阿賀野川・歴史と社会

2.河口が移動した

2.2 享保16年に起きた事

■放水路計画
 享保年間に至り,新田開発に力を入れていた新発田藩は阿賀野川右岸低地の悪水排除のため,松ケ崎で砂丘を切って日本海と結ぶ水路を開き,加治川,阿賀野川の放水路とする計画をたてた。
 これに対し、長岡藩は流量の減少による新潟港の水位低下と、放水路に新しい港が開かれて従来の新潟の独占的地位が失われることを恐れて強硬に反対したが、幕府の調停により1730(享保15)年に工事にかかり年内に開通した。
 水路全長約700m,帽50〜130m,木の堰で流量を調節するようになっていた。当時作成された「享保松ヶ崎堀割図(写図)」を下に示す。

享保松ヶ崎堀割図

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<出典:越後古図/市島家文書>

■決壊
 ところが,翌1731年の融雪洪水と夏洪水で水路は完全に決壊拡大し,幅270m,水深6mに達し,阿賀野川本流となってしまった。
 このため,松ケ崎〜新潟間の旧流路は干上がり,流量の減少によって信濃川の河口では水位の低下と堆砂がおこり,港の水深は著しく減少した。危機に直面した新潟町は幕府に対し,流路の復旧工事を新発田藩にさせるように迫った。
 以後,小阿賀野川の水刎杭普請(1734年〜),津島屋川原堀割の開削(1742年〜)など多くの工事がすべて新発田藩の負担によって実施されたが,すべて失敗に終わり,阿賀野川の河口は松ケ崎に固定されてしまった。
 この結果、新潟港は永年にわたって河口の土砂堆積になやまされることとなり、1741(寛保元)年には入港船舶1,980と僅かの間に港勢は衰えている。更に、土砂による河口の閉塞のため,新潟平野の信濃川流域では洪水氾濫も激化した。
 下に示す地図は、ここまでの変遷を地形図上にまとめたものと、阿賀野川の旧河道が明示されている治水地形分類図である。

河道変遷図

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治水地形図

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