指導者も必要であると考える国の多くは、政治権力と分離するために首相と別に大統領職を設けたり、国民の多くが信仰する宗教の最高指導者がそれを担うという例が見られる。前者はヨーロッパのいくつかの国で、そして後者はイスラム世界で広く見られる。ローマ法皇というのも後者の極端な例と言える。
 その中で際立って特異なのは「アメリカ合州国大統領」という存在である。ここでは深入りしないが、旧いヨーロッパへの根深い劣等感と憧れから作り出されたこの奇妙な存在は、事実上は単なる政治権力者に過ぎないにもかかわらず、(家族まで含めて)アメリカ国民の「模範」「精神的指導者」というフィクションに包まれているのである。
 夫が政治家として成功しただけなのに、その妻を「ファーストレディ」と持ち上げる臆面の無さ、節目ごとに国民に向けて発表される大統領の「報告」に“教書”と名付ける尊大さに、ヨーロッパの政治家たちは辟易するのである。
 民主制が確立している(筈の)国であれば、議院内閣制すなわち間接的に国民によって選ばれた「首相」や「主席」は、あくまでも政治運営を“託された”存在なのであって、断じて“指導者”などではない。であるから、首相が国民に対して為すべき事は、なによりも率直で明快な「説明」と「報告」でなければならないのであって、“教えを垂れる”ことなどもってのほかである。
 自分の“ことばを聞く”ことを多くの国民が熱望し、自分が国民を“指導”して「美しい国」を“創る”のだ、などと考えているのだとしたら、日本国民と自由民主党は、戦後最悪の危険きわまりない政治家を代表に選んでしまったことになるのではないか。


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 ■2006年3月16日:ウィニーと官房長官

 ウィニー+ウィルスによる「情報の流出」という事件が続出している。 "事件" そのものの基本的な意味については後で触れるとして、この件について安倍官房長官が“国民に”語った、というニュースは不愉快極まるものである。
 彼は、それがまるで“有事”の一種であるかのような口ぶりで国家の危機を強調し、 "情報漏洩" を防ぐことが急務であって、「国民の皆さんはウィニーを(自分の)PCに入れないことが第一です」と結んでいる。
 この発言には見過ごすことのできない“すり替え”と“傲慢”とが含まれている。
 すり替えと言うのは次のようなことである。
 ウィニー+ウィルスによる情報流出が、個人のミスでは済まない「社会的な事件」となるためには、以下の2つのいずれかの条件が必要である。
 第一の条件は、機密情報・個人情報を扱う職員が、自分が使う職場のPCに "勝手にウィニーを入れ" そのために職場のPCの内部にある情報が外部に流出した場合である。
 第二の条件は、本来職場から持ち出してはならない機密情報・個人情報などのデータのコピーを、何らかの記憶メディアを用いて職員が "勝手に持ち出し" て自分の (ウィニーを入れた) PCに入れ、そのために個人のPCの内部に複製された情報が外部に流出した場合である。
 警察庁や防衛庁の“漏洩事件”など、いずれもこれらに該当する不法行為の結果起こったことである。組織内部でのモラルの低下、ルールの不徹底、そして情報管理意識の低さ、が生み出した結果に過ぎず、この場合、まず為すべきことはそのような本来禁止されている行為を行った人物を厳しく追求し、再発防止を徹底することでなければならない。いずれにせよ、この種の事件は "関係者" の意識と行動の問題なのである。
 ところが官房長官は、あたかも一般の国民全体が日常的に危険にさらされているかのような発言を行って根拠の無い危機感をあおり、さらに警告と言うか脅迫まがいの "指示" までしているのである。
 機密文書の " (紙の) コピー" が流出する事件が起きたからといって、記者会見で「一番良いことはコピー機を置かないことです」などと言ったら正気を疑われるのは確実だが、実は同じ論法なのである。
 個人のPCにウィニーを入れても、勤務先の仕事とは関係のないPCであれば別に何の問題も無い。そこに自分個人の銀行口座や暗証番号のデータを入れていてどうかなったとしても、それはその無知な自分の問題である。インターネットにはその種の危険があること、自分がどの辺りでどのような危険に近づいているのか、使うからにはそれくらいのことは知って使うのが最低限の“自己責任”というもので、それこそ日本政府の大好きな言葉だったはずである。
 ネット絡みということでニュースに大きくとりあげられたとしても、しょせん一部の公務員+企業社員が関係した "職務遂行上の不祥事" に過ぎない。そのような事件をねじ曲げて、上のようなすり替えを行い、しかもそれに便乗して「国民に教えを垂れる」かのような言動を示すのはなんとも不愉快千万である。


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 ■2005年9月16日:今、そこにある危機

 しつこいようだが、また書く。本当に危ないと思うから。
 議会制民主主義の基本は、思想・言論の自由と、その上に立って政策を議論しあう“選挙によって選ばれた”議員たちである。そして、一方で政治は“選択の連続”であることから、100人100様的混沌を整理し、議論・選択を効率的に進める手段として“政党”という形が作られる。
 そこでの参加条件は、大きな政治的思想において一致することであって、決してあらゆる選択において党首に盲従することなどではない。アメリカにおける民主・共和両党(議員)の場合も、イギリスの労働党・保守党の場合もまさしくそうである。
 “2大政党制”というのは、それぞれの政党内部において、自立した議員個々の判断が優先されるからこそ、“主要政党が2つでも良い”のであって、そうでなければまさに「51対49でも手軽に実現できる独裁制」と化してしまう。
 第二次世界大戦後の60年間、そのほとんどにわたって日本の政権を担ってきた自由民主党という政党は、政権党であることで当然多くの批判をあびてきたが、この“内部的多様性”という点において、優れたチェック&バランス機能を確保できる政党であった。
 その自由民主党が死にかけている。すなわち、世界の自由主義国では常識である政党内部の自由な言論・政策判断が完全に否定され、すべての議員が党首の決めたとおりに意思表示する=議席数という“数”でしかない、という異様な政党に変わりつつある。
 このような政党、その独裁的な指導者に“絶対多数”を与えたら、どのようなことになるだろうか。「私に賛成するのが自民党員なんだから、反対なら出て行けばよい」「私を総裁に選んでおいて、私の言うことが聞けないというのは、おかしいじゃないか」これらはいずれも現首相の発言である。
 彼に絶対多数の支持を与えたということは、この発言の「自民党員」を「日本国民」に、「総裁(党首)」を「総理(首相)」に書き換えることを認めた、ということなのである。
 多くの野党やいわゆる反対派が、彼のプロパガンダ的に単純化された“ことば”ではなく、彼が実際に何をやってきたか(やらなかったか)を見るべきだ、と訴えたにもかかわらず、日本国民の多くはそうしなかった。
 今、彼は何をしているだろうか?
 80人近い初当選議員全員に対して、自由民主党内部にあって自分に批判的な言論の砦となり得る派閥への参加を禁止し、自分の管理下で行う“勉強会”に参加させようとしている。すなわち、公言したとおり彼は自由民主党を壊し、小泉独裁党を着々と作っているのである。


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 ■2005年9月12日:小泉ポピュリズムの圧勝

 選挙が終わった。結果は民主党の一人敗け、それも“惨敗”という他ない。
 とは言え、自民党の票の伸びは大都市若年層が圧倒的に自民(小泉)を支持したことによると見られ、結果的には、投票率の上昇がこの結果を招いたとも言える。
 いずれ分析結果が出ると思うが、興味深いのは、“絶滅”も危惧された社民党、減少が予想された共産党が意外に(と言っては失礼だが)健闘していることである。この2党に共通するのは主張が単純で明快だったことである。小泉自民党が“究極的に単純な主張”で圧勝したことと併せて、考えさせられる結果である。
 実際に得票結果を見ると、自民、民主両党の間で前回の当落が逆転している小選挙区の場合、自民が“圧勝”しているケースはそれほど多くない。すなわち、元々自民党が強かった選挙区を除けば、個々の得票において民主党が“惨敗”したわけではないが、獲得議席数の結果がこうなるのは小選挙区制の特徴と言う他ない。
 これらを考えると、結局この選挙結果をもたらしたのは、民主党の主張に明確さが欠けていたことによるものと考えられる。しかもそれは“戦術”的なものと言うより、民主党の体質そのもに内在する不安定、混迷の結果であり、年金問題の強調も唐突に見えた、と言うことであろう。
 民主党の敗因はともかく、先に述べた“単純な明快さ”が勝敗を決するという傾向は重大である。政権政党の可能性がない弱小政党が、明快な主張をするのは “野党”としての存在意義を訴える意味で当然であるが、最大の政党があらゆる問題を2項対立的に単純化し、“白か黒か”で押しまくることが戦術的に有効であるというのは、極言すればファシズムへの道を開くものだからである。
 もう一つ、デモクラシーを守る国であれば、権力をもつ側は常に“やや保守”あるいは“緩やかな改革”の姿勢で政策を進め、一方野党側は常に“大胆な改革”を主張するものである。それで政権が交代すると、新与党は野党時代の主張の割には“穏健・現実的な”政策をとることになり・・・ということを繰り返すことで、絶えざる改革を続けながら暴走を防ぐというのが議会制民主主義システムの基本である。
 しかしながら、小泉政権の特徴は「自分たちの方が“改革”なのだ」と主張するところにある。権力をもつ側が“改革”や“世直し”を声高に唱え、権力をもって推進する状態は、始めのうちこそ一種の爽快感や充実感を与えるものだが、喝采を送っているうちに大変なことになるのは、かつてのドイツを見るまでもないことである。
 さあ、これから恐ろしいことになるぞ。


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 ■2004年8月24日:沖縄米軍へり墜落事故について

 米軍がへり墜落を「予測していた」ことは、無線がある以上当然だろう。むしろ、飛行困難の連絡に対して、(市街地の中では)大学敷地への「不時着」を指示した可能性が高い。
 それよりも、この事件は米軍が沖縄の一般市民どころか警察や消防にまで「命令」し、「行動を制約」できること、一方、沖縄県警は米軍(人)に対して指一本触れることもできないこと、を改めて明らかにした。
 世界の常識では、こういう状態を「占領」とか「軍事支配」と呼ぶのではないかね。


 
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