信濃川と新潟平野の変遷
■6.河川改修の効果--農業土地条件の向上
大河津分水路の開通によって信濃川の洪水氾濫が解消されるようになったので,西蒲原の土地条件を根本的に改良することが可能となった。
大河岸分水路建設決定の1つの動機となった1896(明治29)年の洪水の概況を,新潟県庁が洪水直後に作成した『新潟県水災状況報告書』より抜すい要約すると次のようである。
7月20日それまで数日間降り続いた雨が豪雨に変り夜まで続く。7月21日長岡,与板.大郷で信濃川破堤,刈谷田川,猿橋州も破堤し,長岡町,中野島村,与板町が冠水,中之ロ川と信濃川の間の大島村は輪中全域が水没した。7月22日長岡,三条間の信濃川右岸地域は完全に水没.この日信濃川左岸の横田の破堤によって中之口川と西川の間の西蒲原一帯が水没.湛水深は最大4.5mに達した。また,中之口川と信濃川の間の中蒲原白根郷も水没した。23日長岡町付近では減水の様相が見えたが,西蒲原,中蒲原の湛水は続いた。7月24日西蒲原に湛水した巨大な水量は最下端の新潟市平島で堤防を堤内地より逆に破壊し,すでに水位の下っていた信濃川に突入,新潟市に2度目の洪水をもたらした。この後復旧にかかったが,平野低部の湛水は1ケ月以上に及び,この年の稲作は壊滅状態となった。
これに近い規模の大洪水が明治以前には数年ごとに発生,土地条件整備の妨げとなっていたのであるが,大河津分水路開通以後は一度も発生していない。
この洪水危険の解消を背景として,前述の西川,新川の整備が進み,更に動力揚・排水機の急激な普及も加わって,西蒲原の土地改良は大いに進展したが,その中核は鎧潟の干拓であった。鎧潟は従来南部上卿の悪水を集め,さらに北部下郷の用水源となっていた。
この鎧潟の縮小・消滅過程によって生み出された耕地は約 270ha,関連して周辺の3000haの土地の排水条件が改良された。
この干拓事業を中核として西蒲原の土地改良は急速に進み,かつての湿地地帯は大規模な水田の展開する近代的農村地帯となった。作付面積の変化で見ても、比較的高地に位置する三島郡,古志郡と比べ,平野部に位置する中蒲原,西蒲原の両郡とくに西蒲原郡の増加が著しい。
一般的にいわれるように初期の稲作が取水の容易な中・小河川の上・中流部で始まり,次第に低地へ移行したものとすれば,平野の大部分を低湿地が占める新潟平野での稲作の展開は比較的新しいと考えられる。
水稲の反当収量の全国における新潟県の順位を見ても上位を占めるようになったのは第二次大戦後である。新潟県の水稲反収量は明治年間停滞を続けた後,大正年間に上昇に転じ,大正末期すなわち1920年代から急激に上昇,1935(昭和10)年ごろには全国平均を上回っている。しかし,北陸に位置する富山,石川,福井の各県を完全に上回ったのは昭和20年代前半であった。
この間の経過の背景には前述のような排水改良(放水路開削),用排水系統の整備(動力揚水機設置を合む),耕地整理,土地改良という過程による作付面積の拡大と生産力の向上があり,更に大河津分水路の開通による洪水の解消というインパクトが働いていたのである。
■7.まとめ
1633年阿賀野川が信濃川へ合流したため,信濃川河口の新潟港は水深を増し,日本海屈指の良港として栄えた。しかし,新田開発を意図して新発田藩によってつくられた水路に1731年洪水が流入,阿賀野川は信濃川と分離した。このため新発田藩領の排水は著しく進んだが,長岡藩領の新潟港は水深が浅くなり,港勢が衰えた。更に信濃川河口の土砂堆積により,新潟平野の洪水氾濫が激化した。
そこで根本的対策として立案されたのが大河津分水であり,1927年に工事が完了した。他に,西川をはじめとする中小河川にも多くの放水路が整備され、さらに新潟市西部に関屋分水路が建設された。
大河津分水路建設後土砂の供給量が減少したため,また地盤沈下の影響もあって,信濃川河口の東西海岸(新潟市)で海岸浸食がおこり,年平均 5.5〜10mの速度で打線が後退した。このため,各種の海岸浸食防止工事がなされ,次第に効果をあらわしてきている。一方,大河津分水路河口の寺泊町では新たにデルタが形成されてきた。
大河津分水路および西川など中小河川の分水路の建設により,新潟平野中南部の洪水氾濫は解消され,鎧潟をはじめとする湖沼,湿地の干拓,乾田化が著しく進んだ。更に用排水系統の整備,耕地整理の進展により明治年間停滞を続けた水稲反収量は大正年間に上昇に転じ,1935年ごろには全国平均を上回り,戦後,北陸各県中第1位となって今日の "米どころ新潟" が誕生したのである。