北上川の舟運と河川改修
■3.南部盛岡藩の舟運
南部藩(盛岡藩)は元々、荷物を馬や牛で奥州街道を通って江戸に運んでいたが、北上川の開拓により、流域領内の年貢米や穀物を大消費地の江戸や大坂に舟で大量に運び、現金化して藩財政を盛り立てた。
特に、北上川と和賀川が合流する奥州街道の宿場町・黒沢尻(くろさわじり=現北上市)は、遠野や大船渡からの品物も集まり、南部藩の御蔵奉行や川留番所なども置かれた重要な河川港だった。
黒沢尻より上流は、水量も少なく小型の小操(おぐり)舟が使われた。小繰舟は、長さ約16m、幅約2.7m、舟底が浅く造られ、急流や浅瀬の多い盛岡・黒沢尻間で使用され、4斗3升(約65kg) 入りの米俵を100俵(およそ7t)くらい積んでいた。下図は小繰舟の復元模型(岩手県立博物館)。
黒沢尻から下流、石巻へはヒラタ(舟偏に帶)舟で運んだため、黒沢尻が荷物を積替える拠点となっていた。
ヒラタ舟は長さ約18m、幅約5m、黒沢尻で小繰舟の荷を積みかえ、黒沢尻と北上川河口の石巻との間を往復し、4斗3升(約65kg)入りの米俵を350俵(およそ23t)ぐらい積んでいた。下図はヒラタ舟の復元模型(岩手県立博物館)。
17世紀後半には、小繰舟で上流部の御蔵米を黒沢尻まで運び、ヒラタ舟に積み替えて石巻に、さらに石巻からは千石船(北前船・積載量150t以上)で、多くの産物を江戸や大阪に運ぶ体制が定着し、幕末まで続いていく。
藩所有の小繰舟やヒラタ舟は、管理・補修までを含め、商人らが預かり、その操船は民間の船頭や乗組員によって行われた。ヒラタ舟は船頭1人と乗組員4人、小繰舟は船頭1人と乗組員3人で操船にあたった。
盛岡から石巻まで(200Km)3〜4日で下ることができたが、流れに逆らう上りは、漕ぐ力だけでは、なかなか前に進まず、場所によっては舟に綱をつけて陸から引いて進めるため、舟引道(ふねひきみち)と呼ばれる細い小道がつくられた。そのため石巻から盛岡まで14日と行きよりも、帰りは3倍以上の日数がかかった。
通常、ヒラタ舟は4艘一組の船団をつくり出港した。水量が足りないときなどは小繰舟もついていき、所々で米俵を積み替えてヒラタ舟の重量を減らしていた。