信濃川と新潟平野の変遷

■5.河川改修にともなう平野地形の変化

 1907(明治40)年起工の信濃川改修工事には,大河津分水路の建設と共に河口付近の整備が含まれていた。これは河口西側に導流堤を設置することと河口部の浚渫であった。この時建設された導流提は,それ以前の信濃川流末工事(1896〜)で設けられ,このころまでに沈下,流失した石積突堤の再建としてコンクリート造りで建設したものであり,現在のものとほぼ同様の位置・形状であった。また,浚喋は水深7.5mを維持しようとするものであって,1910(明治43)年着工,1924(大正13)年には 5.7mまで浚喋,1927(昭和2)年までに累計約 880×104m3の土砂を除去した。

 明治中期,河口突堤の設置とほぼ同時に西側海岸の浸食が始まった。浸食は突堤のきわから始まり,しだいに南へ拡がり激化した。突堤元付から600mの水戸教浜では1889〜1955(明治22〜昭和30)年までの66年間に360m,年平均5.5m汀線が後退した。1955年ごろまで浸食の範囲は突堤から6km以内に限られており,1955年からこの区間に離岸堤が設置された。
 この離岸堤は当初地盤沈下による沈下・流失が続いたが,地盤沈下の減速と共に安定し,内側に土砂の堆積がみられるなど効果があらわれはじめた。河口北東側の海岸においても,大河津分水路開通ごろから浸食が始まり,東突堤から東方3kmにわたって年平均 10m程度の速度で打線が後退した。この北東側海岸にも1967年から離岸堤が設けられた。

 この海岸浸食についてこれまで原因としてあげられたものは次のとおりである。
 イ.河口突堤による沿岸流の変化。
 ロ.大河津分水による流量の減少に伴う土砂供給量の減少。
 ハ.天然ガスの採掘による地盤沈下。
 ニ.大規模な浚漢による士量平衡バランスの狂い。
 実際にはイ〜ニの各々が絡み合っていたものと考えられるが,その詳細なメカニズムは未だ十分には解明されていない。

 一方,新たに河口が開かれた寺泊町白岩では分水路が運ぶ土砂のため河口にデルタが形成され,陸地はいちじるしく前進した(図3)。
 1954〜1959(昭和29〜34)年の新潟県の調査によると,分水路の流送土砂量は洗堰における流入量が年平均 898×104t,大河津橋付近の掃流量が同じく 3.8×104tで合計 902×104tに達する。
 逆に信濃川にはこれだけの土砂が流れ込まなくなったのであり,同調査によると大河津から旧信濃川への流入土砂量は年平均 257×104tとなっている。このことから,前述の新潟海岸の浸食の諸原因の中で大河津分水路建設のもつ比重は大きいと考えられる。

図3 大河津分水河口付近における平野の形成

寺泊1   寺泊2   寺泊3

1911年

 

1953年

 

1968年

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