「人種」概念と人種差別
はじめに. "race" と「人種」
ユネスコ等で用いられる "race" と、日本における「人種」では、その実体的な意味が異なる。
"race" は、人間集団あるいは個人について、身体的形質を主たる要素とはするが、それに加えて言語、宗教、出自など、文化的・社会的要素をも包含する言わば「種類」と訳すべき概念である。
これに対し、日本で用いられる「人種」は異常なまでに身体的形質ないしは「血筋」に限定された概念であることが特徴的である。
ここでは、身体的形質を中心とする "race" 概念の発生と近・現代における変容を[1]、日本における「人種」概念の問題点を[2]として述べる。
[1] "race" 概念の変容
1.集団的な「同質ー異質」認識は古くから存在したが、古代文明においても中世ヨーロッパ、イスラム世界においても、重視されたのは「政治的帰属」や「宗教の共有」など変更可能な区分であり、例えば「肌の色」を理由とする「絶対的区分」が行われた形跡は認められない。すなわち、身体的形質など変更不可能な要因を根拠とする区分・分類は近代の産物である。人種区分についての考えを最初に述べたのはドイツの哲学者カントが1785年に著した「人種とは何か」とされる。
2.人間集団を身体的形質を用いて分類しようとする最初の体系的な試みは、ヨハン・フリードリッヒ・ブルーメンバッハが1775年に発表した「人類の自然変種について」であると言われる。彼はその中で人類を「コーカサス」「エチオピア」「モンゴリア」「アメリカ」「マレー」の5種に分類している。
3.このような「人種分類」は、20世紀初頭において明らかに「差別」と直結するものとなり、その代表的な事例の一つがエルスワース・ハンチントンによる「気候と文明」(1915)である。この本では、白人と黒人の能力における「本質的な差」が一見客観性を帯びたデータとともに述べられている。
4.このような「人種論」への反論は、アシュレイ・モンタギューによる「人類の最も危険なる神話」(1942)から始まる。彼はここで人種分類が恣意的なものに過ぎず、ヒトの変異は流動的であること、したがって固定的で明らかな境界をもつ「人種」はあり得ないことを論じた。
5.発表当時はこのモンタギューの意見は孤立無縁であったが、その後の英米の人類学の発展によって次第に認知され、1950年の「人種問題についてのユネスコ専門家声明」は彼を起草者とするものとなった。さらに、1960年代後半からは系統発生論が発達し、形態学的な分類は衰退、生物学的な人種概念は否定されることとなった。ユネスコもその後1952,64,67と声明を出しているが、64年のモスクワ宣言が明確さに欠けるとして、オランダのライデン大学による修正意見なども公表されている。
1964年のUNESCOモスクワ宣言はこちら。
Proposals on the Biological Aspects of Race (Moscow, August 1964)
6.尾本恵一は1997年の "The Rise and Fall of the Biological Concept of Race." (Japan Review 9)で、自然人類学における人種概念の位置付けの変容について論じ、生物学的な人種概念は破綻したと断言した。彼は「ヒトの分類自体、有用でないばかりか一般大衆の誤解を招き、生物学的人種概念は破棄すべきである」と提言している。
7.アメリカ自然人類学会は1996年、アメリカ人類学会は1998年、人種についての公式見解を発表し、いずれも科学的な根拠を欠く、社会的差別的な用語であるとした。両声明の全文が公開されている URLを文末に示す。
[2]日本における「人種」概念の問題点と差別の現状
1.日本においては、前述のブルーメンバッハの人種分類が明治期の尋常小学校教科書に既に記載され、今日の社会科(地理)教科書にまでその影響が残っている。学問的に否定されているばかりか、一般的に日本(人)が強く意識し、追随しようとする傾向の強いアメリカにおいて教育の場から追放されている事項を、未だに頑なに教え続けること自体が興味深い現象である。
2.日本が国連の人種差別撤廃条約に加盟しながら未だに批准しない、すなわち国内法を制定しようとしないことが世界的に批判の的となっている。2001年のダーバン会議において、人種差別撤廃委員会から日本政府報告に対する最終所見が出されたが、その内容は「1.在日韓国・朝鮮人、2.被差別部落出身者、3.アイヌ民族、という集団に対する「差別」の懸念を示し、さらには「人種差別」を禁止する実効的な法律の制定を強く促すものであった。
3.これに対して、従来から日本政府代表は、少なくとも2.、3.は「同じ日本人」だから人種差別にはそもそも該当しないと主張して、失笑を浴びている。日本においても「白人」「黒人」と並べて「ユダヤ人」「アラブ人」という呼称が一般的に使われているように、今日、世界的な共通認識として「形質」だけでなく「出自」や「宗教」による差別も "Racism" と定義されていることへの無知・無理解である。
4.その後、国連に新設された人権理事会の[現代的形態の人種主義、人種差別、外国人嫌悪および関連する不寛容に関する特別報告者]ドゥドゥ・ディエン氏が、その責務に基づき2005年7月3日から11日に日本を訪問した。その結果として発表した報告書においても、先の問題は改善されていないことが指摘され、日本政府が国内的に人種・民族等による差別を禁止する具体的な法令、特に人種差別を禁止する法律を制定しようとしないことを強く批判している。
5.また、ドゥドゥ・ディエン氏は国連総会への報告(2006年9月)の中で、従来の琉球出身者に対する国内的な差別とは別に、現在の沖縄における米軍基地と市民生活の状況自体にも「差別性」があることを指摘するとともに、自身の沖縄訪問に対して日本政府が不快感を表明したことも暴露している。
(国連総会報告書の日本語訳 、PDF)
6.もう一つ、日本が「人種差別」として批判されていながら国内的に認識していないのが、いわゆる「日系人」労働者である。日本は単純労働者としての外国人の入国を法律で禁じているが、証明書をもつ「日系人」のみは受け入れている。国籍による権利の制限は全ての国にあり「差別」ではないが、日本人の「血をひく」者だけを公式に優遇するのは「人種差別政策」以外の何ものでもないからである。
7.日本では「ユダヤ人」「アラブ人」のように欧米的な "Race" 区分をも使いながら、一方で極度に「血」にこだわった「区分」「差別」が実在している。また、いわゆる「人種」にとどまらず「民族」や「出身国」によるステレオタイプ化も極端に激しいことが、テレビのスポーツ中継に見られる。ステレオタイプやエスニック・ジョークは各国にあるが、日本のスポーツ報道等におけるそれは異常であることを、J.G.ラッセルはじめ多くの研究者が指摘している。
8.日本ではまた「血液型」による分類・性格の決めつけという奇妙な行為が若者の間に広く見られる。さらには多くの中学・高校において、「健全な身体に健全な精神が宿る(ことが最も大切)」という文言の後半()内がきれいに消去されて生徒に伝えられるなど、身体的要因を精神的あるいは知的要因よりも優位に置く傾向が根強く認められる。欧米に比べ、日本において「人種」という言葉が突出して生き残っていることは、こういった日本人の性向と無縁ではないと考えられる。
おわりに
結論として、
1.生物学的概念として「人種」という言葉は存在し得ない。
2.人間集団を指す概念としても「人種」を使う事はできない。
人類学および関連分野において、人種は「人種差別」や「人種偏見」といった「否定的概念」を示す言葉としてのみ存在する。すなわち、本稿で述べているのは、実際に個人又は集団を「区分」する概念として「人種」は生命を失ったということであり、それでも使われるとすれば、それは根拠の無いステレオタイプや偏見としてである、ということなのである。
そしてもう一つ、このような「用語」に関する無関心、鈍感さと背中合わせに、日本国内における実質的な人種差別の横行と、そのことに対する無理解、不作為という、先進国の中では特徴的な現状があるのである。
*本稿は寄藤の協力のもとに中川裕美(名古屋大学大学院)が作成した報告に、寄藤がさらに加筆修正したものである。[初稿:2007 最終改訂:2023.01.01]
文献
岡本有佳・他編,2007,「特集 現代日本のレイシズム」,『季刊 前夜』,11号,前夜
竹沢泰子編,2005,『人種概念の普遍性を問う』,人文書院
日本民族学会,1997年,「特集 いま人種・民族の概念を問う」,『民族学研究』62巻1号,日本民族学会
日本民族学会,1999年,「特集 「民族」「人種」概念の現在」,『民族学研究』63巻4号,日本民族学会
ヘンリ,スチュアート,2002年,『民族幻想論』,解放出版社
ベネディクト.R./筒井・他訳,1997,『人種主義 その批判的考察』,名古屋大学出版会(原著は1940)
ラッセル,J.G.,1991,『日本人の黒人観 問題は「ちびくろサンボ」だけではない』,新評社
ラッセル.J.G.,1995,『偏見と差別はどのようにつくられるか 黒人差別・反ユダヤ意識を中心に』,明石書店
レヴィ=ストロース.C,荒川幾男訳,1970,『人種と歴史』,みすず書房(原著は1952)
WWWによる情報および URL
ユネスコの取り組み
"UNESCO has made a series of statements on race."
UNESCO on race
アメリカ人類学会声明
"American Anthropological Association Statement on 'Race'"
AAA Statement on Race
アメリカ自然人類学会声明(1996)
"AAPA Statement on Biological Aspects of Race"
>Biological Aspects of Race(2019年改訂版)
人種差別撤廃条約の条文(外務省による日本語訳)
あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約