木曽三川と濃尾平野 洪水とのたたかい
■江戸期以前の治水
奈良・平安時代の頃,濃尾平野では集落への洪水の進入を防ぐため、「築流堤」「尻無堤」と呼ばれる半円形の土手が築かれていた。鎌倉時代になると,それは次第に「掛回堤」「潮除堤」と呼ばれる集落を囲む形に発達し、「輪中」が形成された。
輪中は、今日のように「川を堤防の間に閉じこめる」のとは反対に、「集落が堤防の中に隠って」川は周辺を自由に乱流させる、というものであった。
図3.輪中の分布(国土交通省、2012)
徳川時代になると、1610年、徳川義直が犬山から弥富まで48kmにおよぶ徳川藩領を囲む堤防(御囲堤)を完成させた。
1700年,海津町高須に御三家に次ぐ名家の「高須松平藩」が置かれたが、1707年の宝永地震で領地が地盤沈下、1716年から1740年の間に32回の洪水被害を受けることとなった。
1739年、高須松平藩主の宗勝が尾張藩主となり、美濃側の改修に着手、幕府は諸藩に費用と労力を提供させる「お手伝い普請」を開始した。
1747年の二本松藩を始めに1753年(宝暦3年)の薩摩藩、1766年の長州藩を経て1861年まで、計16回の「お手伝い普請」が行われた。
いわゆる宝暦治水の工事は、1754年(宝暦4年)2月に着手された。
この最初の三川分離案は、これより20年前に紀州流治水の始祖として知られる井沢弥惣兵衛為永によって計画されたと言われる。
工事の中心は「油島締切工事」「大槫川洗堰工事」「逆川洗堰締切工事」であったが、工事は難航、わずか1年で工費は約40万両、死者は80余名に達し、1755年5月、幕府の公示検分が終了した。
これだけの犠牲にもかかわらず、三川分流は完成しないまま、さらに工事の結果洪水被害が拡大した村もあり、流域の村落間の対立は深まった。図4に宝暦治水の工区分担を示す。
図4.宝暦地水の工区区分(国土交通省、2012)