日本語・言語について
(Quora アーカイブ 2018/02〜/07)
2018年07月28日:職場でアジア系外国人の方と英語で会話できるか不安 |
2018年05月06日:日本の「生きにくさ、働きにくさ」の一因は敬語にある? |
2018年04月27日:外国語のカタカナ表記を原語発音に可能な限り近づけるべき? |
2018年04月26日:「国語」と「言語」の違いは何ですか? |
2018年04月13日:方言となまりには違いがありますか? |
2018年04月11日:報道で「習近平」をなぜ「しゅうきんぺい」と日本読み? |
2018年03月19日:「外人」が差別用語と主張されるようになったのはなぜ? |
2018年03月18日:日本人の先生方が私に話しかけないのはなぜですか? |
2018年02月25日:三菱東京UFJ銀行、英語と日本語で表記の順番が変わる? |
*Quora という Q&A サイトに投稿した「回答」。一部修正してあります。
■2018年07月28日:
Q:職場で初めてアジア系外国人の方と一緒に仕事することになりましたが上手く英語で会話できるか不安です。どうすれば良いでしょうか?
アジア系外国人と一括するのは乱暴です。東アジア、東南アジア、南アジアなど、地域によって文化が全く異なります。また、その方(達?)が直接には "どこから来るのか" によっても違います。アジア新興国出身で世界で働く人々には、母国以外で高等教育歴や業務歴をもつ人も多いからです。
さて、「上手く英語で会話できるか」ということですが、仕事上で必要な英語の能力は「相手が何国人であれ」同じですから、とりあえずトレーニングするしかないと思います。敢えて付け加えるとすると次の2点です。
1.アジア系の米国/英国人などではなく、アジアの国(シンガポール以外)からきた人であれば、先方にとっても英語は「母語ではない」はずです。それでも殆どの場合先方の方が英語は達者だと思いますが、母語ではないという1点で「条件は一緒」と考えましょう。互いに「外国語」として英語を使っているのだと割り切れば、少し気が楽になります。
2.仕事上の(異文化間)コミュニケーションでは、狭義の語学力以前に用件を「明確」に「率直」に伝えることがとても大切です。「Yes/No をはっきり言わない」「一番重要なことを最後に言う」「自分の意見(判断)なのか "誰か" の指示なのか、はっきり言わない」といった日本人固有の表現が、相手を困惑させ不信感を抱かせる原因となることが良くあるからです。英語が少々拙いことを気にするよりも、この点に注意していれば何とかなると思いますよ。
■2018年05月06日:
Q:日本の「生きにくさ、働きにくさ」の一因は敬語にあると思うのですが(人間関係に無意味な壁が出来る)、どう思いますか?
「日本の「生きにくさ、働きにくさ」の一因は敬語にある」とは思いません。また、敬語を使うことで「人間関係に無意味な壁ができる」とも思いません。どんな言語でも、家族や親しい友人との会話と仕事上の会話では「言い回し」「言葉遣い」が多少異なるのは当然だからです。
この QUORA での「敬語」をめぐる質問に屡々感じる違和感があります。それは、敬語には「丁寧語」「尊敬語(相手を敬う)」「謙譲語(自分を卑下する)」があり、今日では次第に「丁寧語」だけを使う傾向に変わってきているにもかかわらず、敬語すなわち「尊敬語」と「謙譲語」= "上下関係を示すもの" と決め付けて、否定的に論じるケースがとても多いことです。この質問もそうです。
もう40年以上社会人として働いていますが、(私の経験では)仕事上の通常の会話では、例え上司と部下の間でも「尊敬語」や「謙譲語」など使うことは殆ど無いと思います。それこそ非効率・無駄な手間だからです。だからと言って、上司から「タメ口」や「命令口調」で指示されたことは無いし、自分の部下に同様のことをしたこともありません。「山田部長、X社の件どうなりましたか?」と互いに「丁寧語」で話すのが普通で、「山田部長様、X社の件如何相成っているのでございましょうか?」などと言ったことも言われたこともありません。まして「山田、X社の件どうなってんだ?」などと言うことも(緊急事態などを除けば)通常あり得ません。家族や親しい友人以外の相手に対しては、「丁寧語」を使って話すことが社会人としての常識の範囲だからです。
日本の社会の一部に「尊敬語」や「謙譲語」に異常にこだわる人々が居ることは否定しません。それは例えば「上下関係ばかり気にする運動部」や「ヤクザ的な業界」で、そこでは確かに "生き難い" でしょうが、関わらなければ良いのではありませんか?
■2018年04月27日:
Q:外国語のカタカナ表記を原語発音に可能な限り近づけるべきだと思いますか?
思いません。
第一に、カタカナのような僅かな数の記号では、どんなに工夫しても「他言語の音韻を再現する」ことは不可能だからです。
第二に、例えば英語であっても、イギリス、アメリカ、オーストラリアでは(発音が)歴然と異なり、それぞれの国内でもまた地域によって大きな違い(訛り)があり、「原語発音」など決められないからです。
第三に、多くのカタカナ表記は、日本語に取り入れた外来語を「日本語として書き表している」ものだからです。ラテン文字で表記するインドネシア語で、コーヒーを 'Kopi' 、コンピューターを 'Komputer' と表記しているのと同じなのです。
外国語を「外国語として表記」したいのであれば、「原語のまま表記」するべきだと思います。中国や韓国、タイなど非ラテン文字の国については、それぞれの国が定めた「ラテン文字正書法」に従えば良いと思います。
■2018年04月26日:
Q:「国語」と「言語」の違いは何ですか?一つ国にたくさん公言語がある場合、その国の「国語」は何でしょうか?
まず「言語」というのは人類一般の「ことば」に対する普遍的な呼称であって「国語」などと対比することは無意味です。
一つの国家の中で複数の言語が日常的に使われていることは、一定以上の人口規模をもつ国の場合決して珍しいことではなく、その中で話者の人口が多い少数の言語を「公用語」と定めているケースが一般的です。その場合、例えば一つの国家の中で二つの言語グループが混住している場合は単純にその2言語を、複数の民族が地域的に棲み分けているような場合は地域別に各民族の言語と共通語を公用語とする、といったことが行われます。シンガポールはかつて福建語を中心とする華語、マレー語、タミル語という3言語を公用語としていましたが、現在は英語を唯一の公用語としています。国内に「唯一の公用語」しか存在しない場合、それを「国家語」と呼ぶこともできます。フランス憲法では「共和国の言語はフランス語とする」と定めていますが、日本国憲法にはそのような’条文はありません。
また「国語」というのは、「国家」が公式に唯一の公用語と定めている言語を指していて、日本と中国で使われている呼称です。日本の「国語」は、明治初期に国家としての共通語が必要であるとして、武家や商家を中心に使われていた「東京ことば」を元に創られ、学校教育を通じて普及したもので、その際の授業名が「国語」であったのです。言語そのものはむしろ「標準語」と呼ぶ方が一般的でした。その策定過程については、井上ひさしさんの「国語元年」という芝居(テレビドラマもあり)が面白く描いています。
中国の場合も、多民族国家を否定した訳ではなく、華語の中での地域的な方言を排除することを目的として北京官話を元に「国家普通語」を定め、学校での「国語」教育を通じて普及させています。一方で話者の多い広東語や福建語等については、国営テレビなどでも事実上使われており(字幕が入る!)、また各民族自治区における少数民族の言語使用も否定はしていないと思います。
■2018年04月13日:
Q:方言となまりには違いがありますか?
「方言」は、同一言語の中での多様性において、標準あるいは公用と定められた表現と異なるものに対するやや差別的な呼称です。
本来は「ことば」の地域的な違いで、例えば「疲れた(標準)」に対する「しんどい(大阪)」、「茶漬け(標準)」に対する「ぶぶ漬け(京都)」のようなケースです。 "本来は" としたのは、世代や社会階層、職業などによる特殊な隠語を含む言い回しについても「方言」と表現する場合があるからです。
なまり(訛り)は、別の地域で言葉を話すときに、自分の音韻がその地域での標準的な発音や抑揚、強弱などと異なってしまう現象です。
例えば「飴」と言うとき、関西では「ア」に、関東では「メ」にアクセントが来ることから、互いに相手方の地域で話すと "訛り" になりますが、自分の地域では "訛り" ではありません。
方言は同一の言語の中にしか存在しませんが、なまりは他の言語を話す場合にも「ドイツ語訛りの英語」などのように発生します。
■2018年04月11日:
Q:報道の中国人名の読み上げについて。 例えば「習近平」をなぜ「しゅうきんぺい」と日本音で読み上げますか?アイデンティティを尊重すれば「しーじんぴん」等が適切ではないですか?朝鮮・韓国人名は、「金正恩」を「きむじょんうん」と現地音で読み、「きんしょうおん」と読まないので違和感を感じます。
公式的には、日本と中国の政府間で「相互主義」という取り決めをしたことによります。すなわち、中国の人名・地名について日本では(日本式の)漢字表記+日本語読み、中国では日本の人名・地名について(簡体字の)漢字表記+中国語読み、ということです。
国家間のことですので、もし日本側が中国の現地読みに切り替えるのであれば、中国側にも同じことを求めることになります。日本には外国語であることを示す表音文字であるカタカナという便利なものがありますが、中国には無いので、相当大変なことになるはずです。つまり、安倍晋三という名前をアベシンゾウに近い発音で読んでもらうために「別の漢字で表記」する、というとんでもないことが必要になるからです。
日本は(できるだけ)現地音に近い(つもりの)カタカナ書きしてそのまま読む、中国は今のまま日本人の人名・地名は簡体字表記+中国語読みする、ということで良いのであれば可能かも知れませんが、それでも問題が無い訳ではありません。前の文で「できるだけ」とか「つもりの」と書いたことなのですが、中国語は(四声など)音韻の種類が日本語より多く、カタカナ書きしてしまうと見かけ上の同姓同名が多くなってしまうこと、日本人が「そのつもりで発音」しても中国人に全く通じない可能性があることなどです。
参考:「中国の地名・人名についての再確認」
■2018年03月19日:
Q:「外人」が差別用語だと主張されるようになったのはなぜですか?
「主張される」の主体が、在日外国人なのか日本人なのか不明です。また、いずれにしても、そのように「主張」している人は「決して多数ではない」ので、質問の背景・意図が不可解です。
本来「外人」「がいじん」と言う言葉に特別な差別性は無かったのですが、日本で「外人」を明らかに差別的・排他的な意味で使った一つの例は「プロ野球報道」の世界です。
同じチームの一員であるにも関わらず「助っ人」という蔑称で呼び、あたかも本当の仲間ではないと決めつけるのもプロ野球報道特有で、それが甚だしかったのは1980年代、成績が期待通りではない選手に対して、スポーツ新聞が「害人」という見出しを付けて嘲笑するようなことが日常化していました。また、「アジア系を含まない」という特異な用法も、台湾・韓国出身者と北米・中米出身者を区別するプロ野球報道で特に顕著なようです。実際に外国人選手の多くが「外人」と呼ばれることを差別と感じたかどうかは不明ですが、「害人」の意味を知らされれば当然傷ついたはずです。
一方、両親または片親が外国にルーツをもつ日本育ちの人々を敢えて「外人」と呼ぶのは、明らかにその「身体的外見」を理由とする差別的行為でしょう。かつてある俳優が「子どもの頃、街頭などで "ガイジン" と囃し立てられて悲しかった」、仕事においても、当然日本語ネイティブであるのに「ガイジンっぽく片言で喋れと要求されるのが嫌だった」と語っているのを見た記憶があります。
■2018年03月18日:
Q:日本でALT (外国語指導助手) として勤めています。日本人の先生方が私に話しかけないのはなぜですか?
あなたが「話しかけ」て欲しいのは、日本語・英語どちらなのでしょうか。
「英語で」というのなら理由は簡単、英語で話したくないからです。日本人の多くが、実は英語はある程度解り、簡単なことなら話すことも出来るのです。ところが、それ以上に多くの日本人が「片言で、あるいは下手な英語を話す」ことを怖れ、嫌がるという奇妙な傾向をもち、それも「そこに他の日本人が居る」と一層激しくなるのです。これは、 "ネイティブのような" とか "流暢な" ということに拘りすぎる英語教育に原因があるようにも思います。
「日本語」で話したいのなら、あなたの方から話しかけるべきです。他の先生方は、あなたとは英語で話さなくてはならないと思い込んでいるのかもしれないからです。
■2018年02月25日:
Q:三菱東京UFJ銀行は英語表記では「The Bank of Tokyo-Mitsubishi UFJ, Ltd.」と東京と三菱の順番が変わります。何か理由はあるんでしょうか?
日本では企業合併の際に、実質的な "勝ち負け" を見えにくくする、両方の会社の "顔" を立てる、といったことに拘り、とにかく「社名を残す」傾向があります。
特に、それなりの大企業同士が合併すると、両方の社名を繋げる "順序" まで問題になり、そのため日本語名と英語名で意図的に逆転させる、といったことまでおこなわれるのです。代表的な例は、日本名「三井住友銀行」、英語名 "SMBC" (つまり、スミトモ・ミツイ)などがあります。
元の全ての企業名を全部繋げてしまった結果、寿限無化してしまった保険会社なんていうのもあります。