北上川の流路は通常は定まっていたであろうが、これら河川の流域は広大な遊水地帯となっていた。このため、大雨になるといくつもの流路ができ、大洪水が発生し、流域は氾濫を繰り返していた。
流路を固定し、遊水の滞留流域を減らすことが、この地の開発には不可欠であった。
2.慶長10年(1606年)〜の流路
<白石(伊達)宗直による改修>
慶長9年(1604年)当時、北上川は浅水地区(現在の登米市中田)から南西に転じ迫川に合流していた。
宗直は、この分流域の氾濫を防ぎ、穀倉地にするため、東の二股川に一本化を図った。このため、大泉村(現登米市中田上沼)小名倉山から水越村長谷山に至る北上川右岸に3657間(6.65km)の堤防を築いた。あわせて、浅水村曲袋地区で北上川の川底を掘り下げ流路を整えた。
慶長13年工事了。新堤防は、相模守宗直の名にちなみ「相模土手」と呼ばれるようになった。
3.元和2年〜寛永3年の流路(1617年〜1627年)
<川村孫兵衛重吉による改修>
「孫兵衛による改修」については、次のような諸説、指摘もある。
・宗直の改修で登米からの下流が急流となり、舟航に堪えなくなったので、元和年代(1615〜24年)に柳津村字小麻(現登米市津山柳津)に締切堤防を築き、北上川本流を寺崎・神取方面(現在の旧北上川)に変えたとするもの。
<「北上川古今沿革調」宮城県土木課明治20年頃>
・川村孫兵衛によって柳津・飯野川間の流路が締め切られたとするもの。
<「宮城縣史」第二巻1966年>
・既に自然荒廃し水勢減退していたので本流ではなくなっていたとするもの。
<「石巻市史」第二巻1956年>
工事を指揮する川村孫兵衛(河南地区、八雲神社蔵)
4.その後
その後の『石巻の歴史』(石巻市発行)では、次のような解釈を採っている。
・川村孫兵衛以前の北上川水系の舟運を示す文書<「かさいおおさきとめの日記(慶長5年)」>によれば、柳津〜神取間に4船着場が記されているが、柳津〜飯野川間には見られないこと、この流路は川村孫兵衛による改修前から開かれていたことから、すでに本流は柳津〜神取ルートになっていたと考えるべきである。
・同様に、鹿又〜石巻の流路についてもすでに開かれていたのであり、それを川村孫兵衛が改修したと捉えるべきである。
孫兵衛によって、和渕山(173.9m)と神取山(56m)とを結ぶ山の稜線が開削されたが、その狭い区間を北上、迫、江合の3河川が合流して流れることから、上流の湿地帯は大雨ごとに氾濫に見舞われることとなった。