信濃川と新潟平野の変遷
■3.分水・放水路の建設 (信濃川本流)
河川の洪水氾濫を防止するために,河幅を広げるかわりに,別に新川を開さくして,洪水量の全部あるいは一部をこれに放流することを分水といい,この新川を分水路(放水路)とよぶ。
新潟平野の治水に最も大きな役を果たしたのはこの分水路の建設である。このうち,信濃川本流の水を直接海に出すのは大河津分水路と関屋分水路である。
3.1 大河津分水
信濃川本流を大河津付近で分流し,日本海に短絡させる計画は江戸時代から考えられていた。享保年間寺泊の本間数左衛門等が幕府に請願したのが文献に残る最古のものであり,その後,江戸末期までに数回の請願がなされている。しかし,これらはすべてその工事費用の巨額さ,工事予定地農民の潰地反対,新潟町を中心とする水位低下による舟運障害に対する反対などのため具体化しなかった。とくに新潟港への影響を理由とする反対は大きかった。
分水計画は1868(明治元)年の大洪水を契機とする『七藩連名建白書』によって具体化しはじめた。しかし,明治維新直後の社会的混乱と新政府の財政窮乏などの原因により,一度は工事を決定したものの本格化することなく,1875(明治8)年計画は中止となった。この間1871,73年に実施された外国人技師による調査も共に『新潟港の水深維持のため分水は不可』とするものであった。
1886(明治19)年水運重視の低水工事である信濃川河身改修工事が着工された。これは大河津分水を行わないものであった。ところが,このころから各地で鉄道が開通し,それに伴う舟運の衰退がおこった。そこへ1896(明治29)年,史上未曾有ともいわれる洪水が発生,分水工事の必要性が再確認され,反対論も下火となった。
1907(明治40)年分水工事を含む信濃川改修工事が決定,1909年分水路工事が始められた。工事中,第三紀層である寺泊層が地辷りを3回以上おこすなどの障害があったが,1922(大正1D年に通水,1924年の地辷りの修復を行って工事が完了したのは1927(昭和2)年であった。水路は延長約10km,幅は分流点の720mから次第に狭くなり河口付近で270mであった。
このように,この分水路は普通の河川とは縦断型,横断型ともに逆の形を示すものであり,このため通水後から激しい河床の洗掘をおこした。この河床低下のため,完工直後の1927年6月分流点の自在堰が突然陥没し,全流量が分水路へ流入するに至った。応急締切り後,改めて引上げゲート式の可動堰を建設,1931(昭和6)年に完成した。
3.2 関屋分水
新潟市西部に分水路をつくる計画は文政年間に横山太郎兵衛が土地改良等を目的として提唱したのが始めといわれる。1909〜1911(明治42〜44)年には西川左岸の坂井輸郷の内水排除を目的として関屋から海岸までの1673mの開さくが行われた。この工事は小規模であり,漂砂による河口閉塞ですぐ効果はなくなったようである。
現在のような関屋分水案が具体化したのは昭和に入ってからである。当初は新潟港の埋没土砂対策の1つとして検討されていたが,1960年ごろからむしろ地盤沈下による洪水危険性の増大と海岸浸食対策として検討されるようになった。
1964年新潟県の中小河川事業として着工されたが,1964年新潟地震による津波で新潟県はこの復旧に全力をあげねばならぬ情況におかれ,建設大臣田中角栄の尽力もあって,一級汎用に格上げ建設省の直轄工事に移管され,1972年に通水,1974年には信濃川水門が竣工した。
この工事によって新潟港(現西港)はほとんど河口港としての性格を失い,むしろ掘込港湾に近いものとなった。かくして,大河津分流点以下の信濃川はむしろ人為によって支配される巨大な用排水幹線と言うべき状態となった。