人類・民族・差別_1
( Quora アーカイブ 2018〜2020)
2020年09月11日:日本人が黒人に陸上競技で勝つことは可能? |
2020年08月30日:最も不遇されている民族は何民族ですか? |
2020年06月24日:日本にアイヌ以外に少数民族はいますか? |
2020年06月23日:民族自決でよくなった面にはどのような? |
2020年06月23日:あなたが採用している”民族の定義”は? |
2019年07月02日:大陸の血がない純粋な日本人っている? |
2018年06月30日:なぜ日本人は白人以外の外国人を差別する? |
2018年06月24日:人類学と民俗学の間はどのような関係? |
2018年06月17日:アインシュタインは人種差別主義者? |
2018年06月04日:在日コリアンを腫れ物扱いする日本人? |
2018年05月06日:特別永住者、継続すべき理由が有るの? |
2018年03月28日:日本人として、中国の若者をどう思いますか? |
2018年03月24日:文化人類学者は自分でフィールドワークが必須? |
■2020年09月11日:
Q:日本人がアフリカ系のランナーに陸上競技で勝つことは可能ですか?
<回答時の元の質問:日本人が黒人に陸上競技で勝つことは可能ですか?>
はっきり申し上げて極めて不適切かつ不快な質問です。
逆に質問しますが、日本選手権で男子100メートルのサニブラウン選手や女子長距離の高松ムセンビ選手が優勝した場合、あなたは勝ったのが「日本人」ではなくて「黒人」だとでも言うつもりなのですか?
サニブラウンも高松もバスケの八村塁も皆れっきとした「日本人」であり、かつアメリカ社会での(差別的)j区分に従えば明らかに「黒人」です。
■2020年08月30日:
Q:最も不遇されている民族は何民族ですか?
不遇な状態に置かれている民族は多数あります。
そのほとんどは、人口的・政治経済的に優位に立つ民族が権力を握る国家の中で少数民族という位置に置かれ、差別的な扱いを受けている人々、あるいは、先進国によって居住地域が多くの国の領土に分割されてしまって、自らが主権をもつ国家をもつことができなくなってしまった人々です。日本でよく知られる例としては、ミャンマーにおけるロヒンギャ民族の人々が前者であり、クルド民族の人々が後者の典型です。
ロヒンギャ民族は、ミャンマー政府が「国民として認めない」という異常な対応をしてきたこと、70万人にも達する人々が隣国のバングラデシュに逃げ出したことで世界的に注目されましたが、もっと少ない人口規模であったり、政府の締め付けが厳しかったりして、差別的な状況を外部に伝えることができない民族も少なくないと見るべきです。多数民族が権力を握る政府が、少数民族集団を「国民として "平等" に扱う」ということが、見方を変えれば強引な「同化政策」になる、といった矛盾もあります。また、そういったことについての国外からの批判に対しても「内政干渉」と反論する余地があるなど、難しい問題が多いのです。
クルド民族は相当の規模をもち、もともと彼らがクルディスタンと呼ぶ地域に住んでいたのですが、そこがトルコ・イラク・イラン・アルメニアに分割されてしまい、さらに多くが住むトルコとイラクで弾圧されてきたため、難民となって世界に流出しています。現在世界の先進国の多くがクルド難民は無条件に難民認定して受け入れているのですが、日本政府だけは「友好国」トルコの独裁政権に義理立てしてトルコ系のクルド人の難民申請は全て却下するという異常な状況になっています。
■2020年06月24日:
Q:日本にアイヌ以外に少数民族はいますか?
「民族」の幅をどのように決めるかによって変わってきます。
例えば、沖縄の伝統的なことばと青森県津軽地方のそれとの隔たりは、スペインとポルトガルの言語の差より大きいという見方もあるくらいで、元々の沖縄の人々を「琉球民族」と呼ぶことも可能です。つまり、圧倒的多数のヤマト(日本)民族の他に、アイヌ民族と琉球民族がいるということも言えるのです。
また、「少数民族」はあくまでも「数」の問題であって「先住民族」の意味ではなく、また国籍の有無とは関係なく「定住」していることが条件です。したがって、いわゆる在日コリアン、在日華人を始め、一時期より減ってしまいましたがブラジル・ペルー出身者も当然該当します。
重要なのは、「○○民族」あるいは「○○人」という共通の自己認識(アイデンティティ)をもって、多数派の民族の間で定住している人々が一定数居るかどうか、ということです。
■2020年06月23日:
Q:民族自決権は世界を混沌に導きより多くの血が流れる原因になっているような気がしますが、逆に民族自決のおかげでよくなった面にはどのようなものがありますか?
「民族自決思想」そのものが "血を流す" 原因になったわけではなく、混沌と流血の原因は「多様性への忌避意識」です。ヨーロッパの多くの国は現実に多民族国家 ですが、国家政策として「民族浄化」を行おうとしたのはナチス・ドイツと旧ユーゴスラビアの一部の国だけです。
旧ユーゴとは反対に、地域で多数を占める民族の意思によって平和的に二つの国家に分離・独立したのが、チェコとスロバキアですが、互いに少数派となったスロバキア人とチェコ人を排除などしていません。
民族自決的な「独立戦争」の結果が明らかにプラスとなっている例としてはバングラデシュがあります。独立以前は東パキスタンとしてインドを超えた西側にあるパシュトゥーン民族主体の西パキスタンの政権の支配を受け、彼らの言語であるウルドゥ語を公用語として強制されていました。しかし、現在のバングラデシュ地域の住民の圧倒的多数はベンガル語を母語とするベンガル民族であり、独立することによって自らの言語と文化をとりもどすことができ、国名も「ベンガル人の国」とすることができたからです。
民族について屡々「宗教や言語で束ねられる集団」という言い方をしますが、そのことが劇的な形で現れたのがインド・パキスタン・バングラデシュの関係と言えます。元々英国の植民地だった大インドが独立する際、ヒンズー教のインドとイスラム教のパキスタンと「宗教」によって分裂、そのパキスタンがウルドゥ語とベンガル語という「言語」によって分裂したのです。一方でインドはそのまま多民族・多言語の巨大国家として今日に至っています。
■2020年06月23日:
Q:あなたが採用している”民族の定義”はどのようなものですか?
現代では、「民族」はそれぞれの個人の自己同定(アイデンティティ)の一部であり、誰かが他者をカテゴライズしたり「分類」したりするような概念ではない、と考えます。
つまり、「私は○○民族の一人だ」というのが全てであって、「あいつは(彼らは)○○民族だ(○○民族じゃない)」などというのは、要するにレイシズムにすぎないということ。
■2019年07月02日:
Q:大陸の血がない純粋な日本人っているのでしょうか?
いません。
そもそも現生人類が「アフリカ起源」であることはすでに確定しているのですから、「純粋の」などと言い始めたら「日本人はホモ・サピエンスではない」というとんでも学説になってしまいます。
アフリカで誕生した後に、人類の分布がどのように世界に拡がり、どのような経路を辿って現在の日本列島に到達・定住したか、という詳細については未だ確定していません。ただ、分子人類学の研究成果、考古学的研究などから、おおよそ4つの系統から来たことは推定されていて、未確定なのはその割合・時期をどう見るか、といった段階まで来ています。重要なことは、人類の大移動・拡散があった頃、日本列島は大陸と「地続き」であったことで、我々の最初の先祖は「歩いて渡って来る」ことができたのです。もちろん、その後に「舟で来た」人々もいたでしょうが。
その4系統・ルートとは、
北東アジアー東シベリアーサハリンー北海道ー東北
北東アジアー朝鮮半島東部ー日本海沿岸
北東アジアー朝鮮半島南部ー北九州
東アジアー台湾ー琉球列島ー南九州
以上、いずれにしても「大陸の血がない純粋な日本人」などという概念自体不可能です。
■2018年06月30日:
Q:なぜ日本人は白人以外の外国人に対して、差別するのですか?アジア人としての経験からは、特に高齢者から軽蔑的に睨まれることが多いです。
本当に残念で悲しいことですが、そのような日本人が居る(少なくない)ことは事実です。ただ、決してそれが日本人の「全部」でも「圧倒的多数」でもない、ということも是非信じていただきたいです。
そのような(差別的な)言動の「理由」ですが、大きく3つ考えられます。
一つ目は「いわゆる白人に対する劣等感の裏返し」です。大昔の「脱亜入欧」思想が未だにしみ込んでいるのかもしれません。自分の心の中にある劣等感から解放されたくて、自分達と似た "別の人々" を見下そうとするのです。欧米風の "芸名" を名乗り、整形手術までして「欧米ルーツ」を偽造することで、ニュースキャスターの職を得かけた人物が居ました。(悲しい)彼本人よりも、経歴や実績・能力をきちんと調べもせずにその嘘に飛びついた放送局の方が、実はそのような劣等感の虜だったのだと思います。
二つ目は、「自分自身がアジア人であることを忘れるという錯覚」です。高度経済成長の結果「アジアで唯一の先進国」「既に欧米諸国と対等」と自信を持つまでは良かったのですが、そのまま自分自身を(無意識に)欧米側に置いて物事を見る・考えるという奇妙な癖がついたことです。近年、黒髪の魅力や中国・韓国の美しいタレントに対して、わざわざ「アジアン・ビューティー」などと呼ぶあたりにもそれが窺えます。そして「白人になった "気分" 」で、有色の人々を差別するのです。「パリの街角で、ショーウィンドーに映ったチビの東洋人が自分だったと気付いてショックを受けた」というエッセイも記憶にあります。
三つ目は、近年特に中国・韓国系の人々に対する偏見・差別の原因となっている「後ろめたさと居直り」です。この両国とかつての大日本帝国との歴史的経緯は、世界に広く知られていることなので省略しますが、政治家による歴史修正主義的な発言に極右系の人々が合流、さらにネットで拡散と、歴史を直視するのではなく、居直るためのプロパガンダが続いています。ここまでの経過を(日本側の報道だけでも)詳細に見れば、殆どが「日本側からの(無用な)挑発ー相手国の反発」という繰り返しであることが明らかなのですが、日本人の多くが「相手国から "因縁" 付けられた」と思い込まされているのです。また、マイノリティ差別の典型ですが、犯罪が起きるたびに犯人は彼等だとするデマを執拗に流す、作家まで居るのです。
■2018年06月24日:
Q:人類学と民俗学の間にはどのような関係性がありますか?
「XX学」というのは、研究対象に対するアプローチの方向や主として用いる手法によって付けられている名称・区分であって、固定した「境界線」をもつ独立した存在ではありません。
例えば、地域に伝わる伝承とそれを中心に行われる年中行事、そのための住民組織、といったものを研究する分野としては、民俗学、社会(文化)人類学、社会(文化)地理学、地域社会学、宗教社会学など、多岐にわたります。つまり、同じことがらを対象としているが、調査・研究の視点・方法は少しづつ異なるからです。また、千葉徳爾氏のように、これらの複数の分野の研究手法を身に付け、分野を超えて優れた業績を上げた研究者も存在します。
学問としての性格の違いを強いて挙げるとすれば、社会(文化)人類学の研究目的が「人類の社会・文化の “普遍的” な構造」を明らかにすることであるのに対して、民俗学のそれが「個々の人類集団の文化の個性・独自性」を捉えることにある、という点でしょう。
学問ではなく、民俗学者と文化人類学者との「関係性」ということであれば、競走することも協力することもあり、互いに議論するのは楽しい、と言ったところです。
千葉徳爾 - Wikipedia
■2018年06月17日:
Q:アインシュタインの日記が出版され、その中である民族のことを酷評していて差別主義者だとの批判が起こっています。アインシュタインは人種差別主義者として非難されるべきだと思いますか?
現代の基準で見れば「人種差別傾向のある人物」であったと言えるでしょう。ただし、彼が改めて時代を遡って非難・弾劾されるべきだ、いう意見には同意しません。
それは第一に、同時代の西欧においては "普通に" 東洋人を蔑視、劣等視することが横行していたからです。彼だけが「遡って罰する」対象とされるべき特別な理由は無いと思います。
第二に、彼は人間や社会について高度な知見や思想を極めた訳でもなく、その分野で指導的な立場にいたのでもない、 "単なる物理学者" の一人に過ぎないからです。特定の分野で大きな業績を挙げたからといって、その人物が「全人格的に尊敬に値する」ことまで期待するべきではないと考えます。
■2018年06月04日:
Q:在日コリアンに対して、腫れ物に触るように接する日本人が居る理由を教えてください。
まず、実際に「腫れ物に触るように接している日本人」と、「 "腫れ物に触るように接している日本人が居る" と主張する日本人」の、どちらが多いのかという疑問があります。
過去に歴史的な経緯をもつ民族や国籍の相手と接していれば、一定の「敏感な話題」は必ずあるものです。例えば、中国人との間では南京事件やチベット問題などがあり、アメリカ人との間でも、真珠湾攻撃や原爆投下の正当性、ロシア人との間ではシベリア抑留や北方領土問題があります。そして、韓国人との間にある竹島や慰安婦の問題も同様です。
それらとは全く異なる文脈で「腫れ物に触る」対象とされる在日コリアンについては、別のよく似た事例が思い出されます。それは部落解放同盟など被差別部落に関係する運動団体、かつての障害者団体など、マイノリティの権利を主張する団体に対するものです。つまり、そこにあるのは、基本的な知識の欠如による差別意識、一部の暴発的な行動を一般化して反社会的集団とする決め付け、直接の接触・交流が無いことから来る異物視や恐怖、そういった偏見を元に創作・拡散されるデマ、それらを取り込むことによってさらに増幅される敵意・憎悪、といった不毛なサイクルです。
意見が対立しようが気まずい話題があろうが、普通に接していれば何の問題もない人々について、「腫れ物に触るように接する」のは差別です。それ以上に「 "腫れ物に触るように接している日本人" が居る」と主張するのは、屈折したヘイトクライムそのものです。
■2018年05月06日:
Q:特別永住者は、朝鮮戦争による難民救済の面があったと思います。 今後正式に停戦合意がなされた場合、この救済処置は撤廃されるべきだと思いますが、他に継続すべき理由が有るのでしょうか?
「特別永住者」とは質問のような制度ではありません。前提となる事実認識が間違っています。
「特別永住者」とは、1945年9月2日の降伏文書調印日以前に「大日本帝国臣民」として日本国内に在住していた朝鮮半島、台湾、南洋諸島などの出身者およびその子孫で、1952年の講和条約発効後も引き続き日本国内に残留することを選んだ人々とその子孫に与えられた身分です。入国管理上は、新規に来日したのではなく、国民として定住している途中で本人の意志によらず国籍を失うこととなった人々として、特別に「平和条約国籍離脱者」と定義されます。朝鮮半島出身者の場合、そのまま無国籍の状態にある人々が「在日朝鮮人」、現在の韓国の国籍を回復または取得した人々が「在日韓国人」と呼ばれます。
ただ、1945年から52年までの米軍占領期間中の入国管理は法制上も運用上も曖昧な部分がありました。一方朝鮮半島では48年の済州島四三事件や朝鮮戦争の始まりなど混乱が続き、建国したばかりの韓国政府の出入国管理も機能せず、この期間に一度帰国したものの再来日した人々、朝鮮戦争を避けて在日の親戚等を頼って来日した人々などもありましたが、元々日本国内に止まっていた人々に比べれば少数であり、講和条約発効の時点でそれらの人々も含むこととされました。このことをもって、在日韓国人が全て戦後の密入国者であるかのように言う人々が居ますが、それは悪意の嘘です。
以上のように、「特別永住者」とは原則としてそれまで(強制的に)日本国民としていたという「歴史的経緯」と、現実に定住していたという「人道上の責任」に基づく身分であり、朝鮮半島出身者が多数を占めるものの全部ではありません。言うまでもなく、朝鮮戦争による「難民」でも「救済措置」でもなく、まして南北停戦となったから「撤廃するべきもの」などではありません。
「継続すべき理由があるのか?」など、一部のレイシスト的なデマに流されないで下さい。
■2018年03月28日:
Q:日本人として、中国の若者をどう思いますか?中国の若者の多くは、日本が好きで、日本の文化について知りたいと考えています。新世代の若者たちは学習が大好きで、日本には学ぶべきことがたくさんあると信じています。中国の大学生として、今後の日中関係をとても心配しています。日本人が中国との関係をどのように捉えているか知りたいです。
私が教員時代に接した多数の中国からの留学生のほとんどは、とても真面目で優秀でした。そしてその多くが今も日本に定住して、日本社会の欠かせない一員となってくれています。
日本人の一部には、中国や中国人に根拠のない反感をもち、そのことをネットなどで拡散する、あるいはいわゆる反中・嫌中本を出版するような人々が居ます。また、それらの人々のプロパガンダに簡単に乗せられる人々も、残念ながら一定数存在します。
もちろん、そのような偏見や差別意識をもつ人々の意識を変えるために、私や私の仲間たちは努力を続けていきます。それに加えて、中国の若者に期待するのは、ぜひ日本に来て、若者同士で、あるいは近隣の人々と交流してくれることです。一人でも「中国から来た友人・知人」をもつようになれば、そんなプロパガンダは力を失うからです。
国家間の関係、特に経済面においては、中国はもう既に日本にとって最も重要なパートナーとなっています。それにも関わらず現在の日本政府のトップには、上記のような歪んだ世界観の影響を強く受ける人々が居て、国内の矛盾やストレスを近隣諸国への警戒心や敵対意識にすり替えて権力の安定を図る、といった傾向がみられます。この問題は、私たち日本人自身が解決しなくてはならないので、まだまだ努力しなくてはなりません。
■2018年03月24日:
Q:文化人類学者は自分でフィールドワークをすることが必須なのですか?他の研究者の調査結果を元に理論化することに特化している、「理論文化人類学者」とでも呼ぶべき人はいるのですか?
文化人類学の世界でも、全ての研究論文や著書が必ず自身によるフィールドワークと「直結」している訳ではありません。自身の複数の調査結果や他の研究者の成果、現地から入手した情報などを合わせて考察・理論化する研究も当然あります。
例えば、第二次大戦中に執筆され1946年に発表された「菊と刀」(ルース・ベネディクト)は優れた日本文化論として高く評価されていますが、彼女はこの研究に当って日本を訪問していません。ただ、ベネディクトはそれ以前にネイティブ・アメリカンに関するフィールドワークで一定の評価を得ていた研究者ではあります。
他にも、若い頃にフィールドワークを重ね、晩年にはそれらを元に理論的あるいは思想的な論文の執筆に専念した研究者は少なくありません。このことは、研究人生のある段階において「理論的著作」を中心とすることは当然あり得るが、「フィールドワークを "全く" 経験していない研究者」がいきなり理論だけの著作を書いたとして、(文化人類学の研究として)評価されるかどうかは疑問であり、まして「理論文化人類学者」などと呼ばれるようなことは無いのではないかということです。
ただ、広く「文化研究」と考えれば、文化人類学に限らず、地理学、社会学、社会言語学など様々な分野の研究者が取り組んでいるので、その研究で導き出された「考察」や「理論」が、多くの人々が認める説得力を持つものであれば、「何学か?」などという問題を超えて評価はされると思います。例えば、元は農業経済学者であった新渡戸稲造の「武士道」のように。