阿賀野川・歴史と社会
3.只見川の電源開発
3.2 その経緯
■戦中から戦後に
1938年(昭和13年)、第73帝国議会に「電力国家管理法案」が上程され、翌1939年4月1日に国家総動員法と共に電力管理法・日本発送電株式会社法が成立した。これに伴い特殊法人として発足した日本発送電株式会社は出力5,000キロワット以上の水力発電所および出力1万キロワット以上の火力発電所をほぼ例外なく管理下に置き、かつ同規模の新規電力開発を電力会社が実施することを事実上禁止した。
ところが、日本発送電は終戦後の1948年に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) より過度経済力集中排除法の指定を受けた。以後松永安左エ門を委員長とする電気事業再編成審査委員会の検討を経て1951年(昭和26年)ポツダム政令に基づく電気事業再編成令が発令され、日本発送電は全国九電力会社に分割・民営化された
■開発の始まり
1950年(昭和25年)国土総合開発法が成立、全国22地域が総合開発を重点的に実施する特定地域に指定され、その基本計画である特定地域総合開発計画が策定された。
福島県では、関東と東北に対し広域的な電力供給を行うためとして1951年(昭和26年)12月、只見特定地域総合開発計画が発表された。
さらに翌1952年(昭和27年)には電源開発促進法が成立し、電力新規開発を強化するため、高碕達之助を総裁とする電源開発株式会社が発足し、只見川の開発に乗り出すことになった。
これに伴い1953年(昭和28年)8月5日、総理府告示第155号として只見川電源開発計画が(電源開発の事業として)公表された。
只見特定地域総合開発計画の発表さらに電源開発の参入により、只見川と阿賀野川は日本を代表する電源地帯に成長する第一歩を踏み出した。