歴史・考古

( Quora アーカイブ 2018〜2019)


 

2019年01月28日:江戸時代日本が鎖国してなかったという主張は?

2018年06月24日:3大ピラミッド、なぜ国の端っこのギザに建造?

2018年06月21日:1973年の生活はどんな感じでしたか?

2018年05月14日:モンゴル帝国が世界征服をやめたのはなぜ?

2018年04月29日:ロシアやアメリカが征服した土地は独立しない?

2018年04月17日:日本と中国の関係性で一番の問題点は?

2018年04月09日:原始社会、人々はどうやって巨大な石を移動?

2018年04月03日:南京の虐殺について日本人はどう思うか?


 
 
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 ■2019年01月28日:

Q:江戸時代に日本が鎖国していなかったという主張は、どのような理由からですか?

 「主張」と言うより、歴史学関係では一般的な認識になってきていると思います。まず、実際に実施された命令は「日本人の海外渡航の禁止」と「西欧からの図書(蛮書)の輸入・所持の禁止」、国内的なキリスト教の禁教令とそれにともなう「宣教師・布教活動の可能性のある信徒の入国禁止」でした。逆に言えば、キリスト教布教とは関係のない外国人の入国は禁止しておらず、結果的に非カソリック教国の人々に限られることとなりました。
 長崎や出島を鎖国の象徴のように言うことがありますが、海外との交流窓口(開港場)や外国人の居留地を限定することは当時ではごく普通のことでした。また「中国(明)とオランダのみ」とする記述を見ることがあります。確かに公認の「商館」はオランダと明国のものしかなかったのですが、有名なシーボルトが実はドイツ人であったことは直接交流のあった人々には周知の事実であったようですし、幕末に武器商人として活躍し、屋敷を構えていたグラバーはイギリス人でしたから、これも正しくありません。
 つまり、実態は鎖国ではなく当時の国民(日本人)に対する「禁足令」であったと言うべきです。ただし、これも初期には厳しく実行されていましたが幕末には緩んでいたようです。船が難破してカムチャツカ方面に漂着した船乗りは少なくないのですが、初期のゴンザ等がロシアに骨を埋めたのに対して、幕末に近い時期の大黒屋光太夫は無事に帰国しています。
 ロシアを横断してサンクトペテルブルクまで行き、ロシア皇帝の親書を持って帰国した大黒屋光太夫の事例は、小説や映画でも知られています。帰国後の光太夫は、表向き江戸城内に建てられた小家屋に終身幽閉されていたことになっているものの、実際は自由に外出が許され、江戸の商家などに招かれて自身の「漂流譚」を語っていたことが判っています。
 西欧からの図書(蛮書)の輸入も当初は厳しく禁止されていましたが、八代将軍徳川吉宗がこれを改め、キリスト教関係を除いてその他の書物の輸入・所持を許すと改めました。ここからいわゆる「蘭学」の隆盛が始まり、「解体新書」の翻訳や、天文測量を学んだ伊能忠敬らによる全国測量に繋がったのです。
 「鎖国」という言葉も含めて、江戸時代を暗黒時代のように印象付ける記述には、クーデターによって権力を掌握したいわゆる明治新政府による「勝者の視点からの歴史」の影響が残っているようです。


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 ■2018年06月24日:

Q:3大ピラミッドは、なぜギザという国の中でも端っこに建造したのでしょうか? かつては地中海に沈んでたという地域と昨日のBSテレビ朝日「地球大紀行」で立地条件として話題にしました。また巨石を削るための道具の金属を発掘運搬する場所からしても、もっと南方面にしても良かったと考えます。地理的環境か人的条件か金が採取しやすかったとか?

 リクエストありがとうございます。ただ、エジプト考古学は素人ですので専門の方の回答に期待し、私の専門から言えることだけを書きます。
 ナイル川下流の平野(ナイル・デルタ)は、古代エジプト文明の時代以前には海(入江)であったはずです。それが、気候変化にともなう海面変動と、ナイル川の運ぶ土砂の堆積によって次第に陸地を形成、北(下流)に向かって平野が拡がって行ったと考えられます。したがって、紀元前5000年ごろは現在のギザは「海」であったと思われますが、同じくBC2500年ごろには丁度ナイル川の河口に近い場所であった可能性があります。また当時の王朝の都であったメンフィスにも近く、王朝が東北のシナイ半島、パレスチナ方面への進出も意図していたとすれば、立地点として不自然ではないと考えます。


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 ■2018年06月21日:

Q:1973年の生活はどんな感じでしたか?

 少し視点を変えて、当時の「仕事」を振り返ります。
 シンクタンク・ブームと囃され、財閥グループなどが一斉に「の・ようなもの」を創業していました。私が在籍していた企業もその一つで、シンクタンクと称しながら "とりあえず" システム開発と(受託)情報処理で足場を固める、という戦略でした。私は仕方なく FORTRAN を使って地形の解析や測量データの地図化、統計地図の作成などを行っていたのですが、環境は今とはまったく異なっていました。
 まずパーソナル・コンピュータというものは未だ存在しませんでした。プログラムやデータは全て紙のカードに孔を開ける「IBM80欄カード」(1枚1行分で80桁まで記録可能)に記録し、大型コンピュータに読み込ませてバッチ処理していました。例えば4000件のデータであればカード4000枚であり、運ぶのも大ごとでした。
 "大型" コンピュータと言っても、現在の少し高級なパソコンと変わらない程度の性能だったのですが、モノは実際に巨大で、ビルの地下全体を占拠して24時間強烈な冷房が稼働していました。数年後には、別室の端末から自分で「カードを読ませる」ことが可能になりましたが、73年当時は専門のオペレータに託して処理して貰うシステムで、処理が立て込んでくるとオペレータも大変で、気を遣ったものです。
 処理結果も「ライン・プリンタ」と呼ぶ高速のキャラクター・プリンタ(1行136文字)で打ち出していました。この文字(英数字)だけを上手く組み合わせ、重ね打ちなどさせて「モナリザ」等の絵を描くのが流行っていたのもこの頃です。


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 ■2018年05月14日:

Q:モンゴル帝国が世界征服をやめたのはなぜですか?

 モンゴル帝国は、近代的な意味での「世界征服」を目指していた訳ではありません。また、支配地域の拡大は「止めた」のではなく、帝国自体が「解体」した結果、言わば雲散霧消したものです。
 モンゴル帝国や支配者ハーン達は、近代的な意味で「世界」を認識していたのでも、計画的に征服しようとしていたのでもないようです。騎馬軍団による襲撃と略奪を繰り返しながら、次々と版図を拡げて行った結果として、広大な地域を一時的に支配下に置いただけだったと見るべきです。
 また、彼等自身が遊牧民であって明確な領土概念を持たず、本来の人口も決して多くなかったため、狭義のモンゴル地域以外では、定期的に収奪を行う以外は放任状態で、彼等が認めた現地の有力者に統治は任されていたようです。
 それでも時代が下がると、より実質的な支配の確立を目指して、ハーンの直系親族や高官を地域ごとの支配者として配置しますが、それらの人々の多くが現地勢力に倒されたり、現地に溶け込んでしまって次第に独立性を強め、帝国としては解体に向かって行きました。
 例えば、高校の世界史でキプチャク・ハン国とされる地域は、最大時バルト三国からハンガリー、ボルガ川流域の南ロシアまで及びますが、やがて北部はヨーロッパ人が奪還し、南部はジョチ・ウルスという名前で次第に現地化がすすみ、チュルク系と混交してイスラム化、カザン・ハン国となり、最後はロシア大公国に吸収されます。今年のサッカー、ワールドカップの開催地である、ロシア連邦タタルスタン共和国の首都カザンの名前はその名残です。おそらく、開会式のアトラクションに、モンゴルを想起させるようなパフォーマンスも行われると思います。


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 ■2018年04月29日:

Q:英仏などの植民地の殆どは独立や民族自決を果たしましたが、ロシアやアメリカが征服した土地では独立が少ないのはどんな原因が考えられますか?

 英仏などの植民地の殆どが独立や民族自決を果たした最も単純な理由は、「陸続きでなかった」ことと「一定の面積・人口をもっていた」ことです。ですから、両国の植民地でも小規模なものは、現在も海外領土や政治的支配下にある自治領として残っています。
 アメリカの場合も同様で、1899年から48年間植民地であったフィリピンは独立していますが、グアムや米領サモアはそのままです。人口約370万人のプエルトリコは今でもアメリカ領ですが、米本土に近く経済的な結びつきが強いこともあって、将来州昇格を目指すことはあっても独立という可能性は低いようです。また、アメリカ本土そのものが元々「植民地が独立した国」であり、移民人口の増加とともに隣接する地域を併合して行ったという歴史があります。国名も直訳すれば「アメリカ諸国連合国」です。
 ロシアの場合は、旧ロシア帝国ーソビエト連邦時代にユーラシア大陸の広い範囲を支配下に置きましたが、飛び離れた海外領土は獲得していません。ソビエト連邦崩壊の結果、バルト三国を始めウクライナ、ベラルーシ、モルドバやコーカサス諸国、中央アジア諸国の各連邦内共和国が「独立」しましたが、元々形式的には独立国であったため、いわゆる植民地の独立とは性格が異なります。後継のロシアも、チェチェンなどの独立闘争が起きた地域があるものの、一応少数民族の自治を認めた型式をとっている「連邦国家」です。
 ですから、陸続きであって住民の移動が多く、経済的な結びつきも強く、一定の自治権が認められていて、特別の弾圧・差別や宗教的対立が無い場合には「独立」を求めるとは限らない、ということです。


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 ■2018年04月17日:

Q:日本と中国の関係性を考える上で、一番の問題点は何だと思いますか?

 私は日本在住の日本人ですので、ここで書くことができるのは「日本側の問題点」に限られます。中国側については中国の方あるいは中国在住の日本人に期待します。
 今の日本(国内)での1番の問題点は、国民の「対中国(人)意識」の歪みだと思います。ただそれは、さほど根の深いものではなく、主として21世紀に入ってからの政府と一部マスコミによる「ネガティブ・キャンペーン」の影響というか "効果" と言うべきものです。
 その背景と内容は大きく2つに区分されます。一つは、かつての大日本帝国がアジアにおいて行ったことを全て正当化する「歴史修正主義的な主張」を掲げる団体の勢力が拡大して、政府やメディアに影響力を持つようになったことです。彼等は敢えて中国や韓国を刺激するような活動や主張を繰り返し、それに対する批判や反発を「反日」として誇大にとりあげ国民を煽るのです。もう一つは、様々な課題に直面、矛盾を露呈している国内政治の混乱から国民の目を背けさせ権力基盤を固めるために、仮想敵国として中国をイメージさせて「安全保障上の危機」と国民を煽るものです。
 似たようなことはヨーロッパの国々でも起きていて日本固有の現象ではないのですが、現在も執拗に続けられている点が心配です。


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 ■2018年04月09日:

Q:原始社会において、人々はどうやって巨大な石の塊を移動したのでしょう?

 「原始社会」で巨大な石を移動したという話は聞いたことがありません。
 古代社会に入ると、明らかに「巨石文明」と言えるものが登場しますので、その範囲で回答します。違っていたら許してください。
 古代社会で巨大な石を移動させる・運ぶ際には、木材と土と水を利用したと考えられています。
 木材は「梃子(てこ)」の原理で力を加えるのに使うのと、「ころ(もっとも素朴なローラーベアリング)」として移動の摩擦の軽減に使われました。
 土は、巨石の上に巨石を乗せる場合、下の石に接続して長い盛り土のスロープを築き、その斜面を伝って上の石を引き上げ、後でその盛り土を撤去するという使い方と、逆に地面に穴を掘って巨石を沈め、後からさらに周囲を掘り広げて造形する、といった使い方があったようです。
 水というのは、日本の大阪城などの築造で巨大な石を筏に乗せて海から川へと運んだことが記録されています。同じ方法が世界各地で相当古くから行われていたと考えられます。
 いずれも、エジプトなどに残る壁画や、発掘結果(途中まで運んで失敗したらしい跡などが発見されている)からの推論です。


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 ■2018年04月03日:

Q:南京の虐殺について、日本人はどう思いますか?

 第一に、日本には今のところ「言論の自由」があります。ですから、例えばSNS上で「南京虐殺など無かった、中国の捏造だ」と書き込むことも、「民間人30万人殺した日本鬼子」と書き込むことも、特定の個人や団体を攻撃しない限り可能です。そこまで極端ではないとしても、「日本人は?」という質問に対して一括して答えるとすれば、「多様な意見があります」としか答えられません。日本政府の態度にしても時代とともに変化しているのですから。

 私自身がどう考えるか、は以下の通りです。
被害者の数は中国側の主張するほど多数ではなかったと思うが、南京において日本軍が相当数の非武装・無抵抗の人々を虐殺したことは事実であると思います。それについて、日本政府は適切な「謝罪」を行っていないのであり、中国側がそのことに不信感をもつのも当然と考えます。日本政府は早急に「国際標準での謝罪」を行い、その上で毅然として善隣友好を進めるべきだと思います。問題は日本語の「謝罪」という言葉がかなり独特の意味・語感をもつものであり。このような国際間の歴史的課題については問題を混乱させる言葉であることです。以下に、そのことについて詳しく述べます。
 南京での事実は認めても、謝罪要求について反発、反論する日本人は少なくありません。これは、日本語の「謝罪」という言葉がかなり独特の意味・語感をもつものであるからです。日本人にとって、謝罪とは「切腹」「土下座」から「頭を下げる」に至るまで、常に「瞬間的な行為」であり、「一度だけで充分」なこと、「謝ったら水に流して、無かったことにする」ことと考えるため、繰り返し求められると不当と感じるからです。
 だが、世界の主要国(の文化)では「罪を悔いる」こと、それを「表明すること」については永遠に続くと考える方が多数派であり、その合理的な解決方法として「反省と再発防止を明文化して誓うこと」が求められます。具体的には、戦争犯罪として遡ってでも「自国の国内法によって裁き・処罰すること」、過去の行為を正当化する、あるいは事実そのものを否定するような言動を「法令によって明確に禁止すること」、さらには学校教育を通じて「過去の過ちを後の世代に正しく伝えること」などです。ドイツがいずれも実行したのに対して日本は前二つは何も行っていない上に、教科書の記述を次々に後退させるなど、一貫して否定的です。このことに、中国も韓国も不信感をもっているのですが、日本人の多くはあたかも「土下座を繰り返せ」と言われたように感じて反発するという、不毛で不幸な状況だと思います。
 上で挙げたような(ドイツと同様な)政策を正しく実行した上で、土下座も頭を下げることも必要ない、毅然と対等に付き合って行けば良いのだと思います。


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