現代社会を考える_2
(blog アーカイブ 2009〜2015)
2015年12月19日:「夫婦同姓規定」裁判について |
2015年11月10日:"ミャンマー" 総選挙について |
2015年10月14日:刑事ドラマのような事件 |
2015年08月19日:プリクラと "外国人" |
2015年07月10日:電話セールスをめぐって |
2015年07月08日:「給食費未納」をめぐって |
2015年06月11日:「ご理解」ということばの暴力性 |
2013年10月01日:6年前の9月27日 |
2010年06月22日:浜名湖ボート転覆事故 |
2010年04月07日:乗用車火災事件で隠されていること |
2009年12月22日:トヨタ自動車という権力 |
2009年10月28日:女性の社会進出、日本は75位 |
2009年07月31日:推定有罪という病 |
2009年04月10日:千葉県知事選における森田健作氏の勝利 |
2009年04月04日:ロケット・ミサイル・飛翔体! |
■2015年12月19日:「夫婦同姓規定」裁判について
既に報じられているように、最高裁で「憲法違反ではない」という判決が出た。
15人の裁判官の10人が合憲、5人が違憲という判断の多数決であった。
「ニッポンの良き伝統が破壊されずに済んだ」という保守系の妙な高揚、失望・絶望と騒ぐリベラル系の異様な反発、どちらも同じように見苦しいと感じる。
メディアの報道も、これら両者の「コメント」をただ並べるだけで、「この裁判では何が "判断" されたのか」という点をきちんと伝えていない。
判決は、大きくは、1.(同姓が)社会的に定着している、2.通称使用が普及してきており、(原告が訴える) "苦痛" は軽減されている、という2点であり、民法の規定は「憲法違反とまで言えるものではない」ということである。そして、「裁判ではなく、もっと(国会等で)議論を深めるべき。」という付帯意見も付いている。
つまり、最高裁は決して「あくまでも夫婦同姓であるべきだ」などとは言ってないのである。
「逆」を考えてみると面白い。
仮に、民法の規定が「一定条件の下に別姓を選択することを認める」となっていて、これに対して「別姓夫婦の存在は日本文化を破壊するもので、精神的苦痛を与えるものだから、この規定は憲法違反だ」と主張して裁判を始めたらどうなっていただろうか。おそらくその場合はより明確に「憲法違反ではない」となったはずである。
だから、この付帯意見が重要なのである。
以前から気になっていたのだが、この裁判の基となった主張について、かなり意図的かつ巧妙な話のすり替えが行われている。すなわち、「夫婦別姓の "選択" を可能にせよ」という主張を、あたかも「夫婦同姓を廃して、別姓を制度化せよ」という(とんでもない)主張であるかのようにすり替えるのである。
原告たちが主張しているのは「別姓の "禁止" が憲法違反だ」ということであって、「同姓が憲法違反だ」と言っている訳ではないのに、である。
例えば、メディアが好んで行うアンケートや街頭インタビュー調査などでも、「 "あなたは" (同姓・別姓)どちらに賛成ですか」というものばかりであった。
典型的な例として、現在 Yahoo ニュースが実施しているものを示す。
12月19日早朝の時点で約15万票の "投票" があり、およそ67%が「選択しない」26%が「選択する」となっている。
Yahoo ニュースの回答者は30代・40代の男性に極端に偏っていることが知られているが、この結果は(意外に)他の同種の調査と大きくは異なっていない。
しかし、この質問は、今回裁判となった問題とは全く異なって(ズレて)いるのである。
この問題をきちんと考えるのであれば、質問は
「あなたは、別姓の夫婦という存在を認めますか?」
であるべきであり、選択肢は
1.自分もそうしたい
2.自分は同姓にするが、別姓夫婦も認める
3.認めない、全て同姓にするべき
でなければならない。
「多様性を認める社会に・・」などときれい事を並べながら、一方でこのような論点のすり替えが横行していることに困惑する。
■2015年11月10日:"ミャンマー" 総選挙について
ビルマ(ミャンマー)の総選挙、投票は平穏に終了したが、開票・結果の確定には時間がかかるということである。
これまでのところ、与党側も敗北を認める発言をしていて、無事に政権交代に繋がると見られているが、若干の不安も残る状況である。長期独裁政権が選挙で敗れた際に、しばしば「不正の存在」などを言い立てて選挙無効を主張、武力での制圧に乗り出すことがあるから・・・。
日本のメディア報道で実に奇妙なのは、「民主化」がビジネス・チャンスだと言わんばかりの浮かれた空気と、野党指導者アウン・サン・スー・チー氏への妙な思い入れである。そこに共通するのは、相変わらずの異常なほどの「都合の悪いことは全部忘れる」という病である。
決して忘れてならないのは、日本が、ほとんどの先進国が制裁を科す軍事独裁政権に対して、一貫して支援し続けた「唯一の国」であったという事実である。小さいことだが、「ミャンマーではなくビルマ」というスー・チー氏の主張に応えて「BURMA」と呼び続けた欧米各国に対して、日本政府は率先して「ミャンマー」と呼ぶことに決め、学校やメディアに通達までしていたのである。
それもこれも、軍事独裁下の "ミャンマー" こそが日本ビジネスの希望のフロンティアだったからである。民主化が現実に進展すれば、これまで進出を控えていた欧米各国との競合も始まり、人々の権利意識も(正しく)高まることによって、従来のような「美味いビジネス」は困難になる可能性が高い。すなわち、「民主化とビジネス・チャンスは矛盾する可能性が高い」のであり、一部の専門家は、この点を "控えめに" 指摘しているのだが、全体の能天気な論調には棹させないようである。
アウン・サン・スー・チー氏が「民主化の星」であったことは間違いないのだが、欧米のメディアが同氏を熱心に取り上げてきた大きな要因は、英国留学経験をもち(亡夫も英国人)完璧な英語を話す(発信する)人物だったことである。そして、同氏もまたその英語力と欧米メディアの影響力を最大限に活用することで、自身の安全を確保しつつ民主化運動を続けてきたのである。その歩みを見ても、スー・チー氏はその優美な外見とは真逆の、本当に百戦錬磨のタフな政治家であることが判る。
そのスー・チー氏が、自身を軟禁・弾圧した軍事独裁政権を支援し続け、「軍事政権への支援は間接的に民主化の妨げになるので控えて欲しい」という要請にも一切耳を貸そうとしなかった日本という国、日本政府を果たしてどう見ているだろうか。これまでの、日本の政治家やメディアとのやり取りを見ても、スー・チー氏が日本人の大好きな「親日」政治家などでは全くないことは確かである。
■2015年10月14日:刑事ドラマのような事件
まるで刑事ドラマのような事件。記事だけでは判らないことが多い。
薬事法違反容疑の内偵中にこの警官が惚れてしまったのか、それとも、警察の情報を得ようと容疑者の女性の方から接近したのか、それは "組" の指示だったのか、それとも・・・。
また、警官自身が「 "組織" を辞めたい」と相談したとあるが、「 "警察" を・・」ではなく「 "組織" を・・」とは奇妙な表現である。「潜入捜査」でもしていたのだろうか。
結城昌治さんの小説だったらどう描いただろうか、などと妄想が膨らむ。
元記事では実名+下の名前に(ふりがな)まで付けているが、単に話題として取り上げるだけなので、このブログでは警官の名前は伏せる。
交際相手に情報伝え逃がした疑い、巡査部長逮捕 宮崎
宮崎県警は13日、薬事法違反の疑いが持たれていた女に捜査情報を漏らしたとして、刑事部組織犯罪対策課の巡査部長、■■■■(○○○)容疑者(35)を犯人隠避の疑いで逮捕し、発表した。■■容疑者は当時この女と交際しており、「間違いない」と容疑を認めているという。
監察課の説明によると、■■容疑者は交際していた女が薬事法違反の容疑者になっていることを知り、昨年8月下旬に「近々、逮捕状がでる」などと伝え、逃がした疑いがある。この情報をもとに女は逃走し、昨年10月4日、指定薬物を所持していたとして薬事法違反の疑いで逮捕された。
■■容疑者は銃器・薬物対策の担当。今年9月上旬に「(逮捕された)女と交際していた。組織を辞めたい」と上司に相談し、発覚した。■■容疑者は妻帯者で「女とは昨年5月ごろに知り合った」と話しているという。
鬼塚博美首席監察官は「誠に遺憾で、深くおわびしたい。事実関係を明らかにし、厳正に対処する」とのコメントを出した。(金山隆之介)
朝日新聞デジタル 10月13日(火)21時21分配信
■2015年08月19日:プリクラと "外国人"
8月19日、TBS(東京地区)の報道バラエティ「Nスタ」が、「あのプリクラが外国人に人気・・」という話題をとりあげた。
「画像加工機能付きのインスタント写真撮影+シール化」というこの機械が登場して20年になるということで企画されたようである。
番組では、「外国人観光客にも大人気!」という説明で、日本国内のプリクラ機を楽しそうに利用している "外国人観光客" を紹介していたのだが、そこに、テレビでこの種の話題をとりあげる際に、必ずと言っていいほど出てくるステレオタイプな「歪み」が強烈に現れていたことに失望した。
すなわち、登場した「外国人」が全ていわゆる "白人" だったのである。
日本政府観光局(JNTO)の統計によれば、2014年度の訪日観光客数は約1090万人、内83%がアジアから、中でも中国、台湾、香港、韓国の東アジア4カ国・地域で70%を占めている。細かい数字はともかく、圧倒的に東アジアからの観光客が多いことは、「爆買い」などの報道もあって、広く知られているはずなのに、である。
テレビ東京系だけは、ビジネス重視という特徴から東アジアに注目する番組が多いが、他の民放各局、特に昼間のバラエティ番組などではいまだに「東アジア系は "ガイジン" ではない」という感覚なのだろう。
「外国人観光客」という話題をとりあげる際に、バックに流すのは常に "白人" というコンプレックス剥き出しの習慣をいつまで続けるのだろうか。
プリクラは、アジア地域にはすでに広く普及(当然、現地企業によるパクリも少なくないだろうが・・)し、盛り場ではお馴染みとなっている。
しかし、かつて狙った米国進出では普及できず、現地の意見をもとに様々な改良を加えて新たに挑戦、という経緯をわかりやすく伝えていたのだから、「プリクラの米国進出」というテーマに絞れば良い企画だったのだろうに、まったく残念である。
■2015年07月10日:電話セールスをめぐって
カニの押し売り、執拗な電話勧誘を行っていた会社が営業停止処分を受けた、というニュースが大きく話題になっている。
様々なメディアで、「いかに(この種の)被害を防止するか」という話が展開されているのだが、どうにも違和感を感じる。
「(その種の電話がきたら)一言で断りましょう!」とか、「反論」の仕方を教えて見せたりするのだが、その一方で、「 "良い人" ほど一方的に断れない傾向が・・・」などという話に至って、「早急な対策が望まれます」などという全く無意味な結論で終わってしまう。
アメリカ、イギリス等多くの先進国で行われている、拒否番号登録制度を紹介しておきながら、「日本では早急な実施は難しい」などと言う。
つまり、これもメディアにとっては「ネタ」の一つに過ぎないのであって、「警鐘を鳴らす」「広く伝える」と称して埋め草に使っているだけなのである。
何故、そんなに酷評するのかと言われるかも知れないが、それは、以下のような基本的な問題に、何故か全く触れようとしないからである。
第一に、「自宅の電話番号の公開」についてである。
商売用の宣伝媒体であるタウンページは別として、そもそも、金を取って電話サービスを提供している会社が、顧客の名簿を印刷してバラまくこと自体信じられない異常な風習である。
高齢者や専業主婦であれば、日常、電話連絡をする相手は限られている筈、それ以外の人に宣伝する必要など全く無いのだから、「電話帳非掲載」にするのが "当然" である。高齢者の場合、掲載が "普通" とされた時代に電話を引いてそのまま、という人も少なくないため、本人または周囲の人間が早急に調べて「非掲載」にすることを勧めなければならない。
既に勧誘電話が来ているような人であれば、さっさと番号を変えて、改めて「電話帳掲載」も「番号案内」も断れば良い。必要な親族・友人・知人には、新しい番号を「個別に」知らせれば良い。実は、これだけのことでセールス電話はほとんどかかってこなくなるのである。
"気味が悪い" などと言う前に、電話番号は個人の秘密であって「自分が選んだ相手だけに知らせるもの」ということを徹底する必要がある。
第二に、電話が鳴ったら「急いでとらなければならない」「受けたこちらが先に名乗らなければならない」といった、「職場マナー」もどきの奇妙な風習についてである。
職場の電話・仕事用の電話と「自宅の電話」とは全く別物である、という認識が欠落しているように思う。
「自宅に、勝手にかかってくる電話など、出たくなければ出なくて良い」のである。まして、番号非通知の電話、自分が知らない(=身に覚えの無い)番号からの電話など、本来出るべきではない。<番号通知であれば、後でこちらからかけ直すことができる>
何か重要な連絡だったら・・・などと考える人がいるが、この国では、例えば役所からの重要な「お知らせ」などは必ず手紙(文書)で来ることになっているから全く問題ない。
あらかじめ知っている相手 "以外" からの電話は「無視するべし」ということを徹底する必要がある。
この2つの基本的な問題を無視(回避?)して、「上手な断り方」などを指南するのはやはり奇妙である。
■2015年07月08日:「給食費未納」をめぐって
埼玉県北本市の市立中学校4校が、給食費を納めない(納めようとしない)保護者に対して、「(未納のままなら)生徒への給食の提供を停止する」と通知したという。
「給食費未納なら弁当を」 保護者43人に通知 41人が納付の意思
東京新聞【埼玉】 2015年6月28日
北本市の市立中学校四校が今月中旬、学校給食費を三カ月間納めていない生徒の保護者四十三人に対し、「未納のままなら七月一日に給食の提供を停止する。停止後は弁当を持参させてほしい」との趣旨の通知を出したことが分かった。
市教育委員会によると、二十六日現在で四十一人が給食費を納付する意思を示した。残る二人については「支払ってもらえるよう学校側に最大の努力を続けてもらっている。弁当のケースになればいじめなども想定され、細心の注意を払ってほしいと要請した」(酒井一昭学校教育課長)としている。
給食費は一人当たり月四千五百円で、四十三人の三カ月間の未納額は約五十八万円。四校の給食は以前は給食センター方式だったが、今年四月に自校方式に切り替わった。これに伴い給食会計が市から学校側に移管され、未納問題が顕在化したという。 (花井勝規)
この事件そのものは、対象世帯全てが納入の意志を示したことで、とりあえず7月に給食が停止されることはない見通しとなっている。ただ、重要なことは、「給食費未納」が全国で起きている言わば一般的な課題であること、それに対して「停止」という対策をとった例(自治体)はこれまで無い、ということである。別に「踏み倒し」を許しているということではなく、福岡市や高崎市などでは法的手段をとって親に支払いを命じている。それでも、生徒に対して給食は提供しており、停止するという事態になればそれは全国初なのである。
ここで取り上げるのは、事件そのもではなく、このニュースに対する「人々の反応」である。
個々には引用しないが、ネット上では(予想通り)「給食停止は当然」という意見が溢れた。また、一部のワイドショーなどが「市民の声(と称するもの)」を拾っているが、そこでも「当然」とする意見の方が多数となっていた。
これは、どう考えても異常な反応である。
上記のいくつかの市のように、「払えるのに払わない親」を追いかけて(場合によっては締め上げて!)、徴収するのは当然である。
しかしながら、親の不始末を「子どもに責任とらせる」「見せしめにする」ことに賛成、というのは本当に気味の悪い発想であり、子どもの「人格・人権」というものに何の価値も意味も感じない人々なのだ、ということを痛感する。
福岡市の担当者は(朝日新聞の記事で)「給食は公教育の一環として行っているものだから、未納を理由に止めることはない」と言っている。また、北本市の関係者も「いじめにつながる危険」を指摘しているのである。
日本人は、いつからこのような「嫉妬」「憎悪」「差別意識」に凝り固まった、「いじめ大好き」な不気味な集団に成り下がったのだろうか。
細々したことから重大なことまで、様々なことがらについて、我々は日常的に態度を決め、あるいは評価し、そのことを周りの人々と共有しあって社会生活をおくっている。
例えば、家族や友人と食事に行くという場面の中でも、(小さな)賛成/反対、同意/不同意、受け入れ/拒否といったプロセスが繰り返される。
<ウナギにしようか? いや、イタリアンが良い。など・・・・>
さて、もっと重大なことがらについてはどうだろうか。
例えば、ある日突然、何の関係もない巨大な迷惑施設が自分が住む地域に建設されるという話〔計画)が持ち上がったら、あなたはどうするだろう。当然周りの人々と共同で、不同意、反対、拒否というメッセージを全力で発することになるだろう。
そうなると、その計画を一方的に決めて強要してくる側の官僚や政治家は、必ずこう言い出す。
『ご理解いただけるよう、丁寧に説明していきたい!』
「理解」というのは、「達成」とか「成就」といったことばと同様に、「可能」の意味を内包する言葉である。これらの言葉は、一般に「○○する」とは使っても「○○しない」という使い方はせず、否定の場合は「○○できない」とする方が通常である。逆に、これに対応する肯定文は「○○できる」となってしまう。「理解できる/できない」とは、平たく言えば「わかる/わからない」ということである。
住民の側が、その計画の詳細を検討した上で(当然 "理解" した上で)プラスよりマイナスの方が大きいから「反対だ」と言っているにも関わらず、計画する側は、「あなた方は "理解できない" ようだから、もっと良く説明してやろう」と言うのである。
これは、明らかに意図的な、そして強い悪意の込められた "すり替え" である。
世界の「自由で・民主的」とされる国々で共有されている最も基本的な概念は、全ての人々は「同等」〔敢えて "平等" とは言わない)である、ということである。それは、何かの意思決定において最終的には多数決原理が適用されるとしても、その過程において「意見表明」の機会は正しく与えられ、かつその意見は充分な敬意をもって扱われる、ということである。
正当な反論・反論する人々に対しては、真摯に再反論するのが民主社会の原則である。そして、展開によってはその異論を受け入れ、あるいは妥協点を探って計画を修正するのがデモクラシーである。
それを一方的に無知・無理解と決めつけ、 "ご説明" などと繰り返すのは、政府の方針は常に100%正しく、それに異を唱えるような人々は正常な理解力も判断力もない連中だ!と言っているのに等しい。これは、完全に「独裁国家」の思想である。
政治家、官僚だけではない。『ご理解いただけるよう、丁寧に説明していきたい!』という奇怪な日本語のウラに隠れている "政治的意味" を知りながら、「政府は・・・引き続き、地元の理解を求めてゆく方針です。・・」などと伝えるだけの日本の "大手メディア" には、既に民主社会に不可欠の "ジャーナリズム" としての能力も気概も存在しないと言わざるを得ない。
■2013年10月01日:6年前の9月27日
日本の報道カメラマン長井健司さんが、"ミャンマー" と称するビルマの軍事独裁政権の兵士に射殺されたのが、6年前の9月27日である。
「6周年」は日本のテレビでも若干報じられたようだが、「国境なき記者団 (Reporters Without Borders) 」のHPが、(現在の)ビルマ政府への強いメッセージを掲載している。
長井さんの "母国" であるはずの日本政府は、この件に関してはまったくやる気がない(ようにしか見えない)。また、日本の多くのメディアも、 "大きな可能性を秘めたミャンマービジネス" などと言ったことばかり報じていて、民主化についてはスーチーさんの動向だけで事足れりとしているようである。
しかしながら、記録映像も残っている「長井さん殺し」の犯人すら特定せず、辺境の少数民族への弾圧は依然として続いているというのも一方の現実である。アメリカが多くの国で犯してきた失敗と同じ "経済的にうま味が有れば、多少の独裁には目をつぶる" という道を、日本も進むのだろうか。
以下「国境なき記者団 (Reporters Without Borders) 」のHPより(意訳している)
今日は、6年前に日本の報道写真家長井健司さんが、軍事独裁下のラングーンで兵士に射殺された日である。
長井さんの死以降、軍部は権力を手放し、多くの改革が始まっているが、彼の殺人事件では未だ誰も処罰されていない。国境なき記者団はこの悲劇を忘れず、7月にThein Sein大統領に訴えたことを再び訴える。
「ビルマの大統領が7月にフランスを訪れた際、我々は1962年以来の報道機関に対する犯罪の責任から逃れようとする者と闘うための専門的な査問委員会を作るように彼に要求した」
「我々は、ジャーナリストに対して行われた多くの犯罪を認識する第一歩として、長井さん殺人事件の調査を要求する。また、我々は、兵士が彼の身体から奪ったカメラが彼の家族に返されることを保証すること、そのために可能なあらゆる手段を講じることを(ビルマ)政府に求める。」
「7月に Ye Htut情報大臣代理がパリの国境なき記者団本部を訪れた際、彼は政府がビルマの苦痛にあふれた過去を検証できる時期は未だ来ていないと言った。」
「それにもかかわらず、88世代学生グループによる、3,000人を超えるビルマ市民に対する流血の犯罪(25年前の8月8日、軍事政権による血まみれの弾圧)を認識することへの訴えは、全ての人々にとって過去を思い出すべきことが緊急の課題であることを証明した。」
「我々は、政府が過去2年に成し遂げた進歩を歓迎する。しかし、ジャーナリストに対する過去の犯罪を解明することへの明瞭な意志決定こそが、情報の自由の改善への努力が確実であることを保証するために必要である。」
日本の通信社APFのために働いていた長井さんは、2007年9月27日ラングーン通りのデモ隊の群衆の中で、カメラを手にしたまま兵士によって至近距離から射殺された。サフラン革命のさなかに。
ーー以下略ーー
国境なき記者団HP
■2010年06月22日:浜名湖ボート転覆事故
どうにも呆れた話である。
事故そのものではない、教員の誰一人として「注意報の発令」を知らなかったという件である。
「そんなことくらい、何よりも先に自分で調べて確認する」というのが野外活動を引率する者の最低限の常識ではないか。
今では野外活動に携帯が必須の道具であるのは常識で、大学生が持っている程度の携帯でも、ネットの気象通報ぐらい十分に確認できるのである。
彼等は、そのことを知らなかったのだろうか。あるいは生徒に持参を禁止するついでに自分たちも "持ってこなかった" のだろうか。それとも、持ってはいたが自分で調べようと思わなかったのだろうか。
もっとも、実は知っていたが活動を止めようとせずに傍観し、事故が起きたので保身のために「知らなかった」と言い張っているだけかも知れないのだが。
相変わらず、話の焦点をわざとのようにズラしつづける報道にもウンザリである。
事故そのものは、荒れる湖面でカッターをモーターボートで曳航していて転覆させたという単純なものである。転覆が曳航操作を含む運転上のミスが原因であれば業務上過失致死、最善を尽くしたことが確かなら不可抗力の災害ということである。この部分について責任は完全に「青年の家」側の担当者にあるのであり、最新の報道によれば、作業を行なった "所長" は曳航の経験が全く無かったというのだから、青年の家そのものの管理・運営に関する静岡県の責任も大きい。
引率教師の責任となるのは生徒の安全確認、特に「人数確認」なのだが、この点についての報道がまったくない。学校関係の事件に特有の実に不愉快な傾向なのだが、とにかく直接の担当者を隠して学校長が一人で謝りまくるという構図である。
当日現場に居て "一人足りない" ことに気付かなかったことは、しかも早急に発見していれば被害生徒はおそらく死なずに済んだということを考えれば、学校側の引率者の責任は極めて重大である。また、このような突発事態に対応する能力のない教員に引率させたとしたら、それこそが学校長の責任である。
全校集会の模様だの「子どもたちの心のケア」だのと紋切り型の後追い報道をステレオタイプな沈痛な表情で伝えるばかりで、上記のような「大人の社会的責任(刑事責任を含む)」の問題を放り出しているジャーナリズムとは何なんだろう。
もっとも、同じように沈痛な表情で「二度と起こして欲しくない」とか「再発防止策をしっかり」などという "市民の声" にはこれで合っているのかも知れない。徹底的に(鬼のように!)原因を解明し、関係する個人の責任を追及するすることを通じてしか有効な再発防止策など立てられない、というあたりまえのことが見えなくなっているのだから。
注意報発令、学校側知らず=「事故起きるまで」―ボート転覆
浜松市の浜名湖で18日、ボートが転覆して愛知県豊橋市立章南中学の生徒1人が死亡した事故で、豊橋市教育委員会と同校が20日夜、同市役所で記者会見し
た。事故当日の大雨や強風などの注意報について、市教委は「事故が起きるまで、校長や学校職員は発令の事実を知らなかった」と述べた。
市教委は事故後、ボート訓練を主催した「静岡県立三ケ日青年の家」(浜松市)に聞き取り調査をした。
調査結果によると、18日正午前、青年の家の事務所で、同校教諭が学年主任の指示を受け、青年の家のスタッフに、雨が降っている中で訓練可能か確認した。
スタッフは「このくらいの雨なら大丈夫。インターネットで注意報も出ていない」と答えたという。学年主任は教諭から話を聞き、校長に訓練は実施可能と伝え、校長が了承した。
青年の家の別のスタッフが正午すぎ、注意報を確認。事務所にいた青年の家の所長やスタッフに口頭で伝えたが、学校側の校長や職員は別の場所にいたため、伝わっていなかったとしている。
時事通信 6月20日23時59分
■2010年04月07日:乗用車火災事件で隠されていること
今月2日と4日に北海道厚沢部町と宮城県柴田町で乗用車が燃え、子供が焼死する事件があった。いずれも、車内にあったライターを子どもがいじっている内に出火したと推定されている。
なぜ車内にライターが放置されていたのか? 「喫煙者が使用する車だったから」に100%間違いない。
つまり、これも形を変えた「喫煙習慣の間接的被害」の一つなのであるが、とにかく異様なのは、マスコミ報道が必死にこの点に触れないようにしていることである。良く言うセリフの形を借りれば「ライターがひとりで勝手に車内に入った訳は無い」のであり、子どもを死に至らしめた主要な原因が、常時身近に(無神経に)発火物を置くという喫煙習慣そのものにあったことは疑問の余地がないのにである。
そんなに「タバコ企業」が怖いのか、それならまだましで、書いてる記者自身が喫煙者であるために「書きたくない」「問題が見えない」のだったら全く救いようが無い。
下記の読売の記事などはその究極と言える。
本文で、日本自動車研究所の研究員の「ライターなどの火元となるものとゴミなどの可燃物があれば、炎上する危険性は更に増す。車内にライターやゴミなどは置かないようにしてほしい」とのコメントを紹介しているのに、見出しではライターの件などまるで無かったことにして「車内に可燃物、一気に燃え上がる危険性」と言うのである。
車内に可燃物、一気に燃え上がる危険性
北海道厚沢部町と宮城県柴田町で今月2日と4日に起きた子供を乗せた乗用車の火災は、いずれも短時間で激しく炎上した。
最近の車は内装に燃えにくい素材が使われているが、研究機関の実験では、車内に可燃物があると一気に燃え上がるとの結果も出ており、専門家は「可燃物を車内に残さないでほしい」と注意を呼びかけている。
ーーー 中略 ーーー
車の安全対策を研究している日本自動車研究所(茨城県つくば市)の実験では、乗用車の運転席の灰皿に置いた小型の固形燃料にライターで火を付けたところ、2分でダッシュボード付近に燃え移り、15分で運転席から火柱が上がった。30分後には車全体が激しく燃え、60分で全焼した。
実験を担当した鈴木仁治主任研究員(62)は、「ライターなどの火元となるものとゴミなどの可燃物があれば、炎上する危険性は更に増す。車内にライターやゴミなどは置かないようにしてほしい」と話している。
読売新聞 4月7日15時57分
■2009年12月22日:トヨタ自動車という権力
これでは、値下げ要求に耐えられない部品メーカーや下請けは倒産・廃業に追い込まれ、生き残ろうとすれば解雇・雇い止めの嵐になることは間違いない。
それでも、どこのメディアも "トヨタさん" を批判することはできない。この共同の記事など、精一杯頑張ったものと言得るだろう。
部品コストを3割引き下げへ トヨタ、下請けに通知
トヨタ自動車が系列の部品メーカーに対し、自動車部品の調達価格を2013年までに3割引き下げる計画を通知したことが、22日明らかになった。国内外で新型車の低価格化を進めるのが狙い。車を買う人にとっては朗報だが、下請けや孫請けメーカーの経営を圧迫する要因になりそうだ。
今後発売するすべての新型車について、車台やエンジン、電装機器などを構成する幅広い部品の原価低減を図る。今後、個別の部品について価格や仕様を部品メーカーと協議し、トータルで3割の引き下げを目指す。
国内では今年、エコカー補助金など国の優遇策の効果で販売台数が持ち直した。トヨタはこのため「価格が20万〜30万円安くなれば、需要が喚起できる」(豊田章男社長)と分析、低価格化を目指す方針を示していた。
また中国やインドといった新興国でも低価格車を中心に需要が急増しているため、安くても利益が出る車の開発を打ち出す必要に迫られている。
ただ部品メーカーからはこれまでも「トヨタからの値下げ圧力が強い」との声が上がっており、関係企業にとって大きな負担になりそうだ。
2009/12/22 10:30 【共同通信】
■2009年10月28日:女性の社会進出、日本は75位
この国の「性差別状況」には、依然としてまったく改善の兆しが見えない。
世界経済フォーラムが発表する「男女格差指数」の国別比較を時事通信が報じているのだが、例によって「先進7カ国中で最下位」などと能天気な報道である。
そのことと、上位には北欧の小国が並んでいることを報じることによって、読者には「たいして重大な事態ではない」という印象を与える記事となっている。
しかし、下の表に示すように、日本は対象となったアジアの21カ国中10位であり、タイ、中国、ベトナムより下に位置するばかりか、アジア最高位のフィリピン(9位)からは遠く引き離されているのである。
このような、明らかに女性の人権が損なわれている状態を放置しながら、前政権は「美しい国」だの「国を愛する心」だのと偉そうに言っていたわけである。さて、新たな政府はどうするのだろうか。
とは言うものの、このことを「政府だけの責任」と見るのは正しくない。
「現実の仕事や生活で直接関係のある人々の中から、あなたが "尊敬する" 女性を挙げて下さい」という質問に、この国の男性の一体何割が母親以外の人物を複数挙げられるだろうか。
根は深いのである。
女性の社会進出、日本は75位=トップはアイスランド−世界経済フォーラム
【ニューヨーク時事】世界各国の政財界リーダーが集まる「ダボス会議」の主催で知られる世界経済フォーラムは27日、社会進出における性別格差の度合いを評価した「男女格差指数」を発表した。格差が最も小さいとされたのはアイスランドで、以下フィンランド、ノルウェー、スウェーデンと上位に北欧諸国が並んだ。日本は75位で、前年(98位)からは改善したものの、先進7カ国(G7)中で最下位だった。
日本の評価を項目別に見ると、「女性国会議員の数」が105位にとどまるなど、政治への参加度について評価が低かった。また、「高等教育への進学率」が 98位と、教育面での不平等が指摘されたほか、経済面でも「賃金格差」が99位、「就業率格差」が83位と低位だった。ただ、「女性幹部の登用」は6位にランクされた。
(時事通信 10月27日21時51分配信)
■2009年07月31日:推定有罪という病
この国の司法は、とんでもないことになっているようだ。
この事件の重大なところは、行われた場所が刑務所ではなく拘置所、被害者が受刑者=有罪確定者ではなく刑事被告人であったということである。
幼稚な犯行で被害者の身体に与えた影響は軽いなどとは言語道断である。懲罰の対象である受刑者(それでも法の定めに拠らない不当な人権侵害など許されないが)ならともかく、推定無罪の原則が適用される被告人に対して、どのような軽微な行為でも絶対に許されるものではない。
このような検察の判断は、まさに全ての被告人を有罪と決めつけ、裁判以前に罰してしまおうとする思想の具体的な表出と言わざるを得ない。
また、地検がこのような暴走を始められるような雰囲気、土壌が、近年急激に台頭してきていることも確かである。それは明らかに、マス・メディアが誘導し、多くの大衆が追随する "犯人探し" 、 "決めつけ" 、そして異常な "厳罰=死刑要求" という一連の流れである。
トイレの水で安眠妨害の看守を不起訴処分に 大阪地検
大阪拘置所(大阪市都島区)の看守が一晩に40回以上も水洗トイレの水を流して刑事被告人の睡眠を妨害した事件で、大阪地検は30日、特別公務員暴行陵虐容疑で書類送検されていた29歳と25歳の男性看守2人を不起訴処分(起訴猶予)にした。
理由について地検は「幼稚な犯行で被害者の身体に与えた影響は軽い」などとしている。
2人は今月10日、書類送検されるとともに減給100分の20(3カ月)と減給100分の10(1カ月)の懲戒処分を受けていた。
(産経新聞:7月30日20時33分配信 )
■2009年04月10日:千葉県知事選における森田健作氏の勝利
少し古い話だが、森田健作氏が千葉県知事に当選したことに関連して、「小沢一郎ー西松建設」問題の影響が民主党が推す候補の得票を減らし、結果的に森田氏の当選につながった、というような主旨の発言や報道を見た。
馬鹿げた話である。それに、千葉県民や森田氏に対して失礼千万でもある。
あの選挙は、単純明快に森田氏が勝ち、民主党が推した吉田候補が敗れた、すなわち千葉県民が森田氏を選んだというだけのことである。
民主党代表にして最も古い自民党的体質をもつ政治家を巡って起きたスキャンダルは、この選挙に影響を及ぼしてなどいない。
では、なぜ吉田候補は支持を得られなかったのか。候補乱立、出遅れなどもあったであろうが、最大の問題は両者の政策の根本的な違いにあったと考える。
吉田候補の唯一最大の主張は「企業経営的センスの県政への導入」であった。
しかし、今全国を覆っているのは小泉改革という "何でも民営化" 、 "弱肉強食的市場原理主義" がもたらした荒廃と格差である。
同じ時期に、千葉県の伝統ある主要都市の一つの銚子市では、「財政改革」のために市立病院を閉鎖しようとした市長に対して、市民の健康と福祉を守れとしてリコール運動が起きていた。
国民は、財政健全化というスローガンのもとで "最も弱い人々" に何が起きたのか、そこで企業がどのように行動したのかを知ってしまったのである。
官僚や "企業人" にはもう期待できない、期待したくないと思った千葉県民が、普通の市民の感覚に近い (言わば素人っぽい) 森田氏の主張を受け入れ、期待したいと考えた結果と見るべきであろう。
■2009年04月04日:ロケット・ミサイル・飛翔体!
NHKはまるで「空襲警報発令中」状態。
「ミサイル」騒ぎが批判されたものだから「飛翔体」という意味不明の呼び方を始めた。ほとんど「空飛ぶ円盤」だな! 世界は単に「ロケット」と呼んでいるのに。
国民によく知らさぬままに、莫大な費用をかけて "整備" した Em-Net (エムネット) の宣伝も兼ねているようだが、早速 "誤報" を流している。 "誤探知" などと強弁しているようだが、アメリカの軍事衛星の精度から考えて信じ難い。 Em-Net の最終発信は "ボタンを手で押す" ものだからね・・・本当はどうだったのか。
もう一つ、 MD(ミサイル防衛) システムによる "迎撃" は、きちんとこちらに向かって飛んでくるミサイルを比較的低高度で撃ち落とすものであって、高高度のロケットには届かない。まして、事故で壊れたロケットの破片 (予測不能) の迎撃など絶対不可能なのだから、 "配備" は単なるデモンストレーション。
人工衛星打ち上げロケットと長距離弾道ミサイルは、頭に載せるモノと誘導する方向が違うだけで "基本的には全く同じもの" だ、ということをきちんと説明しないから話が変になる。諸外国は、北朝鮮がロケット技術を "誇示する" ことを批判し、止めさせようとしているのであって、その意味で科学技術と政治の問題に過ぎない。
技術的状況で言えば当然日本の方が上なのであって、弾道ミサイルなど "いつでも発射できる" のだが、世界は日本が他国を攻撃しない (と憲法で規定している) こと、その技術をアブナイ国に輸出しない (ことになっている) ことを政治的に認めているから何も言わないだけ。
それをそっくり "外敵襲来" の話にすり替えて、「官邸危機管理センター」などと騒ぎ立て、国民の不安感と北朝鮮に対する反感を煽り立て、ついでに自衛隊の "存在価値" も刷り込もうとする、相変わらずの (霞が関的) 巧妙さである。
冷静な意見を言う政治家が首相官邸周辺に不在で、でっち上げの "国家的危機" に酔った妙な高揚感ばかりが伝わってくる。本当に情けない風景だが、その意のままに「空襲警報」を発信しつづけるNHKの醜悪さも際立つ。
麻生政権・自民党は今回の「人工衛星騒ぎ」をまさに "神風" だと思ったかもしれないが、ここまでの経過を見ていると、国民の (良い意味での) 平和ボケと、身の回り数メートルしか見ようとしない体質の徹底のために、妙なパニックや流言蜚語が生じていないのが皮肉である。
ただ、 KORIAN 系の人々に対する嫌がらせや襲撃を生き甲斐にしている "差別主義者" たちに、また格好の "口実" を与えるのだろうと考えると、一層うんざりする。