民族・差別
(blog アーカイブ 2005〜2008
2008年4月:「人種」概念と人種差別 |
2006年12月04日:礼拝禁止 |
2006年06月01日:定住外国人 |
2005年11月10日:日本の人種差別 |
2005年04月20日:史料復刻と差別表現 |
吐き気を催すような事件というのが実際にあるものだ。
まず、何よりもこの研修生が引きずり込まれた過酷な環境についてである。「文書」の形で明るみに出たことで新聞記事になったのだろうが、こんなことを平気で行なっている企業の中で、記録に残らないいじめ、嫌がらせがどれだけあったかと考えるといたたまれない。例えば、イスラム教徒であれば豚肉は食べられないから、もしも食事に豚肉ばかり使われたらすぐに栄養失調になってしまうだろう。(そのかわり毎回一人分は“浮く”ことになる)
第二に、この経営者の醜悪さに身の毛がよだつ。“無知”“無理解”などという逃げ道を断じて与えてはならない。ヨーロッパの一部で起きているイスラム教徒いじめのニュースなどをどこかで見て、早速とりいれたのに違いないのだから。もともと根強い下劣な差別意識(理由など何でも良い)や嗜虐性に、格好のネタが見つかった、ということだろう。もしも、この“縫製企業”にアメリカの取引先から見学に来た若手の白人社員が食事の前に十字を切ったとしても、それを禁止するなどとは考えもしないだろうと思う。単なる長時間労働や賃金ピンハネならば、(許すべきことではないが)ここまで不愉快なことではない。
第三に、吐き気を催すのは、この経営者を“正しく罰する”法律がこの国には無い、ということである。法務省は国際人権規約など持ち出しているが、なによりも日本国憲法の規定を完全に踏みにじっているではないか。改めて驚愕するのは、憲法が基本的人権についてあれほど真剣に細かく定めているにもかかわらず、それを犯す行為についての法整備が徹底的に不完全であるという事実である。例えば、この経営者の行為は国際標準では“立派な人種差別”に当たるのだが、日本には(国連の再三の勧告にもかかわらず)人種差別禁止法が存在しないのである。
「日本には“人種差別”は存在しないから」人種差別禁止法など要らないと主張してきた政府は、きっと「労働(あ、研修か?)条件の是正勧告」程度でごまかすことにするだろう。経営者には「・・な、国際人権規約なんてのもあって、いろいろうるさいから・・」とでも説得するのだろうか。
東日本の縫製工場、イスラム教徒研修生に「礼拝禁止」
外国人研修・技能実習制度で来日したイスラム教徒のインドネシア人女性の受け入れ条件として、東日本の縫製工場が日に5回の礼拝や断食を禁止する誓約書に署名させていたことが、わかった。
読売新聞が入手した誓約書では、宗教行為のほか、携帯電話の所持や外出など生活全般を厳しく制限している。
法務省は、入管難民法に基づく同省指針や国際人権規約に反した人権侵害行為の疑いがあるとしている。
誓約書は、禁止事項として〈1〉会社の敷地内でのお祈り〈2〉国内滞在中の断食〈3〉携帯電話の所持〈4〉手紙のやり取り〈5〉家族への送金〈6〉乗り物での外出――の6項目のほか、午後9時までに寮に帰宅、寮に友人を招かないという2項目の「規則」も明記している。
(読売新聞) - 12月4日17時24分更新
民主制をとる国家の場合、何らかの方針の選択・決定にあたっては常に「そのことを決める権限」の所在を明確にすることが必要である。そして、それが「国民主権」という大前提のもとで公明正大に行われているか、ということを監視し、問い直し続けることが不可欠である。
それを一瞬でも怠ると、官僚組織は必ず“緊急”とか“高度に専門的”などという口実のもとに暴走を始め、一部の政治家と組んで“官僚独裁国家”や“警察国家”への道を推し進めようとする。
「定住外国人の在留者数に“上限”を設ける」という案が法務省のプロジェクトチーム(行政制度上は、公式には何の権限も責任も無い)でまとめられている、という報道があった。(下記)
「日本という国が定住外国人をどのように受け入れるのか」というのは、社会・経済・内政・外交・文化・教育などあらゆる面に広く関係する、言わば“くにのかたち”に関わる大きな問題である。
それを、「法務省内の入管、刑事、民事各局の担当者で構成」するような非公式のグループで議論し、あたかも国家的意思決定の重要な素案のようにして出すと言うのである。これはまるで、日本の「貿易のあり方」を「税関職員」が決める、というのに等しい無茶苦茶な話である。
人口比3%、定住外国人に上限=日系人在留「定職」要件に−法務省PT
入管行政の改革を検討している法務省プロジェクトチームの責任者の河野太郎副大臣は30日、同省で記者会見し、近くまとめる改革案について、総人口に対する定住外国人の上限を3%とすることを盛り込む考えを明らかにした。また、日系人の在留条件を「定職と日本語能力」に改めることも打ち出すとしている。今後、各省庁や経済界などの意見を聞き、法改正も検討する。
プロジェクトチームは河野氏の下、法務省内の入管、刑事、民事各局の担当者で構成され、昨年末から検討を重ねてきた。
(時事通信/Yahoo 5月31日1時1分)
日本社会の「差別」指摘 国連人権委報告
【ニューヨーク=長戸雅子】国連人権委員会のディエヌ特別報告者(セネガル)は七日、国連総会第三委員会(人権)で差別問題に関する報告を行い、日本についても在日韓国、朝鮮人への差別や同和問題が存在すると指摘した。
この報告に中国代表は「人種差別は日本社会にあり、特定の政治家、悪名高い東京都知事らの人種差別主義的な発言がある」と日本批判を展開した。さらに韓国代表も日本社会に残る「差別への懸念」を表明、北朝鮮の代表も日本を批判した。
ディエヌ報告者は七月の訪日調査を踏まえ、在日韓国、朝鮮人や中国人のほか、アジア、中東、アフリカからの移住者も「差別の対象になっている」と述べ、人種、外国人差別を禁止する法整備や教育を日本政府に求めた。さらに「外国人差別的な東京都知事の発言に日本政府がどういう立場を取っているのか説明を求めたい」と中国の主張に全面的に沿った見解を示した。
こうした日本批判に対し、高瀬寧・国連代表部公使は「何らかの形の差別が存在しない国はほとんどないと考える」と述べ、教育分野で差別解消に向けた取り組みを行っていることを強調した。
(産経新聞)-11月9日2時52分更新
この問題で重要な点は3つ。
第一に、国連そのものを始め、世界の多くの国にこれだけ知られている日本国内の「差別」について、「多くの日本人がその実態を“知らない”あるいは正確には知らない」ということ。
第二に、各国の代表が明らかに「この差別状況についての、日本政府の“思想”と具体的な“行動”」を問題にしているのに対して、日本の国連公使は「教育分野で差別解消・・・」と問題をすり替えていること。
第三に、より多くの日本人が、日本国内の差別状況を「これだけ世界が“知っている”」ことを“知らない”ということ。
第一の点は、確かに“教育”の問題であると言えるが、教科書や教育現場から“人権”や“平等”という言葉を消滅させようと躍起になっているのが、当の日本政府なのだから、事態が改善される可能性は低い。大学の教員が頑張るしかない。
第二の点は、目立たないが重要である。つまり、この公使は(意訳すれば)「より一層(馬鹿な)国民を(政府が)教育して、差別解消に向けて・・・」と答えているのだから。自分たち高級官僚と国会議員の“差別意識”や、それにともなう政治的“不作為”(例えば「人種差別禁止法」を絶対に作らない、等)を無かったことにして、“国民”に問題があるかのように言うのである。これは、歪んだ企業体質そのものを問われている時に、「職員に対して厳しい指導・教育を・・」と言い続けたJR西日本の村上某という不気味な重役と同じ「確信犯的詭弁」である。
第三の点も根が深い。現実に、日本はかなり重要で“目立つ”国になっているのに、当の日本人は“日本(国内)のことなど世界は知るはずがない”と思い込む、ということが大変に多くなっている。
第一と第三の両方が重なると、一層みっともない状況となる。例えば、北海道の先住民であったアイヌの人々が“民族”としての権利をどのように奪われ、文化的に崩壊させられたのかという問題。あるいは、在日韓国・朝鮮人の人びとに対して日本の社会がどのように差別的な対応を続けてきたかという問題など。これらについて、世界の多くの国のインテリ層がかなり正確に知っているのに、日本でこれらの事実を正確に知る“一般市民”は極めて少ないのが現状である。
復刻された重要な史料に「差別的表現」が含まれていた場合、どのように扱うのが適切なのか、という問題は常に発生する。この問題について、小さいが注目すべき記事があった。
かつての南海大地震の記録である「南海大地震誌」の復刻にあたって、いわゆる「不適切な表現」が含まれており、それについて高知県が陳謝、訂正を申し入れたのに対して部落解放同盟高知県連が逆に批判した、という毎日新聞高知版の報道である。
県は、1.(差別的表現の存在について)確認を怠ったことを陳謝し、2.問題部分の「修正を行う」ことを申し入れた。
これに対して、部落解放同盟側は、1.差別があったことは歴史的事実であり、「消す」という対応は良くない、2.注釈などの配慮をすべきだった、と批判して再度の話し合いを申し入れている。
この「差別があったことは歴史的事実」という指摘と「消すな」という主張は重要である。これまで多くのケースで、単なる「部分削除」や極端な場合は「発行とりやめ」という結果に終わることが少なくなかったからである。
「過去に目を閉ざすものは・・・」というワイツゼッカーの名演説を引用するまでもなく、「全部無かったことにする」という対応からは、何の反省も改善も生まれない。
また、大きな災害の際には、自然現象としての破壊や損失以上に社会・経済的な要因による二次的な被害(とその格差)が大きな問題となるのであり、被差別地域(集団)の存在そのものは災害被害の実態に深く関わっていたはずである。その最も極端な最悪の事例が関東大震災における朝鮮人虐殺であることは言うまでもない。
差別に関係する記述の削除や安易な修正は、当時社会的に弱い立場に置かれていた人々がどのように「被災」したか、という実態を見えにくくするという危険も孕んでいるのである。
優れた知事が率いる高知県が、今後どのように取組むのか注目したい。
南海大地震誌:復刻版の不適切表現、県が解放同盟に陳謝 /高知
昨年末に発刊された「南海大地震誌」の復刻版に一部不適切な表現があった問題で、県と部落解放同盟県連との話し合いが19日、高知市内で開かれた。
県側は復刻版に掲載されたある地域について、指摘や県の調査で差別的な表現が2カ所あったことを説明。問題の部分の修正を行うことや、復刻版の作成について十分な確認などを怠ったことについて陳謝した。
解放同盟側は「差別があったことは歴史的事実で、何でも消すということはよくない。注釈などの配慮をすべきだったのではないか」などと県の姿勢を批判、再度の話し合いを申し入れた。【内田幸一】
(毎日新聞) - 4月20日朝刊