信濃川と新潟平野の変遷
■2.阿賀野川の信濃川への合流と分離
寛永年間以前の阿賀野川は,馬下で平野にでた所で著しい河道変遷をくりかえしながら松ケ崎に達し,ここで砂丘にさえぎられて西へ転じ,S字状に曲って沼垂に至り,現在の信濃川河口付近で今より西方を流れていた信濃川に隣接して日本海へ注いでいた。
1633(寛永10)年秋の洪水で両川を結んでいた細い水路が決壊し阿賀野川の水が流入,この細い水路が拡大して阿費野川が信濃川へ合流することとなった。
水量が多く,流送土砂の少ない阿賀野川の合流によって,信濃川河口部では堆積していた土砂が流されて水深も増加した。一方,従来の阿賀野川河口には土砂が堆積し,1680年ごろには砂州によって閉塞してしまったため,それまで流域各藩の米蔵が置かれ,新潟と勢力を競っていた沼垂は港の機能を失い,衰退の道をたどった。
これに対し,新潟は日本海屈指の良港となり,1697(元禄10)年の記録によれば水深は港中央で7m,両岸で4.5 〜6m,年間の入港船舶数は約3,500,取り扱い貨物高約46万両に達したといわれる。
享保年間に至り,新田開発に力を入れていた新発田藩は,松ケ崎で砂丘を切って日本海と結ぶ水路を開き,加治川,阿賀野川の放水路とする計画をたてた。
これに対し長岡藩は流量の減少による新潟港の水位低下と,放水路に新しい港が開かれて従来の新潟の独占的地位が失われることを恐れて強硬に反対した。
結局幕府の調停により、木の堰で流量を調節する水路全長約700m,帽50〜130m の水路として、1730(享保15)年に工事にかかり年内に開通した。ところが,翌1731年の融雪洪水と夏の洪水で水路は完全に決壊拡大し,幅270m,水深6mに達する阿賀野川本流となってしまった。
このため,松ケ崎〜新潟間の旧流路は干上がり,流量の減少によって信濃川の河口では水位の低下と堆砂がおこり,港の水深は著しく減少した。
危機に直面した新潟町は幕府に対し,流路の復旧工事を新発田藩にさせるように迫った。このため,小阿賀野川の水刎杭普請(1734年〜),津島屋川原堀割の開鑿(1742年〜)など多くの工事がすべて新発田藩の負担によって実施されたが,すべて失敗に終わり,阿賀野川の河口は松ケ崎に固定されてしまった。このため,新潟港は永年にわたって河口の土砂堆積になやまされることとなった。
1741(寛保元)年には入港船舶1,980と僅かの間に港勢は衰えている。更に河口閉塞のため,新潟平野の信濃川流域では洪水氾濫が激化してきた。これに対する対策として生まれてきたのが大河津分水路の建設計画である。