阿賀野川・歴史と社会
2.河口が移動した
2.1 寛永10年に起きた事
■それまで
寛永年間以前の阿賀野川は,馬下で平野に出た後著しい河道変遷をくりかえしながら松ケ崎に達し,ここで砂丘に遮られて西へ転じ,S字状に曲って蒲原に至り,現在の信濃川河口付近で今より西方を流れていた信濃川と並んで日本海へ注いでいた。
河口の右岸に沼垂の津(沼垂町)があり、有力な湊として栄えていた。
<出典:新潟ふるまち Official Guide Web>
■寛永10年秋
1633(寛永10)年秋の洪水で両川を結んでいた加茂屋堀が決壊し阿賀野川の水が流入,水路が拡大して阿賀野川が信濃川に合流してしまった。<1631(寛永8年)とする説もある>
水量が多く,流送土砂の少ない阿賀野川の合流によって,信濃川の東流路(寄居島、白山島の東側)は堆積していた土砂が流されて水深が増加した。一方,新潟の津があった西流路はさらに土砂の堆積が進んだため、新潟町は寄居島、白山島に移転することとなった。
最も大きな影響を受けたのは従来の阿賀野川河口で、河口に大量の土砂が堆積し,1680年ごろには砂州によって閉塞してしまった。このため、沼垂町は元の蒲原の津に移転して町勢を維持しようとしたが、次第に新潟町に勢力を奪われて行った。
下の図は延宝時代(1673-1681)とされる古地図(写図)である。
<出典:越後古図/市島家文書>