阿賀野川・歴史と社会
2.河口が移動した
2.3 その他
■土地改良
阿賀野川右岸低地には、加治川、新井郷川、新発田川など多数の中小河川があったが、それらは海岸の砂丘に遮られて西に流れ、全てが阿賀野川に合流していた。そのため、洪水時には阿賀野川からの逆流氾濫が起きるなど、劣悪な土地条件であった。
新田開発に力を入れていた新発田藩は、この阿賀野川右岸低地の悪水排除のため,松ヶ崎堀割「事件」より前の享保6年(1721)には、紫雲寺潟を干拓するために落堀川を開削している。
また、明治から昭和初期にかけて加治川放水路、新井郷川放水路が開削され、阿賀野川下流域の右岸側では排水条件が大幅に改善された。その概要を下の図に示す。
阿賀野川本川については、松ヶ崎新河口に移動後も低湿地での乱流が大きな問題であった。暴れ川は洪水の度に被害をもたらし、江戸時代より改修工事が行われたが、主に新田開発や舟運の利に関わるもので、その状況は明治期になっても変わらず、本格的な治水工事が行われるのは大正時代になってからである。