情報・図書館について

(Quora アーカイブ 2018/02〜/08)


 

2018年08月18日:ある図書館が3万冊以上の書籍を焼却、他の手段は無かった?

2018年08月13日:公共図書館が新しいテクノロジーや社会変化に適応するには?

2018年06月27日:物事を正確に伝えている、信頼性の高いと思われる新聞社は?

2018年06月03日:近年の新聞やTV報道は左派寄りの偏向報道が多いか?

2018年05月31日:ネットでは、量が多いほど質の高い情報が見つかりやすいか?

2018年04月21日:NHKが印象操作をすることはあるか?

2018年04月09日:世界の正しい情報を知るには英語も分かる方が良いですか?

2018年03月28日:どこに行けば、科学論文やジャーナルを無料で読めますか?

2018年03月05日:日本は欧米と比べてジャーナリズムが遅れているか?

2018年02月24日:公共図書館は、いずれ無くなってしまうと思いますか?

2018年02月23日:ネット書店の台頭で街の書店が廃れてゆくのは悪いこと?

 


 
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 ■2018年08月18日:

Q:リンク記事によると、ある図書館が移転を理由に3万冊以上の書籍を焼却したそうです。他の手段は無かったのでしょうか?
記事リンク

 くだらない内部規則ではなく大人の常識に従えば、手段・方法はいくらでもあります。

 1.県立または市立の中央図書館に移管する。そのクラスなら3万冊程度は平気ですが、複数館で分担することも可能です。県立同士、県と市の間なら何の問題もありません。
 2.他大学の図書館に移管する。広く全国(さらには海外)に呼びかければ、引き取る大学は必ずあります。財産上の問題があれば「預ける」形もとれます。(上記公立についても同じ)
 3.無償で学生・教員に譲る。「持ち去り自由」にするだけで手間もかからない。
 4.無償で一般市民に譲る。上記と同じで「引き取りに来る」ことを条件にすれば費用もかからない。
 5.まとめて "売り" に出す。ネットで目録を公開すれば、全国・海外から注文が来る筈です。

 これらの手段を検討せず「焼却」した背景には、文化的資産についての極度の無知が根本であることは言うまでもありませんが、収蔵図書を「消耗品」ではなく「資産」として管理していたことがあるのではないかと思います。つまり、「資産を処分」する場合は完全に "滅却" しなければならない、という事務官僚の馬鹿げた「法令遵守」の結果ではないかと思うのです。
 多くの大学や公共の図書館では、何らかの事情で蔵書の処分を行う場合、帳簿上では「廃棄処分」をして、現物には小さなスタンプを捺すか "紙" を挟むなどして、上記の3または4とすることを普通に行っています。本の文化的価値を重視するからです。
 まあ、より収容冊数の少ない「新館」を建てた(あるいは計画した)という時点で、まともな大学ではないことが明らかで、いくら「県立」でも先は見えたと言うべきでしょう。

 8月20日追記
 18日に公表された県立大学の公式見解でも、「この除却に関しては、県内の公立図書館や大学図書館、県民の皆様などにお知らせして、広く活用の道を探ることも必要であったと考えています。」とあります。
重要なお知らせ - 高知県立大学ホームページ


 
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 ■2018年08月13日:

Q:公共の図書館が新しいテクノロジーや社会の変化に適応するためのアイデアを教えてください。

 「新しいテクノロジーや社会の変化に適応する」ということは、決して「盲従すること」ではありません。重要なことは、公共図書館がその使命、目的を見失うことなく、利用者に貢献して行くために必要な「適応」「対応」はどんなことか、という視点です。
 例えば、インターネット、特に SNS の普及に対して「図書館のサービスをどう変えるか」などと考えるのではなく、それらのシステムやサービスが「図書館の活動・機能にどう使えるか」と考えるべきであり、「使い道」が無いようであれば、無視すれば良いのです。具体的なアイデアとしては、私の極く個人的な意見ですが以下のようなことを考えています。いずれについても、少なくない図書館で既に実行されていることです。
 新しいテクノロジーの活用としては、まず、多くの(力のある)公共図書館で既に実行されている蔵書目録のネット公開があります。最大の問題は古い蔵書のデータの遡及入力ですが、これは頑張ってもらうしかありません。次に、これも既にバーコード化が進んでいる利用者および貸出管理のネット化があります。これによって返却の督促通知が自動メール化できる他、イベントや新着本の通知を同報メールで送って来館を促すといったことが可能になります。
 館内設備については、スマホが普及した現在、一時期のように館内にPCや動画用の端末を多数設置するようなことは誤りで、むしろ求められているのは「充電用コンセント」です。館内への公衆 WiFi の導入は賛否両論があり、私は否定論者です。理由は代用オフィスにする人物が必ず出てくるからです。
 新しいテクノロジーへの対応においては、職員の意識改革と並んで利用者への啓発・指導も不可欠です。実はタブレットや PC の館内での利用を嫌がる館が未だにあるようなのですが、それは非常識です。それよりも重要なのは「キイ入力音」への注意です。スマホやタブレット単体の場合問題無いのですが、ノートPC や外付けキイボードを使う場合の「騒音被害」が結構深刻だからで、音の出ないようにするカバーが普通に市販されているので、使用を義務づければ良いのです。
 社会の変化への対応においては、少子化・高齢化、一人二人世帯の増加があります。これまでのように、児童や親子連れを主たる利用者と考えていては駄目で、これからは高齢者が最大のターゲットになるということです。そこで重要なのは、高齢者の高学歴化、ホワイトカラー化といった「質的変化」です。つまり単なる寛ぎではなく、かなり高度な古典文学や専門書を好んで読む高齢者が急増しています。また、貸出よりも館内読書を好むため、児童書コーナーなどからの騒音を遮断できる「明るく居心地の良い閲覧室」が大切です。
 公共図書館にとって最大の課題と言うか "災厄" は、図書館について「全く無知な」管理職が行政組織上の上位に居て、往々にしてそれらの人々がコンピュータ屋や通信屋や中古書店に騙されて「新しい時代の情報サービス・・」などと言い出すことです。そんなことで見る影も無く破壊され、利用者に見捨てられてしまった図書館も決して少なくないのです。この "攻撃" に対しては、状況を利用者に率直に伝え、利用者と団結して立ち向かう他ありません。


 
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 ■2018年06月27日:

愛知県に住んでいます。新聞社について教えて頂きたいと思います。物事を偏りなく正確に伝えている、信頼性の高いと思われる新聞社はどちらになるでしょうか?

 「物事を偏りなく伝える」とはどういうことでしょうか? ある出来事を伝える記事において、例えば朝日新聞と産経新聞では(事実を伝える部分は同じでも)加えられた論評・解説や記事全体の "雰囲気" は違っているのが普通です。その違いについて、それぞれの読者(支持者)は互いに他方の記事を「偏っている」と批判します。重要なことは、記事について「自分の考えに対して記事が偏っている(いない)」と、それぞれの読者が "自分で" 評価しているのだということです。あなたは、それを「誰か(他の人)に決めてもらいたい」のですか?
 次に、「物事を正確に伝える」というのも、具体的にはどういうことでしょう? 「事実は言語化された瞬間に変化する」ということを考えてください。結局のところ上記の「偏り」と同様に、自分の価値観、自分の尺度に近い報道であるか、ということで評価しているのではないでしょうか? いわゆる「誤報」はどの新聞社にもありますが、それは後で訂正すれば良いことです。いわゆる "フェイク・ニュース" 批判も、実際に捏造されたニュースへの批判にとどまらず、(トランプのような)人々によって、反対に(事実であっても)自分に都合の悪いニュースを否定し罵倒するための言葉として使われているのです。
 全国民が一致して「信頼性が高い」とする新聞社が存在し、そこだけが「正確な・偏りの無い」ニュースを伝えている、などという状況は、世界で中国(新華社通信)や北朝鮮(労働新聞)などの独裁国家にしか存在しません。民主主義(国民主権)を実践しようとしている国であれば、言論・報道の自由は最も大切な原則の一つであり、多様な新聞の存在がその証拠だからです。
 読売・朝日・毎日・産経・日経という全国紙、中日新聞や東京新聞などの地域ブロック紙、そして各県にある「県紙」。それぞれが固有の理念や思想をもって活動しています。特定の個人にとっては、ある新聞が「偏っている」ことになるかもしれませんし、(ネットなどで)そう発言することもまた自由ですが、全く反対の評価をする人も当然居るのです。ですから、どの新聞を信頼するかは自分自身の考えで「選択」するしかありません。
 多くの人がそれを "みんなの意見" や "権威" に決めてもらおうとするようになったら、(決して大袈裟ではなく)民主国家の崩壊につながります。


 
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■2018年06月03日:

ここ数年間の新聞やTVメディアの報道には、左派寄りの偏向報道が多いと思いますか?

 思いません。非常に奇妙な質問です。
 「左派寄り」というのは、体制批判・政権批判的な色彩が濃い、社会主義的な主張が込められている、といったことを指すのだと思います。新聞(一般紙)の場合、社によって当然その「色合い」は異なり、現在では比較的 "濃い" のが東京新聞で、最も薄いのが産経新聞でしょう。その反対、つまり「右派寄り」で見れば新聞の並びも反転します。
 テレビ(地上波・BS)については、安倍政権の恫喝政策によって政権批判的な報道はすっかり影を潜めてしまったので、言わば全てが政権の求めるままに報道する「右派寄り」の状態にあります。
 「奇妙な」と書いたのは、「左派寄りの偏向報道」という言い方です。日本は一応自由主義国家ですので、政権批判はメディアの重要な役割であり、それが無くなってしまったら極めて危険な(まさに「大政翼賛会」)状態になってしまいます。


 
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 ■2018年05月31日:

インターネットでは、情報の量が多いほど質の高い情報が見つかりやすいと思いますか?それはなぜですか?

 「情報の量が多いほど、質の高い情報が "存在する" 可能性は高まります」が、それが「見つかりやすく」なることはありません。質の高い情報を見つけられるかどうかは、第一に「調べる側」の能力・技術、評価する力に依存するからです。能力・技術が高い場合に限って、情報の量が多いほど質の高い情報を入手できますが、低い場合には、情報の洪水に呑み込まれるだけとなって少しも良い状況にはなりません。
 ですから、質の高い情報をより多く入手したいのであれば、情報を探す能力・技術を鍛えること、見つけた情報を的確に評価する力を蓄えることが先です。触れる、探索する情報の量を「増やす」のはその後でしょう。


 
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■2018年04月21日:

NHKが印象操作をすることはありますか?

 第一段階の答えは「当然している」です。そもそも、あらゆるメディアの活動<情報の取捨選択、編集、加工>において、印象操作は不可避的に発生するからです。ですが、おそらく質問の意図はそのような本質論ではなく、NHKが「 "意図的・計画的" に印象操作を行っているか」ということだと思います。
 最も意図的・計画的でかつ明示的な印象操作は「CM」ですので、「CMが無いNHK」は中立・公正であると信じている高齢者なども一部には居ます。しかし、実はNHKはCM型の明示的な印象操作を大量に行っています。それはNHK自体に関するCMで、番組の間などに頻繁に挿入される「皆様のNHK」「NHKは公共放送」というキャッチ・フレーズです。「企業活動」としては許されるという見方もあるでしょうが、自社CMを流すために「特権的に割り当てられた電波」と、事実上税金に近い形で「国民から集めた金」を使うことが妥当か、という疑問を感じます。これは、総合テレビの午後の時間帯の多くがバラエティの形を装った「番宣番組(朝ドラや大河ドラマの宣伝)」で占められていることも含めてです。
 また、もっと批判的な意味で、明示的ではない印象操作を意図的・計画的に行っているか、という疑問もあると思います。私は「それも行っている」と考えています。具体的には、他の方も挙げている岩田明子という解説委員の発言が代表的なもので、政権の言い分を無批判に伝えさらには積極的に擁護するような報道が、第二次安倍政権以降急激に増え、一方で政府の政策に批判的な報道が激減していると感じます。
 さらに、特定の事実・情報だけを選択的に "伝えない" という形の、見え難い(故に悪質な)印象操作も強く疑われます。具体的には、国会での議論を伝える際に、重要な指摘を含む野党の質問をカットして政権側の答弁だけを流す、あるいは首相官邸や国会議事堂附近での市民デモについて一切伝えない、などといったことが挙げられます。


 
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 ■2018年04月09日:

世界の正しい情報を知りたくてQuoraに登録しました。正しい情報を知るにはやはり英語も分かるようにした方が良いですか?

 必要な情報を入手するためには「英語」が使えた方が良いことは言うまでもありません。世界的なデータベースなども主要なものはほとんど英語であり、他言語の論文や情報でも重要なもの、評価の高いものは例外なく英訳されているからです。
 一つ気になること・・・。「正しい情報」という期待は危険です。特に、政治・経済・社会・文化などの問題については基本的に「唯一の正解」というものは存在しないからです。例えば、今ヨーロッパの多くの国で「難民をどこまで受け入れるか」を巡る対立が激しくなっていますが、「正しさ」で判断することは不可能で、できるだけ(事実に関する)信頼できる一次情報を集めた上で「自分の態度・意見」を自分で決める(選択する)しかないのです。
どこかに完成版の「正しい情報」が有るはずだと思いすぎると、煽動者やカルトの "餌食" になりかねません。


 
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 ■2018年03月28日:

Q:どこに行けば、科学論文やジャーナルを無料で読めますか?

 一つの方法ですが、ご自宅か仕事場の近くでなるべく大きな大学を探します。
 その大学のホームページから大学図書館のページに入り、「学外者の利用」あるいは「市民開放」といったメニューを探します。そこに書かれている手続きを行えば、その大学の学生や教員でなくても図書館に行って学術文献を探して読むことができます。図書館ですから、読むだけなら当然無料です。
 決して全ての大学が行っているわけではなく、また「同じ市区の居住者に限定」「利用者カードの発行は有料」など、一定の条件をつけているケースもありますが、最近では多くの大学図書館がそのような地域サービスを行っています。


 
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■2018年03月05日:

日本は欧米の先進国と比べてジャーナリズムが遅れていると思いますか?それはなぜですか?

 「遅れている」というより「健全に発達・機能していない」と思います。
 その原因は、
 第1に、日本人の多くが「国家社会が "民主的に" 生き続けるためには健全なジャーナリズムが必要」ということを認識していないこと。未だに「政府の悪口ばかり言ってけしからん」などと普通に口にする人々、スクープによって大統領を失脚させたワシントン・ポストが、だからこそ今でもアメリカで信頼されていることを理解できない人々が少なくないのです。
 第2には、ジャーナリズムの中で働く人々でも、権力に負けない個人、言論・報道の責任、ということに関して、本当の意味で "覚悟" を決めている人が少ないこと。これは、ジャーナリズムの中心に企業化した大きな組織が増え、そこで働く人々が単なる会社員・企業経営者ばかりになって、権力に擦り寄ることで会社や自分の地位を守ろうとする傾向が強くなったしまったことによります。
 第3に、政治権力の中枢に居る保守系の政治家の多くが、本音では「真の民主国家」など望んでいないこと(自民党の改憲案を見れば明確です)。その結果、様々な形でジャーナリズムに圧力をかけ、それが効果を発揮していること。国会議員の集会で、特定の新聞を「潰さなければいけない」などという発言が公然となされるのが現状です。
 日本の報道の自由度ランキングが、かつての上位から世界の72位まで転落したのは、特定の "悪者" のためではなく、上記の1〜3が相互に影響しあい自己増殖してきた結果です。今なんとかしなければ、NHKが、モデルとしてきたBBCではなく、朝鮮中央テレビと “そっくり同じ” になるのもそう遠くないと思います。


 
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 ■2018年02月24日:

Q:公共図書館は、いずれ無くなってしまうと思いますか?それはなぜ?

  "公共" 図書館と "公立" 図書館とは微妙にずれるのですが、ここでは、いわゆる「県立。市区町村立などの、一般市民を対象とした図書館」のことと考えます。
 「無くなってしまう」の意味がよくわからないので、次のように分けて考えてみます。

1.市民の多くが利用しなくなってしまうため、存在する必要が無くなる可能性。
 それは無いと思います。
 特に子どもと子育て中の親、高齢者などにとっては大切なのですが、今後、本当の意味での生涯学習が必須となる一般の成人にとっても、とても重要な公共システムであり続けるはずだからです。
2.財政上の都合や、一部の偏った価値観から、設置者である行政が図書館というシステムを破壊、あるいは消滅させようとする可能性。
 その可能性は、残念ながら少なからず有ります。既に、市立図書館の公共性、システムであることの意味を理解できず、特定の「新古書企業」に丸投げした結果、その企業の不良在庫本の置き場兼レンタルビデオ屋のような施設にしてしまった町もあります。
3.インターネットの普及で「図書館のようなもの」は不要になる、という可能性。
 「印刷物など全て無くなる」というのと同じくらい馬鹿げた幻想です。

 最後に、日本では図書館という困った訳語が一般化していますが、世界共通の名称は「ライブラリー」です。そしてそれは「収蔵される資料」「その資料を収集・管理し、利用者に提供する専門スタッフ」「資料を安全に保管し、スタッフが仕事し、利用者に提供するための施設」という3つの要素からなるシステムです。さらに、図書館ネットワークという形で、地域ー国ー世界にわたって繋がってもいます。決してただの「館」や「貸本所」ではないのです。


 
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 ■2018年02月23日:

Q:アマゾン等インターネット書店の台頭によって街の書店が廃れてゆくのは悪いことだと思いますか?

 「街の書店」と言っても性格はかなり多様です。
 最も目に見えて減ってしまった書店は、個人経営が中心のいわゆる「町の本屋さん」ですが、こちらを壊滅に追いやったのはアマゾンや電子書籍ではありません。
 これらの店の経営を支えていたのは、第一に、近隣の住民への定期購読雑誌の販売・宅配でした。ところが、定期購読雑誌の中心が子ども・学童向け雑誌だったため、少子化と子どもの活字離れの影響をまともに受けることになりました。また第二の柱は、週刊誌・文庫本の店頭販売だったのですが、最初はキオスク、次いでコンビニが週刊誌・文庫本を販売するようになったことで、さらに経営基盤を失ったのです。
 実際に、アマゾン等の影響を最も受けているのは、大都市の都心・副都心にある、地方では県庁所在地の中心部にあるような「一定規模の書店」の方です。ただ、影響は大きいのですが、中でも大手はそれなりに体力もあるので、独自にネット通販に乗り出したり、特色を強めるなどして対抗しています。
 さて、「廃れてゆくのは悪いことか?」という設問ですが・・・書店と言えども「商業者」ですから、需要が減れば店を畳むのは当然と言う他ありません。地方都市などで、町に書店がゼロという状態を防ぐために、行政が支援に乗り出す動きもありますが、市民の側がそれに応えて経営が軌道に乗れば良いですが、そうでなければいずれは撤退ということになるでしょう。つまり、廃止反対と叫びながら、実際には誰も利用しない地方ローカル線のように。


 
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