北上川の舟運と河川改修

■5.明治時代の舟運

 明治時代になると、南部藩、仙台藩が消滅し、地租の貢納が廃止されて総ての税は金銭納入と改革されたので、年貢米の輸送はなくなった。そのため官営の米穀倉庫やその運輸に利用していたヒラタ舟が払い下げられて回漕業が民間に移されたが、産業発展の流れの中で人や物流の需要は高まっており、北上川舟運の重要性はますます高くなった。

 そうした中、盛岡の斉藤市太郎や、黒沢尻の阿部嘉兵衛らの手による舟運が開始された。盛岡新山河岸から石巻港まで月三回の運航であった。  1885年(明治18年)、盛岡の財界人の出資による民間会社、「北上回漕会社」が創立。東北本線が開通する前の時代に、盛岡から石巻までの貨客船事業を開始、一時は藩政時代を凌ぐ繁栄を謳歌した。
 本社を盛岡市中の橋(現岩手銀行中の橋支店)に、支店を石巻に置いた。石巻港の船着場は、現在の住吉公園に存在していた。  この航路は、黒沢尻まで小繰舟、狐禅寺まで平田舟(大型ヒラタ舟)、石巻まで川蒸気船という、3種類の舟を駆使して運航されていた。うち、蒸気船は、狐禅寺と石巻の間を毎日運航し、大いに活用された。

 明治24年(1891)に東北本線が開通すると、小繰舟や平田舟を使った盛岡ー狐禅寺間の舟運は、すぐに衰退に向かったが、狐禅寺ー石巻航路は、大船渡線開通まで地域の足として生き延びた。特に、気仙沼街道の起点にあたる薄衣は、一ノ関から気仙沼へと向かう乗客の中継点となり、石巻航路のみならず、狐禅寺 - 薄衣航路も設定され、大いに賑わった。


 
前に戻る ページ先頭に戻る 次に進む
目次に戻る