木曽三川と濃尾平野 洪水とのたたかい

■明治期の河川改修・治水工事

 明治時代に入ると、地元の知事や輪中の堤防取締役、地域の有力者などの請願が活発になり、三川分流工事への世論が一層高まるに至った。
 1877年(明治10年)、既に来日して淀川の改修計画に参加していたオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケに対して木曽川改修計画の立案が指示された。
 デ・レーケは1878年2月から3月にかけて木曽三川下流部を調査し、現状と改修の構想をまとめ、「木曽川下流の概説書」を提出した。彼はその中で、三川の完全分離、上・中流部での植林や砂防堰堤の設置などが必要であること、さらに正確な現況図を作るべきことなどを提案している。

 改修計画書は、デ・レーケの指導のもと、日本人技術者も加わって作成され、1886年(明治19年)に完成した。
   目的は
     、1.洪水防止
      2.堤内地の排水改良
      3.舟運路の改善

   内容は
      1.三川の完全分流
      2.佐屋川の廃川
      3.立田輪中に木曽川新川を開削
      4.長良川の派川、大槫川・中村川・中須川の締切
      5.高須輪中に長良川新川を開削
      6.油島喰違洗堰の完全締切
      7.船頭平閘門の設置
      8.木曽川、揖斐川の河口に導水堤を設置
      9.水門川・牧田川・津屋川の揖斐川への合流点を下流に移設
   というものであった。

図5.木曽三川改修計画図(明治19年)

改修計画図

ここをクリックすると大きな図が表示されます

 改修計画は1887年(明治20年)に着工、1900年(明治33年)4月に第1期・第2期の工事が完了し「三川分流成功式」が行われた。
 その後の10年を見ると、下の表に示す通り、この改修は水害の軽減に多大な成果を挙げたことが明らかである。

表1.被害状況の比較(明治19年)

被害状況比較表

 引き続き、第3期工事(明治33年〜38年)は、揖斐川筋の三川締切工事と船頭平閘門の設置で、閘門は明治34年に完成した。
 また第4期工事は、揖斐川河口導流堤の築堤とケレップ水制の設置で、明治39年〜44年に実施された。
 かくして、1912年(明治45年)明治改修工事は完成した。
 下のグラフに見られるように、洪水防止効果は明らかであった。

図6.洪水防止効果(明治19年)

洪水防止効果

前に戻る ページ先頭に戻る   
目次に戻る