信濃川と新潟平野の変遷
■4.分水・放水路の建設 (中小河川)
新潟平野中央部の西側すなわち,中之口川の左岸地域は構造的沈下運動の軸にあたり,河床の高い中之口川と海岸の丘陵,砂丘に囲まれた袋状の低地となっている。このため南部の悪水を集める鎧潟がそのまま北部の用水源になるといった低湿地であった。この地域の中央を流れる西川はかつて大河津付近で信濃川から分かれ,地蔵堂で三島北部の排水を集めた島崎川を合わせ,更に巻で左岸の弥彦山や砂丘地帯の排水を集めた失川,広通江を合わせ,最後に亀貝で右岸の三潟地区の悪水を水門を用いて引き入れ,平島で信濃川に再度合流していた(図2(l))。
この地域で最初の放水路は1818(文政元)年に着手され1827(文政10)年に完成した『新川掘鑿・西川底樋工事』である。
この工事によって中央部(中之口川と西川の間)三潟地区の排水は早過川から西に転じて西川の下を潜り,内野の砂丘を切り開いた水路を経て日本海へ放流されることとなった。
この底樋は当初木製3門,河幅15間(27m)であったが1830年代(天保のころ)に5門,25間(45m)に拡大され,さらに1897(明治29)年,1905(明治38)年の水害を機に煉瓦,花崗岩,コンクリートによる樋が1913(大正2)年に完成した。
一方,西川の左岸地域は約3000haの低湿地であり,古来,郷新田下江,矢作下江,六間口下江,矢川によって西川に排水していた。西川は河床が高くかつ洪水時は信濃川からの流入量が増加するため,矢川の合流点では逆流洪水が頻発し,この付近は水腐地と化していた。これに対し,矢川の水を直接日本海へ放流する案が古くからあったが,技術,費用両面の困難から実施されるに至っていなかった。
1933(昭和8)年ようやく『県営樋曾山陸道工事』が着手され,1935年完成,これによって1944年までに矢川,御新田下江,矢作下江が西川から分離して,直接日本海へ排水するようになった。当初の陸道は予算の制約で小断面(20m3/sec)であったので,戦後になって南側に新樋曾山陸道が設けられた。すでに大河津分水路の開通によって洪水の危険から解放されていたこともあって,西川西部の土地条件は大いに向上した。
これ以前,西川では1904(明治37)年に信濃川との分流点に閘門が設けられたが、その後,1922(大正11)年大河津分水の通水によって、上流部の島崎川と分離,さらに1935〜1944年にかけての前述の矢川他の分離によって流量が減少した。このため下流部では用水不足がおこり,対応策として上流部の断面拡張を行い,さらに鎧潟干拓と関連して失嶋揚水機場から水をひいた。
1954年新川の底樋を廃し,西川に水路橋を設けた。また、西川の余水吐が左岸から新川左岸を結んで設けられ,西川もまた日本海に直結する放水路を持つこととなった(図2(2))。
かくして1904年以降における西川の排水面積は約5,000ha減少し,これに対し用水面積は6,000ha増加し,西川は用水河川と変わった。