北上川の舟運と河川改修
■4.仙台伊達藩の舟運
伊達政宗は、川村孫兵衛重吉(1575〜1648) を召し抱え、元和9年(1623) から寛永3年(1626)、北上川の改修工事に取り組んだ。(後述)
この工事により、南部盛岡からの舟運が可能となり、新田開発も進められ、河口の石巻港は藩米の集積地となって仙台藩、南部藩、一関藩が御蔵を建て、江戸廻米の基地として諸国の廻船と川舟で賑わい、仙台藩経済の中心地となった。
仙台藩は慶長14〜15年(1609〜1610)頃から、年貢米の余剰分を藩が農民から買上げる独特の買米制度を導入していた。
仙台藩は元々、広大な領地の割合に収入が少なく、財政が困難であったが、産米は他領にみられない良質であったので、北上川を利用してこれを江戸に送って買却し、その利益を藩の財政に入れるというものであった。藩は農民に対して春先に買米の前金を渡し、農民は収穫の秋に米を藩に収め、藩が北前船により江戸・深川に廻送したが、米価の相場は農民が受け取る前金の約2倍にもなり、藩財政を潤わせたという。
江戸深川に集まる仙台米は貞享年間(1684〜1687)に30万石を数え、江戸の消費米のほぼ半ばを占め、本石米と呼ばれたという。